船越(宮城県石巻市雄勝町)

船越
現・宮城県石巻市雄勝町(1889-十五浜村/1941-雄勝町/2005-石巻市
区域:第4区(沈水海岸)
湾形:乙類第五(湾内U字)


明治三陸津波(1896)
波高:
死者:27人
流失倒壊戸数:61戸
再生形態:

明治29年には今回[1933]よりも少々波も低く、被害も遥かに少なかつたらしい。然し灣頭の低地に並んでゐては將来の事も心配されるので、國庫及び縣補助による28戸分の集團移動地を、谷奥の海岸を去る約600mの位置に、一部は山原を切崩して建設した理である。これが年餘も屋敷割当もせずに、移動失敗を思わせた主因は、漁業生活者の濱を去り得ぬ悩みの結果であつたかと思はれる。最初の建設予定地はもつと濱近い畑地の一罹災者の所有地であつた。その罹災者は土地を一旦売却して復興地建設後、村より配当を受けるより自分の畑地に自分で移ると主張して、土地買収不成功となり、現在の復興地に就いても村当局との間に、種々の感情問題等が起り、建設が甚だ遅れて終わつたのであると言ふ。こうして時日を経過し、且つ死傷者もなく、被害の比較的少なかつた村人は、日々の生活に追はれ、災害の恐怖も漸く薄らいで、積極的に移動する熱意は失せて終わつてゐるらしい。「漁獲物の水上げ、加工を以て生活する漁民は海岸を離れては生活出来ないから、何時来るとも知れぬ津波の被害を予想して毎日の生活を棄てる事は出来ない。災害当時同情を寄せられた世間に対して移らねばならぬ理だが、生活が不安になるから移れぬ」と、全く移動を世間に対する義理立ての如く思ふやうになつては、村の移動等果たせるものではない。
これには漁業を主産業とする事、耕地の不足、時日の遷延等が考えられるが、主因は被害の少なかった為に、村人には移動の必要が強くは認められぬことにあると思はれる。津波前の砂浜には既に防波堤が出来てゐるが、追々移ると言う他の家々は何時果せるかは知れない。「國庫補助によって工事を施すよりも、自分の土地へ漁業の閑散な時期に、漸次工事を進めた方が安く、建築資金等を借り、多くの借財を負はされては毎日の生活が出来ない。食はずに死ぬより津波で死んだ方がましだ」等、極言してゐる古老の話をきいてゐると明らかに失敗が思われて、漁村の津波に対して武装した再建も容易ではないと感ぜられた。」(Y1943/p.13)


昭和三陸津波(1933)
波高:3.5m*   *3.5m(C1934)
死者:
流失倒壊戸数:25戸*   *57戸(C1934)
家屋流失倒壊区域(坪):2000坪*   *0.66ha(C1934)
浸水家屋 :106戸*   *83戸(C1934)
再生形態 :集団移動
移動戸数:48戸
達成面積(坪):2311坪

昭和8年津浪波高3.5m、家屋の流失倒壞57棟、浸水83棟、合計140棟に達す。集團移轉をなすもの48戸、部落後方谷間に住宅適地を選定し、敷地地計畫高昭和8年津浪浸水面上3.85m、面積2311坪なり。」(C1934)

「[船越浜]宮城縣に於て前掲縣令第二條第二項の規定に依り建築禁止區域を指定したる町村」(C1934)

「大濱峠を越えて船越へ下りると、先づ村の入口に階段狀の屋敷取りをしてあるのが目につく。集團移動を計畫した見事な工事であるが、既に満3年も渓経てゐたのに、一隅に假屋の如きが一戸建てられたのみで曝されてゐる。その後の復興狀況は知らないが、當時は村の集團移動の失敗を、まのあたり物語つてゐる観があつた。」(Y1943/p.12)

「船越は追波湾を越えて対岸十三濱村相川の小泊へ到る船越し場であつたから船越と名付けられたと伝えてゐる。良港を控えて古くは相当繁栄した村であつたかと思ふ。南の茨城方面等より来往した人々もあり、現在は百戸以上に達してゐる。峠崎が東北に突出し、八景島等も防波堤の如く南北に並んでゐるので、波高は4mにも達し、流失4戸、全壊7戸は出したが死傷者はなかつた。」(Y1943/p.13)

「綾里村白濱、廣田村泊港、十五濱村船越等は集團移動地を完成しても、時日の遷延等の為各自分散している。」(Y1943/p.140)

「調査当時は移動しない移動地が山腹にさらされているのを見たのであった。」(Y1943/p.145)

「[十五濱村に於ても]総戸数1305戸中5割3分が漁業者であるが船越にては130戸中93戸、荒は25戸中21戸、名振は110戸中84戸、熊沢は28戸中23戸が漁業者である等、1町村内に於いても、漁業者数は海濱聚落に偏在するから、町、村営にて聚落移動を計画或は實施する場合、聚落別に種々な意味をも含めて、熱心な時と然らざる場合とがある。」(Y1943/p.154)

「28戸の集団移動地を、海岸より600m離して造成したに拘らず、殆ど移動は行われず、各自分散移動した。」 (Y1964a/p.70)


チリ地震津波(1960)



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fig.船越:1933津波後の航空写真(C1934)

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fig.船越:1933津波後の復興計画(C1934)

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fig.船越:1947航空写真(国土地理院

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fig.船越:1975航空写真(国土情報ウェブマッピングシステム)

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fig.船越:震災津波前の航空写真(日本地理学会 津波被災マップ)

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fig.船越:2011津波遡上範囲(日本地理学会 津波被災マップ[速報])

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fig.船越:2011津波遡上範囲(日本地理学会 津波被災マップ)

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fig.船越:2011津波後の航空写真(Google