象徴というより広告塔だったひと

死刑をめぐる人びとの空回り気味な努力について。


無実の叫び虚しく・・・死刑反対運動の象徴デービス死刑囚、刑執行 米国 写真6枚 国際ニュース:AFPBB News

【9月23日 AFP】米南部ジョージアGeorgia)州で21日、警官を殺害したとして1991年に殺人罪で有罪判決を受け、以来20年間にわたり無罪の主張を続けて、世界の死刑廃止運動の象徴ともなった黒人のトロイ・デービス(Troy Davis)死刑囚の刑が執行された。

 人種差別による冤罪(えんざい)の可能性があるデービス死刑囚の事件は、世界の死刑反対派の間でよく知られており、刑の執行にはジミー・カーター(Jimmy Carter)元米大統領ノーベル平和賞を受賞した南アフリカデズモンド・ツツ(Desmond Tutu)氏、ローマ法王ベネディクト16世(Pope Benedict XVI)なども反対していた。

無実の叫び虚しく・・・死刑反対運動の象徴デービス死刑囚、刑執行 米国 写真6枚 国際ニュース:AFPBB News

えー、なんというか、スガスガしいほど問題の焦点が拡散していますよね。まぁだからそれぞれの現状に不満を持つ人が各方面からそれぞれに集まってきて大きな運動となっているんでしょう。しかしそのキメラ的な合成による大きな運動だからこそ、また逆に現状を改革するほどの現実的な流れとならないんじゃないのかとも思うわけです。
つまり、厳密に言えば『死刑制度』と『人種差別』と『冤罪・誤認逮捕』の問題は別のお話ですよね。もし彼が黒人ではなく白人であったり、死刑判決ではなく終身刑だったり、あるいは決定的な証拠と共に裁判が進んでいたとしたら、おそらくこうした事態にはなっていなかったんじゃないかと。


もちろん、それぞれはそれぞれに議論を進めていくべき問題ではあります。唯一絶対の真理など到底望めない私たちであるからこそ、広範な議論による合意と妥協は欠かせないのだから。
しかしそれを個別にやるならともかくとして、それぞれ個別でやっても結論を出すのが難しいのに、一緒にくたにして解決できるとでも思っているんでしょうかね? この死刑囚の人は上記三要素が揃っていたからこそ救われるべきだと言われているようにしか個人的には見えないわけなんですけど。
それぞれに個別の問題で苦しんでいる人は当然居るとして、しかしだからといって「三拍子揃っている」彼だけを救うなんて事は当然できないわけで。それをする位なら初めから根本である制度・システム・社会そのものを変えなければまったく意味がない。


制度に欠陥があるならば修正すればいいのだし、これで大衆の興味を得られないのならばそういうことでしかない。「いつかそれで自分が痛い目にあっても知らないよ?」と説得するだけでこの世の不義や悪徳を無くせるのならば誰も苦労はしないわけで。大抵の人は誰だって自分が実際に痛い目に会うまで理解できないのだから。なのでそれを見ても僕としては、そうかがんばれ、以外に掛ける言葉が見つかりません。
その意味で今回のように「機会」を捉えて騒ぐだけ騒ぐという手法は、耳目を集めるという点においては、別にそこまで間違ってはいない。ゆえに彼は正しくそれぞれの『広告塔』であったのでしょう。それを外野の人びとはともかく、本人が解っておらずに一縷の希望を抱いていたとすれば、なんというか悲しいお話ですけど。



ともあれ、その手順はさて置くとして、判決通りに進めたアメリカの司法制度はまだ理解はできるかなぁと。例外を認めることは他の全ての判決を正当性を損ねるだけでなく、本来の意味である抑止力をも発揮しなくなってしまうのだから。勿論両方兼ね備えるのがベストでありそれが義務ではあるんだろうけど、しかしまぁないものねだりをしてもどうにもならないのだし。
どっかの国にあるように、ないものねだりをした大臣のその時の気分によって死刑が執行されたりされなかったりする事態よりはマシなんじゃないでしょうか。改めて書くとひどい。