スクリャービン博物館のソフロニツキー

やっといま現在のCDを聴く環境にも慣れてきたかなという今日この頃、折りよく以前話題にした、『スクリャービン博物館のソフロニツキー 第一巻』(VISTA VERA)が到来しました。曲目は以下の通り。

ノクターンのあらかたと前奏曲ソフロニツキーのファンにはお馴染みのレパートリーですが、バラードの一番と四番、そしてロ短調のピアノ・ソナタは、おそらく初出の曲目です(ノクターンの六番も、けっこう珍品の部類に属するような気が)。

ARBITER からリリースされたスクリャービン博物館ライヴが、ピアノの調律の狂い*1と録音の歪みとが相俟って、聴いていて苦痛なくらい酷い音でしたから、今回の盤にも音質的には全く期待はしていませんでしたが、意外にも、あそこまでひどくはありません(無論、所詮はアマチュア録音なのだからという見切りも肝要)。

期待のバラードは、四番はソフロニツキーにしては……という感じがしないでもないものの、一番は聴き応え十分。第一主題の丈高さと第二主題部のエレガントな歌いまわしとが自然に共存しており、コーダの果敢な突進は霊感にあふれています。ソフロニツキーの崇高なロマンティシズムの精髄といっても過言ではありますまい。

ロ短調のピアノ・ソナタは、この曲にたくさん含まれている、あまりにも美しいノクターン風の部分が心憎いまでみごとに弾き分けられており、とりわけ心に残ります。一楽章の第二主題の物憂げな風情、うつつならぬ夢のようにいつの間にか終わってしまう二楽章の中間部、そして濃艶きわまる三楽章……ソフロニツキーのフレージングはことさらに滑らかなレガートを用いることなく、ときにアルカイスムにも接近するのですが、常に驚くほど自在であり、しかも高雅な気品を失うことはありません。

一方で、ソフロニツキーであればいくらでも劇的に盛り上げようがあったであろう一楽章は、特に緩徐部に重きが置かれていることもあって、やや推進力や構成感といった要素に乏しいように思われます(五分過ぎで、何とはなし暗譜があやしそうな感じがするのも、この曲を普段から弾いているわけではないためか知れません)。しかしながら、録音されなかったというフィナーレ抜きで、この演奏の一部分を取り上げて粗探しするのは当を得たことではありますまい。おそらく全曲を通して聴くことができたときにはじめて、ソフロニツキーが一楽章をあのように弾いた真意も伝わってくることでしょう――換言すれば、目下のところソフロニツキーのこの曲に対する解釈は謎のままであり続けるのであり、聴く前にそう思った以上に、フィナーレの欠落に落胆している自分がいます……

既出レパートリーでは、前奏曲集の抜粋など、晩年のソフロニツキーならではの峻厳な凄みが利いていて、一九四九年の全曲演奏とも、はたまた五十年代のスタジオ録音とも違った味わいがあります。出来からいえば、このCDの白眉かもしれません。

*1:スクリャービン遺愛の古いベヒシュタインは、調律してもリサイタルの最中に狂いだすような按配であったとか。