溝口健二シンポジウム


於 有楽町朝日ホール

蓮實重彦(映画批評・仏文学)
山根貞男(映画批評)
阿部和重(小説家・映画批評)
ビクトル・エリセ映画作家

阿部   「溝口健二の作品が映画史に現れることによって 一体映画にとって何が可能になり或いは何が不可能になったのかをお訊きしたい」
エリセ   「非常にお答えするのが難しい質問を頂いたと思います. どうお答えしたらよろしいんでしょうか… 私は個人的に1956年に溝口が亡くなって以来 変わったのは映画だけでは無いと思います. 世界が変わってしまったのではないかと思います. 溝口は非常に早くして亡くなってしまわれたわけですけれど 溝口が亡くなったことによって… 或いはルノワールジョン・フォードが亡くなった時と同様に映画の歴史の大事な部分が失われてしまったのではないかと思います. ここで私が特に強調したいのは 映画だけに焦点をあてて言ってるのではありません. オーディオヴィジュアル全体が 溝口の死によって大事な部分が失われてしまったのではないかと考えているわけです. 往々にして映画というとオーディオヴィジュアルの一部と捉えられている観が強いと思いますが 私は決して映画はオーディオヴィジュアルの一部では無いと思います. 但し残念なことに現在オーディオヴィジュアルの世界であれ 映画の世界であれ TVの言語或いは広告媒体の言語が入り込んでしまってるというのは事実でありまして 現在の映画と呼ばれている95%は 私が考える映画ではもう既になくなってしまったと思います. そういった意味で先程ジャン・ドゥーシェ氏が映画を愛する若者に対する助言としてお話しになったことは非常に的を射てると思います. ドゥーシェ氏はこのように仰っていました… 『溝口の作品を鏡として 過去 映画の巨匠とよばれた人たちの映画作りを学ぶべきである. そこに価値観を見出すべきである』と… 私はまさにその通りだと思います. そしてそうすることによって現在の社会で映画と捉えられている概念が 如何に本来の概念と違ってきているのかということを感じるべきだと思います. そしてそういった概念の食い違いというのは 溝口の祖国である日本でも起こっている現象です. 特に私が聞き及びますところ 溝口の作品にはあまり集客力がないという話も聞いております. こうした本来あるべき姿の映画が 社会で受け入れられなくなってきていること自体が 社会的な挫折である と私は思っています. 以前の映画というのは教育を推進力として作られてきました. 今私が指摘したような問題はおそらく 溝口監督が映画作りに励んでいた時代にもあったと思います. だからこそ監督は映画というイメージの中に真実を織り込めるのか ということに腐心したんだと思います. ただ溝口の時代に同じ様な問題があったとはいえ 現在このグローバル化が進んでいる社会の中で マスメディアの作り出す文化が強い中で そしてそのリズムが加速していく状況の中で 同じ問題に対処していくのは容易なことではありません. 問題は以前に比べ深刻化していると思います. だからこそ映画の世界・映像の世界に真実を反映させることが難しくなっているわけです. そして私は映像の中にも汚染というものはあると思います. 環境… 大気汚染が存在する様に映像の中に 或いはイメージの中にも汚染という問題が存在しています. その為そしてまた映像が飽和状態にあるという状況もあります. そうした中で如何に映像の中に真実を映し出せるのかというのが大きな課題となっています. 溝口監督は常々こう言っていたそうです… 『ひとつのイメージを見た後は目を洗いなさい』*1と… もしこの様な映像が飽和している状態を溝口監督が御覧になったら何と仰ったでしょうか. 残念ながら 今私達は溝口監督の言葉を聞くことは出来ません. だからこそ その巨匠が残した作品を観ることが 現代を生きる私達にとって義務… 至上命令であると思います. そしてその作品を通して溝口監督の道徳観 或いは倫理観を見 そして彼の反骨精神… 或いは社会に対する反乱精神を学ぶべきだと思います. 今 私は溝口の反骨精神・反乱精神と申し上げましたが これは社会学的な 或いは思想的な反乱を意味するものではありません. 溝口監督の芸術を模索する上での彼が示した反骨精神・反乱精神… そして彼の芸術に対する繊細さを学ぶべきだと申し上げたかったわけです.」












*1:書に凝った溝口は依田義賢に「入来洗目」という自作の書を贈っている. 訪れるもの こと ひと 全てに 目を洗って迎え 見誤ることなく対する心構えを説いた句であろうと依田は分析している