教育の目的

書物や新聞を読んでいて、ぽっとそこの文章が目にとまり、その一点に入りこむときがある。こちらの思考や感性に働きかけるものがその文章にあり、同時にこちらにもそれに呼応する受け皿があるからだ。

 ある時、「そのとおりだ」と思ったのだろう。その文章をノートに書いておいた。それから何年か過ぎて、ぺらぺらノートをくっていて、そのメモにぶつかった。内山節の文章の一部だ。本の名前は書いてない。読み返して、なるほど、これは自分の考えでもあると思う。
 こんなメモだった。


 「詰め込み」回帰は教育ではない。
 教育は、子どもを、共同体成員としての責務を果たし得るまでに成熟させる、という機能を担っている。
 共同体成員として、負託された義務を果たし、弱者を支援し、限りある資源の公正な分配を気づかう人間をつくること、それが教育の目的である。
 だが、「詰め込み」回帰を求める人たちは、いつも「競争を通じて、弱者を蹴落として、自己利益を確保すること」を学習の動機づけに使うことに心理的な抵抗がないように思われる。
 おのれの学力をもっぱら自己利益のために利用する子どもを育てることは、教育ではない。
 そう言いきれる人が、今の教育行政の要路に存在するだろうか。


 これがそのメモだった。教育の目的はこういうところにあると断言している。きっぱりと言い切っている。現代の世相を見れば、このように言いきらなくてはならない状況にあるのは確かだ。このメモはたぶん「ゆとり教育」を批判して、再び「詰め込み的な知識量教育」へと、文教政策のかじがとられたときのものだと思う。
 

 「ヤヒ族は白人の卑劣な残虐行為によって死に絶えた。最後に生き残ったのがイシだった。彼は何年間もひっそりと山の中に身を隠して暮らした。野生インディアンが生存していることを悟られぬように、一歩歩くごとに足跡を掃いて消していた。そしてイシはたった一人の生き残りとして文明社会に現れた。
 人類学者のアルフレッド・クローバーは、イシをもっとも親しく知っている人だった。1900年、カリフォルニアにやってきたアルフレッドは、無数のインディアンの部族が破滅させられ、個人が殺されるのを目撃してきた。原住民のイシの部族の言語、暮らし方、知恵などをアルフレッドはイシから学んだ。
 イシの伝記は妻のシオドーラ・クローバーが書いた。
 クローバーの娘、アーシュラ・K・ル=グウィンは、その後書いている。
 イシの足は幅広で頑丈、足の指はまっすぐできれいで、縦および横のそり具合は完ぺきであった。歩き方は優美で、一歩一歩は慎重に踏み出され、まるで地面の上をすべるように動くのであった。足取りは、侵略者が長靴をはいた足で、どしんどしんと大股に歩くのとは違って、地球という共同体の一員として、他の人間や他の生物と心を通わせながら軽やかに歩いた。イシが孤島の岸辺に一つ残した足跡は、おごりたかぶって、孤独に悩む今日の人間に、自分は一人ぼっちではないのだと教えてくれるだろう。
 このクローバーの娘、アーシュラ・K・ル=グウィンによって、『ゲド戦記』は書かれた。」


 故・鶴見俊輔はこの話をして、「20世紀にもすばらしいことがあった。」と言った。
 それもメモにあった。