息をする、心臓が動く、歩く・走る・踊る、
歌う・演奏する・音楽を聴く、
詩や文章を読む、
おしゃべりをする、
さまざまなリズム、人間の身体の中の律動・リズム、生きている人間のリズム。
古代日本、文字がない時代は口承文学があった。歌があり詩があり、口から口へ伝えられた。文字が日本に伝わってきて、それらは記載されるようになった。万葉集が生まれ、和歌が後世に伝えられた。
1966年、16歳でアメリカからリ―ビ英雄はやってきた。日本語を学び、万葉集に魅かれた。日本に住み、万葉集の文庫本を手にして大和路を歩きまわった。見る風景はすべて歌に詠まれた風景だと思った。57577の、万葉の調べが風景に結びついて彼の体のなかでリズムをつくった。リ―ビ英雄の日本語は日本人以上に熟した。リ―ビ英雄は万葉集を英訳してアメリカで出版する。そして受賞した。日本語で小説を書くようになった。
今年正月、我が家は久しぶりで百人一首をした。孫娘、3歳のういちゃんも参加した。ぼくが読み札を読んだ。3歳のういちゃんは、少しひらがなが読める。取り札の文字を真剣に見て、何枚か札を取った。
1300年以上も前からある和歌は今も盛んに作られている。いったいこれほど長く続く和歌のリズム感、5音と7音の組み立てとは何だろう。たとえば、万葉集の次の歌を57577に分ける。
はるすぎて/なつきたるらし/しろたえの/ころもほしたり/あめのかぐやま
これを朗読してみた。拍子を取った。どうなるか。
はる・すぎ・てー〇/なつ・きた・るー・らし/しろ・たえ・のー〇/
ころ・もー・ほし・たり/あま・のー・かぐ・やま
〇のところは一拍休む。指揮をするように、指で朗読の拍子をとってみると四拍子だ。5・7・5・7・7の和歌は四拍子だった。
四拍子の歌は多い。わらべ歌、童謡はほとんど四拍子。
昔は子どもたちの遊び歌がたくさんあった。お手玉をするときに歌う歌、まりつきに歌うてまり歌、縄跳びのとき歌う歌、数え唄、みんな四拍子あるいは二拍子。
校歌も行進曲も四拍子だ。
学校で子どもたちが行進する。駆け足をする。先生が声をかける。イチニ、イチニ、……。二拍子だ。
家の柱時計の振子が音をたてる。チックタック、チックタック……。二拍子だ。
昔の子どもたちは、遊びのなかで歌を歌い、体を動かした。身体の内なる命のリズムが、二拍子、四拍子の歌になった。
リズムは身体を活発にする。
命のリズムは和歌にもなった。
現代の子どもたちの遊びは、友だちと一緒に歌い身体を使うものが乏しい。電子ゲームのような、内に内に向かい、歌も会話も身体を競うこともない遊びになってしまっている。
長田弘の詩にこんな一節があった。
音楽は呼吸だ。身体が宿すものだ。
ひとは音楽の民として生きているのだ。
ドボルジャークは気候に、和声を学んだ。
嵐に、潮の光りに、森の静けさに学んだ。
自然を神のつくった音楽だと信じた。
ドボルザークは美しくて懐かしい音楽を作った。新世界交響曲のなかのメロディに詩が付けられ、「遠き山に日は落ちて……」と歌われた。
気づいたことの二つ目である。