西東京日記 IN はてな

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2018-08-20

[] 『未来のミライ』と『となりのトトロ 『未来のミライ』と『となりのトトロ』を含むブックマーク

 この前の木曜に『未来のミライ』を見てきました。前評判はあまり良くなかったですが、面白く見ることができました。細田作品の中ならば『バケモノの子』よりも楽しめましたし、個人的には『サマーウォーズ』よりも好きです(『時をかける少女』と『おおかみこどもの雨と雪』には及びませんが)。

 作品の内容としては、映画の途中に「子どもはいつのまにかひとりでなんでもできるようになる」みたいなセリフがありますが、その「いつのまにか」をファンタジーで埋めてみたようなものだったと思います

 おそらく、2012年9月長男が、2015年末に長女が誕生したという細田守監督個人的経験が濃厚に反映された作品で、自らの子育て、そして子どもを育てながら不思議に思った経験ストレートに描かれているのだと思います


 主人公は4歳の男の子くんちゃん。建築家の父と編集仕事をしている母とゆっこという犬と暮らしていますが、そこの未来ちゃんという妹が登場します。今まで両親、そして親族の愛を一身に受けてきたくんちゃんですが、未来ちゃんの登場によりその地位を奪われますくんちゃんとしては当然面白くなく、「未来ちゃん、好きくない!」とわがままを言って両親を困らせるわけですが、そんなくんちゃんが「お兄ちゃん」としての立場を受け入れるまでの物語です。

 多くの子どもは「いつのまにか」、「お兄ちゃん」「お姉ちゃん」らしく行動するようになっていくわけですが、子育てをしている身からするとまさに「いつのまにか」そうなるわけで、細田監督もそれを不思議に思ったのでしょう。

 この映画では擬人化した飼い犬(ゆっこ)や未来から来た妹の未来ちゃん、そして家族にまつわる記憶などが、くんちゃんの背中を後押しします

 繰り広げられる多くのシーンはくんちゃんの妄想であって、擬人化したゆっこ未来から来た未来ちゃんとの絡みは笑えますし、未来東京駅のシーンなどはかっこいいです。また、子ども描写リアルで、同じような年頃の子どもを育てていると、その動きや表情も笑えると思います


 そんなふうに『未来のミライ』を楽しんだ翌日にテレビで『となりのトトロ』がやっていたので子どもたちと一緒に見たのですが、この両作品タイトルの響きだけでなく、いくつか似た部分がありますね。

 まず、くんちゃんとメイです。ともに4歳で、メイは「嫌だもん!」と叫んで姉を困らせ、くんちゃんは「好きくない!」と叫んで父と母を困らせます。そして何よりも両作品とも「子どもはいつのまにかひとりでなんでもできるようになる」ということを描いた映画です。

 この「いつのまにか」の部分を埋めるのが、『となりのトトロ』では姉のさつきと自然や森の妖精(神?妖怪?)で、『未来のミライ』では未来から来た妹と家族記憶やつながりといったものです。


 けれども、両作品で大きく異なっている部分もあって、それは『未来のミライ』では親(特に父親)の成長が描かれている点です。『未来のミライ』では、専業主夫ポジションを担うことになった父親悪戦苦闘ぶりや親としての成長が丁寧に描かれています

 一方、『となりのトトロ』ではお父さんもお母さんも、経済的問題病気を抱えているにしろ人格的には非常に完成した存在でした。これはキャスティングにあらわれていて、『となりのトトロ』のお父さんは、若いから「出来上がっていた」感のある糸井重里であるのに対して、『未来のミライ』のお父さんは『逃げるは恥だが役に立つ』で新垣結衣からさまざまな指摘を受けて成長する男を演じた星野源

 あくまでも子どもが主役で「子どもを見守るできた親」を描いた宮粼駿に対して、細田守は親にもウェイトを置いて家族というものを描こうとしています


 ただ、この「親から視点」を入れたところが評価の別れる所になっているのかな? とも思います現代においてリアリティを持ちつつ万人を納得させるような親の物語というのは難しいですよね。

 それでも、『となりのトトロ』は過去舞台にしているから成り立つ物語でしょうから個人的には親をひっくるめて描こうとした『未来のミライ』のチャレンジを評価したいですね。


となりのトトロ [Blu-ray]
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2018-08-14

[] 『スターリンの葬送狂騒曲 『スターリンの葬送狂騒曲』を含むブックマーク

 スターリンの死を題材にしたコメディ映画イギリスフランス合作で、いかにもイギリス的なブラックな笑いに満ちた映画なのですが、素直に「楽しかった!」と言っていいのか、やや引っかかる映画でもあります。

 スターリンが倒れた後、フルシチョフベリヤ、マレンコフ、ブルガーニン、カガノーヴィチ、モロトフといったスターリンに仕えた有力者たちが、その後継をめぐってドタバタ劇を繰り広げるのですが、各キャラクターはいずれもカリカチュアしてあり、滑稽な行動を繰り広げます。倒れたスターリンをみなで運ぶシーンなどは爆笑できます。

 また、倒れたスターリンのために医者を呼ぼうとするが、医師団事件の影響でモスクワにはまともな医者が残っていないという下りなどもブラックな笑いとして楽しめる範囲です。


 ただ、スターリニズム実態を多少なりとも知っていると、果たしてこの題材を「笑い」にしてしまっていいのかという一抹の疑問も残ります。

 また、ベリヤの描き方が単純で、「スターリン亡き後実権を握ろうとする悪いやつ」程度の設定なので、政治ドラマとしての深みはでません。実際は、ベリヤはスターリンの死の直前はスターリンの信頼を失っており、失脚するかもしれなかったという話もあります。そういう描写特にないため、ベリヤがスターリンの死後に改革を訴える理由があまり見えてきません。

 最後エンドロールで、権力闘争の「毒」の部分を出そうとしていたので、ベリヤに関してはもう少し違った描き方もあったかもしれません。


 スターリニズムについて何も知らないければ、素直に笑える映画ですし、知っていると何か引っかかるという、なんとも評価が難しい映画です。

2018-08-13

[][] 砂原庸介新築がお好きですか?』  砂原庸介『新築がお好きですか?』を含むブックマーク

 副題は「日本における住宅政治」。『地方政府の民主主義』『大阪―大都市は国家を超えるか』『分裂と統合の民主政治』などの著作で知られる政治学者の著者が日本住宅問題と都市問題に迫った本になります

 ただ、読んでみると意外と「政治」っぽくないです。著者が政治学者であることを知らなければ、社会学者が書いた本と言っても通るでしょう。

 読む前は、日本住宅政策や都市計画の法制度などを追っていくような構成かと思いましたが、もう少し抽象的で広がりのある議論がなされており、政治だけではなく、経済的条件や人びとの期待など、さまざまな要因でつくり上げられる住宅の「制度」について論じた本になっています


 目次は以下の通り。

序 章 本書の課題

第1章 住宅をめぐる選択

第2章 住宅への公的介入

第3章 広がる都市

第4章 集合住宅による都市空間の拡大

第5章 「負の資産」をどう扱うか

終 章 「制度」は変わるか


 住宅というと、「買うか、借りるか」論争といういつまでたっても決着のつかない論争があり、ネットなどでもたびたび話題となりますが、これはこの問題に絶対的な正解がなく、しかもその人の人生にとって大きな選択だからです。

 例えば、住宅を買った人が地震洪水などで家を失い「やはり賃貸にしておけば…」ということも想像できますし、ずっと賃貸だった人が高齢になって立ち退かざるを得なくなり次の部屋を探すのに苦労して「やはり買っておけば…」というような状況も想像できますしかも、住宅というのは大きな買い物で「じゃあ次から賃貸(購入)で!」というわけにもいきません。


 この本では住宅をめぐる問題の難しさを「取引費用」という経済学の考えで説明しています。例えば、住宅を買うケースを考えると、多くの人はさまざまな物件を見て回り、ローンを組んで購入し、引っ越しします。コンビニ自動販売機ジュースを買うような場合と比べると、「買う」という行為にさまざまなコストが付随していることがわかると思います。これが取引費用です。この取引費用が大きいため、何度も住宅を買い替えることは難しいのです。


 では、賃貸ではどうかというと、確かに買うよりも借りるほうが取引費用は少なくてすむのですが、この本では貸す側に取引費用がかかっていることを指摘しています

 例えば、貸す側が借り手を探すには広告を打つ必要があるかもしれません。また、借り手がきちんと家賃を払ってくれる相手かどうかを見極める必要も出てきますさらに借り手が問題を起こし周囲の住人が退去してしまうかもしれませんし、孤独死などのリスクもあります

 この貸す側の取引費用は小さな住宅に比べて大きな住宅のほうが大きくなると考えられます。例えば、同じ大きさの建物を4部屋のファミリータイプか10部屋の単身者向けにするかを考えた場合家賃の不払いが起きてダメージが大きいのがファミリータイプです。

 こうした取引費用の問題と、第二次世界大戦から強められて借りて保護の政策もあって、日本ではなかなかファミリータイプの賃貸供給されない状況となっています。その結果、日本賃貸都市部でも地方でも面積の狭い物件が多く、ファミリータイプ(70平方メートル以上)が少なくなっているのです(26p図1-1参照)。


 その結果、結婚して家族を持った人は住宅の購入を目指すことになります建築学者上田篤が1973年に発表した「現代住宅双六」では庭付き一戸建ての購入が「上がり」となっていますが(31-32p)、これは賃貸住宅が狭く、子どもができて十分な広さの住居を確保しようと思ったら一戸建てを購入するしかなかったからでもありました。

 また、住宅ローンに対してさまざまな優遇措置をとった政府の政策も、この流れを後押ししました。


 日本では中古住宅流通も進んでいません。それもあってアメリカイギリスでは70〜80年ある住宅の滅失期間が日本では30年程度となっており、多くの住宅一世代限りのものとなっています

 さら情報の非対称性の問題もあります(本書では取引費用で説明していますが、経済学にある程度通じた人なら情報の非対称性のほうがわかりやすいでしょう)。中古住宅品質(どの程度手入れがされているか)は買い手にはなかなかわかりません。欠陥住宅に近いものを掴まされる可能性もあります。そこで、買い手は住宅品質が見た目よりも悪い可能性を織り込んで買う価格を決めます。そうなると、良質な住宅を売ろうとしている売りてにとっては安すぎる価格となり、結果として良い中古住宅市場に出回りにくくなるのです。

 諸外国ではこの問題を解決するために取引に直接かかわらない専門家検査などを行う制度がありますが、日本では不動産屋が取引を仲介するだけで中古住宅品質保証する仕組みはありません。


 結果として日本では、私鉄などによる沿線の大規模開発、近年では都心部タワーマンションなど、新築住宅供給され続けてきました。

 一方で、賃貸住宅は零細事業者や個人によって供給されるケースが多く、「いずれは新築住宅」という流れが固定化されているのです。


 衣食住は人間生活にとって必要不可欠なものであり、福祉国家であれば当然、住宅の保障というのもその役割となります

 日本では20世紀になって東京大阪において住宅問題が顕在しましたが、政府都市部での家賃高騰に対して借りての権利保護家賃の統制で対応しました。特に1941年の借地・借家法の改正による貸し手による解約権の制限は大きな影響を与えることになりました。

 また、公営住宅建設も行われ1970年頃まで公営住宅は増加していくのですが、次第に中流階層の人々にとっては魅力的なものではなくなり、低所得者向けのものとなっていきます。こうなると地方自治体公営住宅建設回避するようになり、70年代半ば以降、公営住宅建設は急速に減少していきます(71p図2-1参照)。

 

 公営住宅低所得者向けとなる中で、メインストリームの人びとへの住宅供給したのが日本住宅公団でした。日本住宅公団団地や大規模なニュータウン建設し、日本住宅の一つのモデルを作り出しました。

 しかし、地価の高騰などもあって70年代半ば以降、建設戸数は減少していき、その役割を縮小させていきます


 結局、日本住宅政策の中心となったのが住宅金融公庫による住宅ローンの拡充です。公営住宅建設が進まず、民間の賃貸住宅相対的に貧弱な中で、持ち家を購入しようとする人への一種の補助が住宅政策の中心となったのです。

 一方、多くの国で採用されている賃貸住宅利用者に対する家賃補助はほぼ採用されませんでした。政府制度においても「持ち家の購入」を誘導するような仕組みになっているのです。


 ケメニーは住宅に関する国際比較を行い、政府などが供給する社会住宅と民間の賃貸住宅が異なるものとして分離される二元モデルの国と社会住宅と民間の賃貸住宅が同じようなものとして扱われる単一モデルの国に整理しましたが、日本イギリスや南欧の国などと並んで二元モデルの国であり、持家率が高くなっています(92-94p)。

 ただし、近年においては住宅金融資産としての性格が強まり、単一モデルの国も変化が見られます


 ここまでが第1章と第2章の内容ですが、このあたりの問題については、読んだのはかなり前ですが平山洋『住宅政策のどこが問題か』光文社新書)でも論じられていたと思います。この本の特徴は第3章以降でさら都市問題へと踏み込んでいくところにあります

 住宅問題が起こるのは都市に人が集中するからです。都市に人が集中することによって集積のメリットが生まれ、生産性が高まりますしかし、人びとが集中することによって地価は高騰します。そこで都市郊外へと拡大していくわけですが、郊外の拡大は通勤などの新たな問題を生みます


 日本ではもともと都市とそれ以外の地域境界曖昧で、国や地方自治体都市計画として道路上下水道の整備を中心においたこともあり、都市郊外へと無秩序に拡大していきました。また、日本では土地に対する私権が強いこともあって、都市計画法による開発の制限なども強くははたらかず、スプロール的な開発が行われていったのです。

 

 このように都市が発展していく中で、都市内部での対立も生まれてきます。新しい道路郊外の住民の利便性を向上させるかもしれませんが、すでに住んでいる住民の一部にとっては迷惑施設かもしれません。保育所なども同じようにいえます

 しかも、これまで見てきたように持ち家社会日本では、持ち家という「上がり」にたどり着いた人は、もう移動しようとはしません。結果として、すでに開発された住宅地再開発は難しくなります

 東京都心三区(千代田中央・港)ですら容積率を使い切っていなかったということですし(132p)、日本都市中心部再開発はなかなか難しいのです。だからこそ、郊外ショッピングモールが作られ、都市は外へと拡大していくことになります

 また、日本地方自治における地方議会大選挙区制と、首長別に選ぶという二元代表制のしくみも、都市全体の利益よりも一部の地域利益を代表しやすいといいます


 第3章では都市の水平方向への拡大がとり上げられましたが、第4章では垂直方向への拡大がとり上げられています。垂直方向への拡大のわかりやすい例がタワーマンションの増加です。

 高層の集合住宅都市土地不足の問題を解決するために必要不可欠な存在です。東京で高層の集合住宅がつくられはじめたのは関東大震災以降です。当初は公営住宅が中心でしたが、50年代後半以降は公団住宅が登場し、さら60年代になると分譲というスタイルも現れました。70年代になると民間事業者が大量の分譲マンション供給するようになり、00年代になると新設着工の20%近くが分譲マンションとなる年もありました(148p図4-1参照)。

 一方で、マンションは周囲の住民の日照権景観権を侵害する、新たに社会資本の整備が必要となるなど、迷惑施設としての一面も持っています


 また、集合住宅における意思決定をどうするかも問題になりますマンションに住み続けるには修繕が必要です。さらエレベーターなどの共用部部の管理をどうするという問題もあります

 分譲マンション場合新築当時は同じような世代、同じような経済力の人が集めっているので、それほど問題にはならないかもしれませんが、時が経つに連れ、一生そこに住み続けようとする人と将来引っ越しを考えている人、現役世代とリタイアした老人世代で、その考えは変わってくるでしょう(引っ越しを考えている人や老人世代は必要最小限度の修繕をのぞむはず)。

 さらに、集合住宅には問題のある住人がいると周囲も住みにくくなるという性格があります。例えば、騒音を出す人が居座れば、周囲の人が迷惑し、場合によってはそこを立ち去るかもしれません、空室が増えれば修繕費用の積立もままならなくなり、いわゆる「スラムマンション」が生まれる可能性もあります


 実際、リゾートマンション首都圏近郊のマンションでは、資産価値が落ち、資産価値が落ちたマンションに対して修繕費用を出し渋る人が増え、管理組合機能不全に陥るという「廃墟マンション」が増えているといいます。このような負のスパイラルに入ると、もはやそのマンションを立て直す(建て直す)ことは困難です。

 建て替え直しに成功しているのは、土地価値があり容積率に余裕のある都心部マンションが中心で、建て替えに伴って部屋を増やすことで建て直しの資金を捻出していますが、そうしたことが期待できないマンションにおいて、多くの住民が建て替えのために資金を拠出するかというと、それはなかなか難しいでしょう。

 国は区分所有法を改正し、区分所有者の5分の4の特別多数決で建て替えを可能とする規定をつくりましたが、それでもやはり建て替え決議は困難です。

 将来、タワーマンションもこの問題にぶち当たると予想されます。町村ほどの人がいる規模、使い切ってある容積率、巨額の費用を考えると、タワーマンションの建て替えは不可能と思えるものであり、巨大な「廃墟」が出現する完成もあります


 第5章でまずとり上げれれるのは空き家の問題です。日本では総住宅数が総世帯数を大きく超えているにもかかわらず、毎年大量の新築住宅供給されています(178p)。

 空き家有効活用すればいいようなものですが、住宅の所有者は、住宅を高い価格で売却できない、解体すると固定資産税が上がるし、解体費用もかかるといった理由で空き家放置します。

 放置された空き家火災の原因になるかもしれませんし、廃棄物不法投棄されるようになるかもしれません。このように空き家には負の外部性もあり、自治体や国も取り組みを始めていますが、所有権の強さもあって空き家対策は思うようには進んでいません。

 また、近年話題になっているコンパクトシティに関しても、中心部を開発したからといって郊外の人が移り住むとは限りません。一般的中心部住宅価格は高く、郊外の家を売って中心部に移り住むことは容易ではありません。著者は中心部公営住宅建設するというのもひとつの手だといいますが、同時にその費用負担をどうするかが新たな問題になるといいます

 

 

 さらにこの章では災害時における問題についても言及しています地震などでは古い木造住宅を中心に被害が出ます政府自治体は自力での住宅再建が難しい人に対して災害公営住宅供給を行うのですが、家賃が上がってしまう、今まで住んでいた場所から離れた場所公営住宅に住むことになってしまうといった問題を抱えていました。

 こうした問題を受け、東日本大震災では民間の賃貸住宅を「みなし仮設」として運用する制度が行われました。これは現物支給の原則から脱却し、被災者を機動的に支援するためのしくみで、しげんの有効活用という点でも優れた政策です。ただ、いつ一家賃補助を打ち切るのかという問題はありますし、コミュニティがバラバラにばってしまうという問題もあります

 また、防災や減災の観点から木造密集地域再開発課題になりますが、さまざまな難しい問題を抱えています


 ここまでが本論であとは終章です。政治学者が書いた本ということで、終章において法改正を中心とした今後の改革の方向性が打ち出されるのかと期待しますが、特に「この法律を改正すべきだ」といったことは書かれていません。

 これは著者が、現在新築中心の日本住宅に関する「制度」が、法律だけではなく経済的条件や人々の期待や予想といったものを含めて成立しているものだと考えているからです(この「制度」は青木昌彦が考えている「制度」に近い)。

 ここで思い出すのが解雇をめぐる議論です。いわゆる「改革派」の人の中には、「解雇制限の撤廃」こそ規制緩和の本丸であると考え、政府に対して「解雇制限の撤廃」を求める人がいますが、実は解雇をしてはいけないという法律はありません。日本大企業において解雇がしにくいのは、法律のせいではなく、裁判判例企業の人事や労働者の期待などによって、そのような「制度」が出来上がっているからです。

 法改正だけで日本雇用制度が激変するとは考えにくいように、住宅制度法改正だけではなんともならないものなのです(もちろん、一定の方向に誘導することはできるでしょうが)。


 また、終章の記述からは、著者の関心は国が策定する都市計画などよりも、地方自治さらもっとミクロマンション管理組合などにおける意思決定ガバナンスにあることが窺えます

 「まちづくり」という言葉は流行っていますが、現在のところ「まちづくり」が成功たか否かは経済的活性化たかどうかで測られることが多いです。もちろん結果は大事ですが、人口減少によって「活性化」が難しくなり、場合によっては「負の遺産」の処理が中心となる中で、、今後は「まちづくり」の意思決定のあり方が問われることになるでしょう。

 この本はその第一歩となるものです。


新築がお好きですか?:日本における住宅と政治 (叢書・知を究める)
砂原庸介
4623083667

2018-08-11

[][] ドナルド・E・ウェストレイクさらば、シェヘラザード』  ドナルド・E・ウェストレイク『さらば、シェヘラザード』を含むブックマーク

 国書刊行会<ドーキーアーカイヴシリーズの第5弾『さらば、シェヘラザード』は、第4弾のマイクル・ビショップ『誰がスティーヴィ・クライを造ったのか?』に引き続いての作家ライター主人公に据えたメタフィクション。『誰がスティーヴィ・クライを造ったのか?』では、勝手文章を書いていくタイプライターが登場しましたが、この『さらば、シェヘラザード』に出てくるのは「書けない」ポルノ作家。締め切り間際になっても「書けない」作家七転八倒する話です。

 作者は、僕は名前くらいしか知らなかったのですが、アメリカミステリ界の巨匠とも言われるウェストレイク。実はウェストレイクデビュー前後変名ポルノ小説を書いていた過去があり、その経験投影されています。


 主人公エドウィンは、大学時代の友人のロッドから自分の書いているポルノ小説をかわりに書かないかと持ちかけられ、ロッドゴーストライターとしてポルノ小説を書いています。1月に1冊、長さは5万語で1章は25ページ5千語(英語では15ページ。翻訳はそれでは無理なので25ページと設定を変えてある)で10構成、1日章書ければ10日間で書き上げることができます。

 しかも、主人公に言わせればポルノ小説は、「小さな町の若者大都会に出ていろんな人とセックスする」、「小さな町の娘が大都会に出ていろんな人とセックスする」、「第1章の主人公相手が第2章の主人公となり…というのを繰り返す」、「退屈した夫婦を夫と妻のそれぞれの視点から1章ずつ描く」といった4パターンの変奏であり、1章ごとにベットシーンを1回ずつ入れれば完成するというものです。


 ところが、主人公は書けないのです。

 どうしても書けないので、仕方がないから思いついたことをタイプして、そこから何とかスランプ脱出の糸口を探ろうとするのですが、出てくるもの愚痴混じりの自伝のようなものです。そこで、これは廃棄され、また第1章から書きだそうとするのですが…。

 この主人公行為をこの小説トレースします。この小説のは普通のノンブル以外にも上部にかかれている小説のノンブルがふられています。

 この小説では、150ページすぎまで上部のノンブルは1〜25を繰り返します。つまり第1章が廃棄されると、ノンブルは再び1からまり、第1章が難度も繰り返されるのです。

 

 この悪戦苦闘ぶりと、どうやって第2章に進むのか、さらに章が進むと主人公の身に何が起きるのか、といった部分がこの小説の読みどころです。

 ホラーテイストの強かった『誰がスティーヴィ・クライを造ったのか?』に比べると、コメディタッチ作品ではあるのですが、後半はやや苦い感じもあります。


 メタフィクションというと身構えてしまう人もいるかもしれませんが、さすがミステリ界の大御所というだけあって読みやすく物語を引っ張る力があり、それでいて小説しか表現できない世界をつくり上げている小説ですね。


さらば、シェヘラザード (ドーキー・アーカイヴ)
ドナルド・E・ウェストレイク 若島正
4336060606

2018-08-05

[][][] 佐藤卓己ファシスト公共性 佐藤卓己『ファシスト的公共性』を含むブックマーク

 『言論統制』中公新書)、『八月十五日の神話』(ちくま新書)などの著作で知られる著者が1993年から2015年までに発表した論文を集めたもの。

 著者が一貫して追求してきた「ファシスト公共性」というものを、「ドイツ新聞学」、「宣伝」、「ラジオなどのメディア」、「思想」、「文化」といった側面から明らかにしようとしたものになります。


 主に第二次世界大戦前後のドイツ日本の事例を扱っていますが、「ポスト真実」という言葉流行する中で、この本の内容は現代ともシンクロしています。それは例えば、「ファシスト公共性」について述べた序章の次の部分からも見えてくるでしょう。

 19世紀民主主義は、「財産教養」を入場条件とした市民公共圏の中で営まれると考えられていた。一方、20世紀普通選挙権の平等に基礎を置く大衆民主主義の時代である。そこからファシズムが生まれた事実は強調されねばならない。理性的対話による合意という市民公共性を建て前とする議会制民主主義のみが民主主義ではない。ヒトラー支持者には彼らなりの民主主義があったのであるナチ党の街頭行進や集会、ラジオ国民投票は大衆に政治的公共圏への参加の感覚を与えた。この感覚こそがそのときどきの民主主義理解であった。何を決めたかよりも決定プロセスに参加したと感じる度合いがこの民主主義にとっては決定的に重要であった。〜ヒトラーは大衆に「黙れ」といったのではなく「叫べ」といったのである民主的参加の活性化は集団アイデンティティに依拠しており、「民族共同体」とも親和的である。つまり民主主義強制的同質化(Gleichschaltung)とも結託できたし、その結果として大衆社会平準化が達成された。こうした政治参加儀礼と空間を「ファシスト公共性」と呼ぶことにしよう。民主主義の題目はファシズムの歯止めとならないばかりか非国民外国人)に不寛容ファシスト公共性にも適合する(5-6p)


 目次は以下の通り。

序章 「ポスト真実」時代におけるメディア史の効用

1 ナチ宣伝からナチ広報

第1章 ファシスト公共性

第2章 ドイツ新聞

第3章 世論調査とPR

2 日本総力戦体制

第4章 情報宣伝

第5章 メディア論

第6章 思想戦

第7章 文化力

 

 第1章では、この本のタイトルにもなっている「ファシズム公共性」について、ドイツの経験を中心に分析されています。

 ハーバーマスは『公共性の構造転換』で、17世紀ロンドンカフェに集まった人びとの間から公論が立ち上がってくるさまを描きましたが、ハーバーマスは、「17世紀末の啓蒙期に登場した市民公共性19世紀末に解体期に入るプロセスを詳述しても、第一次世界大戦からナチズムスターリニズムニューディールの時代を完全に黙殺して、戦後西ドイツ福祉国家モデル国民公共性へと議論を進めて」(40-41p)います。

 しかし、著者は「この議論の欠落部分、すなわち1910-40年代にこそ、現代における「公共性」の起源があるのではないか」(41p)というのです。


 ナチズム労働運動から街頭公共性ノウハウ剽窃するとともに、ラジオ放送という新しいメディアを利用しました。「「財産教養」という壁で隔てられ併存していた市民公共性労働者公共性は、ラジオがもたらす場所間の喪失によって一挙に流動化した」(49p)のです。

 また、「ラジオ放送事実性よりも信憑性を伝達するメディアであり、それは共感による合意を求めるファシスト公共性にとって最適なメディア環境を整えた」(51p)のです(「玉音放送」はその内容が聞き取れなくても効果を発揮した)。

 そして、ここで使われたナチズム宣伝放送は、徹底的に大衆化されたもので、そこには同時期にアメリカで発展した広告と通じるものがありました。

 そうして、こうした手段によって実現したのが、はじめに引用した文章で描かれているような「参加」を重視した民主主義なのです。


 第2章は1930年代に生まれたドイツの「新聞学」について。

 この章では、ナチ新聞学の旗手として活躍し、新聞学を公示学へと展開させていったハンス・アマンドゥス・ミュンスターの自責を追いながら、新聞学とナチズム親和性、そしてその新聞学が、戦後にその前歴を隠しながらメディア学、コミュニケーション学として定着していくさまを描いています。


 第3章では、ドイツメディア学やコミュニケーション学における戦前戦後連続性がとり上げられています。

 エリザベスノエル-ノイマン戦後ドイツを代表するコミュニケーション学者で、メディアが特定の見解を優勢だと報じるとそれが少数派の人の沈黙を生むという「沈黙の螺旋理論で有名です。

 しかし、この本では奇妙なことにもっともそれが当てはまると考えられる第三帝国の時代がスルーされています。実は、第三帝国時代のノエル-ノイマンナチ党機関紙帝国』の記者で、反ユダヤ的な記事も書いていた人物でした。この問題は1996年に告発されましたが、その後もしばらく、この問題をドイツ学会は黙殺しつづけました。

 

 また、この章ではドイツ新聞学や公示学アメリカのマス・コミュニケーション研究の近さも指摘されています。

 マス・コミュニケーション研究の学祖として政治学者のハロルド・ラスウェル、社会統計学者のポール・ラザースフェルド、集団心理学者のクルト・レヴィン、実験心理学者カール・ホヴランドがあげられるのが一般的ですが、彼らは対ナチ宣伝心理戦研究に関わっていましたし、レヴィンとラザースフェルドはナチズムからの亡命ユダヤ人研究者でした(124ー125p)。

 こうした中で、商業ニーズから生まれた世論調査戦争遂行の目的のために洗練されていきます。著者によれば、「原爆開発のマンハッタン計画と並んでマス・コミュニケーション研究は、戦時体制下のアメリカで軍・産・学の緊密な提携が成功した分野」(136p)だと言います。

 「「民主主義的なマス・コミュニケーション研究」が「ナチズムプロパガンダ研究」の鏡像」(142ー143p)とも言えるのです。


 第4章からは舞台日本に移し、メディアメディア研究における戦前戦中と戦後連続性が分析されています。

 第4章では、まず「情報」という言葉がもともとは軍事用語であったことが指摘され、軍がいかに情報宣伝に取り組んだかが紹介されています。第一次世界大戦における総力戦日本軍部に影響を与え、軍は「情報」分野をリードする体制をつくり上げていきます。そして、新聞なども内閣情報部などの主導のもとで再編されていき、その体制が戦後も続いていくことになります。ドイツでは非ナチ化のために既存紙の継続・復刊は一切認められませんでしたが、日本新聞は「八月十五日」も含め、一日も途切れることなく発行を続けたのです(165p)。

 この戦前戦後連続性は、「人」の面からも指摘できます。情報局のもとで思想戦に従事したデザイナーたちが戦後広告業界に入っていったことは難波功士が指摘していますが、この本では小山栄三米山桂三といった戦後世論調査研究輿論研究を代表している人物が、ナチズム新聞学などに大きな影響を受けていたことを指摘しています。


 第5章では主にラジオというメディアが分析されています。日本では1925年ラジオ放送が開始されましたが、ラジオというメディアには非常に大きな期待がかけられていました。

 例えば、のちに京都帝国大学総長に就任する新城新蔵は、1925年ラジオが発展すればやがて新聞を印刷する必要もなくなり、文字文明も終わっていくかもしれないという展望を述べています(192-193p)。

 また、北畠利男も1925年雑誌キング』で、「東京帝大の講堂に於て、伯林大学アインシュタイン教授講義てゐるのをそのまゝ聴くことも出来る。各学校には教師や博士をそれぞれに傭はなくともよくなる。例へば東京帝大に各博士連は集つて、一定の時間に講義すれば、全国の各大学ではそのまゝ聴講が出来る訳だ。いや何も学校まで行かなくともいゝ。自宅に居つて自由勉強が出来る、そして学問をする費用が大変安くなる。」(196-197p)と書いています。今から90年以上前にも、今のeラーニングの夢と同じようなことが語られていたんですね。


 この北畠の論考が載った『キング』は「一家に一冊」をめざし、ラジオ受信機の代替となるメディアとして創刊された雑誌でした。

 大衆向け雑誌として知られている『キング』ですが、1932年には「天下の公器」であることを宣言しており(200p)、ラジオの普及が遅かった地方では、まさに国民大衆的な公共性を担いました。

 

 ラジオ新聞教育だけでなく、政治も変革すると考えられました。室伏高信は1925年の「ラジオ文明の原理」の中で、「ラヂオはたゝ゛一つなる頭脳である新聞紙が幾つかの頭脳であるのに対してまた、たゝ゛一つなる頭脳である。(中略)凡ての新聞紙が地方新聞であるのに対し、ラヂオは常に世界的ラヂオである。」、「Eliteの時代がきたのである。少数の撰まれたるものが笛吹き、民衆の駄馬が踊るのである。シヤラタン〔大ぼら吹き〕が世界に叫んで「人民主権」が自在に舞台に踊るのである。こゝには最早代議士の時代も過去である」(205p)などと述べています。

 室伏によればラジオによって到来するのは社会的独裁全体主義であり、「凡ての個人的なものが滅びて集団的なるものが凱歌をあげる」(206p)と考えました。   

 ラジオは今までの市民公共性を大きく塗り替えるものだと当初から考えられていたのです。


 第6章では「思想戦」をとり上げています。首相官邸1938年、39年、40年と3年連続で開催された「思想戦講習会」の内容を分析することにより、当時の完了や軍人の考えなどを探っています。

 この講習会で披露された軍人、内務官僚メディア関係者日本主義者などの「思想戦」について紹介することで、戦後との連続性などを考察しています。


 第7章は次のように始まっています。

 日本文化の発信力を高める政策は今日さかんに論じられている。日本明治に開国して以来、何度目かのブームといってよいだろう。重要なことは、対外文化政策日本社会で強調される時期には一つの特徴があるということである。それは、日本人アイデンティティいおける危機、ないしは国力衰退への不安が高まった時期だということだ。それゆえ、対外文化政策ありのままの自己表出という以上に、過大な効果を狙った自己演出として企図されがちだった。(257p)

 2002年文化庁長官に就任した河合隼雄は「文化力」という言葉を打ち出しましたが、実はこの言葉1940年代に唱えられた戦時スローガンの一つでもあります(262ー263p)。


 この「文化」という言葉大正期になってさかんに使われるようになった言葉です。明治期は「文明」という言葉が使われることが多かったのですが、ドイツ語のKulturの訳語として、また、「武威」の対義語的な存在として「文化」という言葉がさかんに用いられるようになっていくのです。

 「文化政策」や「文化事業」という言葉第一次世界大戦後から使われるようになった言葉です。第一次世界大戦では宣伝戦が重視され、その中で「文化」という言葉クローズアップされるようにもなってくるのです。

 この章では、外務省文化政策を担った三枝茂智に注目し、彼の言動などを分析しています。ここで印象的なのは太平洋戦争時において「東亜共栄圏」などのスローガンの提唱を打ち出そうとする三枝に対して、松下正寿が「アメリカの場合は100奪へば70返す。(中略)日本の場合はさうではない。日本は取るのみで与へるものはなく、日本のみが唯一の市場にもなってゐない。「共貧圏」になることは日本人自身がよく覚悟してかからねばいけないことだ。」と言っている部分が印象的です。


 また、戦前日本が観光に力を入れて、ある程度それに成功していたという指摘も興味深いです。「ジャパン・ツーリスト・ビューローを利用した来日外国人鉄道利用者数は1931年の5万人から1937年の15.4万人へと三倍増まで拡大し、1936年に訪日外国人観光客の消費総額、1億768万円は外貨獲得額の第四位まで上昇していた」(304p)のです。


 そして、戦後になると「文化国家」の建設が叫ばれるようになるわけで、断絶が強調される戦前戦後ですが、実はさまざまなものが連続しており、そして回帰しています。

 この第7章に限らず、こうした戦前戦後連続回帰をさまざまな分野において指摘しているのが本書の特徴です。1993年から2015年に書かれた論文を元にしたもので、古い論文からはかなりの時間が経っているのですが、その内容は非常にアクチュアルです。

 もちろん、「今の日本戦前そっくりだ!」という単純な言い草に賛成するわけではありませんが、20世紀前半に表出してきた問題が未だに解決されずに形を変えて回帰してくることをこの本は教えてくれます。

 例えば、インターネットの発展とともに「代議制の死」が語られるようになりましたが、「代議制の死」はラジオの発展期においても語られているわけですし、「クールジャパン」も「観光立国」も21世紀の新しいコンセプトというわけではないのです。

 

ファシスト的公共性――総力戦体制のメディア学
佐藤 卓己
4000612603

2018-07-30

[] 宇多田ヒカル/初恋  宇多田ヒカル/初恋を含むブックマーク

 「Fantôme」に続く、宇多田ヒカル7枚目のフルアルバム

 前作の「Fantôme」は、椎名林檎小袋成彬KOHHとのコラボレーションと、母親藤圭子を亡くしたことからくる仏教的とも言っていいような歌詞が印象的なアルバムでした。

 それを受けて、今作では歌詞がやや普通なもの回帰する一方で、コラボレーション路線模索されるのかと思いましたけど、見事に違いましたね。


 冒頭の"Play A Love Song"から♪僕の親がいつからああなのか/知らないけど/(大丈夫大丈夫)/君と僕はこれからも成長するよ♪ですし、2曲目の"あなた"は♪終わりのない苦しみを甘受し/Darling 旅を続けよう/あなた以外帰る場所は/天上天下 どこにもない♪ですし、ラストの"嫉妬されるべき人生"は♪人の期待に応えるだけの/生き方はもうやめる/母の遺影に供える花を/替えながら思う♪です。

 相変わらず母の死の影が濃厚というか、メインテーマといえるでしょう。

 一方、コラボレーションは6曲目の"Too Proud"でラッパーのJevonが客演しているくらいです。


 ただ、母の死というテーマを前面に出しながらもポップスとして成り立たせているのが宇多田ヒカルの手腕。

 "Play A Love Song"はアルバムの冒頭を飾るにふさわしい勢いのある曲に仕上がっていますし、"初恋"は宇多田ヒカル歌唱力が光るというか、本人ではないと歌えないような歌です。

 また、"あなた"でも、5曲目の"Forevermore"(これもいい曲)でも、ぎりぎりのところで男女のラブソングともとれるような歌詞にもなっています。

 あとアクセントとして効いているのが8曲目の"パクチーの唄"、ひたすら♪パクチーぱくぱく♪と歌うこの曲が、歌詞的にもアレンジ的にもアルバムに良い変化をつけていると思います。


 とはいえ、やはり内向的アルバムであることは確かで、次でさらに深まっていくのか、それとも外に向かって反転するのか、今後の宇多田ヒカル活動が気になりますね。


初恋
宇多田ヒカル
B07CKQR6T3

2018-07-29

[][] 伊神満『「イノベータージレンマ」の経済学的解明』  伊神満『「イノベーターのジレンマ」の経済学的解明』を含むブックマーク

 クリステンセンの書いたベストセラーイノベータージレンマ』(邦訳タイトルは『イノベーションのジレンマ』)は、イノベーションによって一時代を築いた企業が、なぜ次のイノベーションを起こせずに没落してしまうのかということを分析した本で、1997年出版の本ながら、いまだに多くの読者を得ています

 これは実際にこの「イノベータージレンマ」を起こしている企業が数多くあると感じられるからでしょう。例えば、2012年フィルムで一時代を築いたイーストマン・コダック倒産した時は、フィルム大成功を収めたがゆえにデジタル時代対応できなかったという「イノベータージレンマ」が語られました。


 このように「イノベータージレンマ」とはなかなか説得力のある理論に思えるのですが、では、本当にそうなのか? データからもそれは支持できるのか? ということを実証してみせようとしたのがこの本です。

 著者はイェール大学准教授で、まさに経済学最前線にいる人物。そんな著者が、軽い語り口で数式などを一切使わずに、それでいて先進的な理論をばりばり使って「イノベータージレンマ」を実証してみせるというのがこの本です。

 ネタ豊富なのでビジネス書としても読めると思いますし、「イノベータージレンマ」という題材を使った、因果推論や経済学入門書としても読めると思います

 しかも300ページを超えるボリュームなのに税抜き価格1800円とお買い得です!


 この本では「イノベータージレンマ」を検証するためにいくつかの仮説が提示され、それは以下のようにまとめられています

既存企業は「共喰い現象」のせいで「置換効果」に後ろ髪を引っ張られている。

2一方で、未来ライバルに対する「先制攻撃」として、「抜け駆け」イノベーションに打って出るインセンティブにも、駆り立てられているはずだ。

3そして、純粋研究開発能力においては、既存企業新参企業のどっちが優れているのか、その答え次第で「共喰い」と「抜け駆け」のパワー・バランスも変わって来る。(25p)


 1に関しては、先ほどあげたコダックの例がわかりやすいかもしれません。世界初デジタルカメラを開発したのはコダックでしたが、フィルム利益をあげていたコダックにとって、デジタルカメラはその利益侵食する、つまり「共喰い」する存在です。新しいイノベーションは自社の商品利益を奪う存在かもしれず、イノベーションに対する姿勢はどうしても及び腰になります

 一方、既存企業の方が資金をもっているわけですから、2のイノベーションの芽を買ってしまうという作戦可能です。特に近年のIT企業ではこれがさかんであり、フェイスブック次世代SNSと言われるインスタグラムをすでに買収済みです。

 既存企業が没落するのは「能力」の問題なのか?「やる気」の問題なのか?というのが3です。既存企業研究開発で新興企業に劣るから負けるのか、それとも研究開発では新興企業リードしているものの、イノベーションに対する「やる気」によって負けるのか、これを見極める必要があるのです。


 まず「共喰い」と「置換効果」の問題ですが、この本でとり上げられている例の一つが、ビタミンC生産です。ビタミンCはかつてロシュ、武田薬品、Eメルク、BASFが四大メーカとして君臨していましたが、2000年代以降、中国国有企業市場を席巻しています。これは従来の「一段階合成法」に替わる「二段階発酵法」という新製造法を中国企業が取り入れたからです。

 武田をはじめとする他のメーカーもその製造法を取り入れればよかったじゃないかと考えてしまますが、旧来の製造法でもそれなりに利益が出ていた既存メーカー新参メーカーでは、そもそも製造法によって新たに得られる利益が違うのです。新参メーカーにとっては新製造法の利益が丸々利益になるのに対して、既存メーカーにとって新製造法の利益一定の部分は旧来の製造法の利益が置き換わっただけです。これを「置換効果」と言います

 「既存企業は「既」に「存」在しているがために、イノベーションによる追加的な利益はそのぶんだけ少なくなってしまう」(55-56p)のです。


 「共喰い」が起きにくい新製品であれば、既存企業イノベーションにゴーサインを出すでしょうが、新しい商品自分たち既存商品とかぶってしま場合イノベーションの導入に慎重にならざる得ない状況に直面することになるのです。


 しかし、既存企業イノベーションに駆り立てる要因もあります。それが「抜け駆け」、「先制攻撃」というものです。

 勝者総取りのような競争が行われている場合プレイヤーはできるだけ速く動くべきです。この本では夏目漱石の「こころ」を題材に「抜け駆け」の誘引が語られています(実際に、「私」は「K」に対して「抜け駆け」をすることで「お嬢さん」を手に入れている)。

 例えば、検索事業現在グーグルの一強です。ここに「ぐぐ〜る」なる新サービスが登場し、市場の半分を獲得できる可能性があるとします。現在グーグルが1件100円×10億件の広告の売上を得ているとして、ここに「ぐぐ〜る」が登場すれば、広告1件あたりの単価は50円に下がり、案件は5億件ずつ分け合います

 「ぐぐ〜る」の売上は50円×5億件で250億円です。一方、グーグルが失う売上は今までの100円かける10億件=1000億円が250億円になるわけですから、その差の750億円です。つまり、ベンチャーファンドなどが「ぐぐ〜る」に対して払える金額が250億円であるのに対して、グーグルは750億円払うだけの理由があるのです。

 つまり、「共喰い現象とは違って、既存企業には独占的地位を守るためにイノベーションを追い求める誘引も持っているのです。


 既存企業には、カネがあり、人がおり、技術があり、信用があり、ブランドがあります(107p)。

 一方で、これらが揃っていても競争に敗れるケースがありますアメリカレンタルビデオチェーン店ブロックバスターは、オンライン配信の波に乗り遅れたために2010年倒産しましたが、実はネットフリックスよりも前の2006年にはオンライン配信事業の立ち上げに成功していました。しかし、やはり旧来の店舗を徹底的にリストラすることは難しく、後続企業に敗れたと考えられます。前に述べたコダックの例もそうですが、カネ、人、技術、信用、ブランドが揃っていても生き残ることはできなかったのです。

 一方で、純粋技術力がなくて負けた既存企業というものあるでしょう。実証分析を行う場合には、既存企業新興企業研究開発・イノベーション能力の差というものを測る必要が出てきます

 これはなかなか難しい問題で、「イノベーション」という言葉を普及させたシュンペーターも初期は新興企業の力を評価していましたが、後期になると大企業組織力研究開発能力評価するようになっています


 「相関関係データの中にある。しか因果関係は、我々の頭の中にしかない」、これは第5章で紹介されている著者の指導教授だったエド・リーマーの言葉です(131p)。

 イノベーションを起こす能力を測ろうとして、まず思いつくのが特許件数です。おそらく大きな会社ほど特許件数が多いという相関関係が見えてくるでしょう。しかし、だからといって既存大企業の方がイノベーションを起こせるとは言えません。

 「すべてのイノベーション特許対象になるわけではない」し、「すべての特許イノベーションを伴うわけではない」(134p)のです。また、あえて特許を取らないという戦略もありますし、有望な特許をとった企業大企業に成長していくということもあるでしょう。

 表面的なデータを見るだけでは、イノベーションを起こす能力のようなものは見えてこないのです。

 

 そこでここから実証の出番になります。著者は第6章以降で、クリステンセンが『イノベータージレンマ』の中でとり上げたハードディスク業界を使って、「共喰い」、「抜け駆け」、「能力格差」の3要素を実際に計測していくのです。

 この本では、まず「共喰い」の度合いを測るために需要関数を推計し、「抜け駆け」の原因を測るために利潤関数を推計し、「能力格差」を測るために投資コスト埋没費用)を推計し、シミュレーション分析を行います

 これは「構造分析」と呼ばれるやり方で、この「構造分析」に関する一般書は日本語だけではなく、英語でもないだろうと著者は言っています(159p)。


 というわけで、ここから先の実際の推計についてはぜひ本書を読んでください。

 すごく大雑把に言うと、「共喰い」に関しては新旧製品間の需要弾力性を計測します。操作変数法などによって導き出された新旧製品間の需要弾力性は2.3です(新製品1%値下がりすると、旧製品を買う人が2.3%減る(170p))。

 「抜け駆け」に関しては、まずハードディスク市場ライバルが増えるに従って利益が徐々に減少するクールノー市場であることを突き止めた上で、真の利益を突き止めるために真のコストを計測し、利潤関数を推計します。その結果、独占が崩れ2社、3社、4社、5社の競争となっていったとき、独占が2社になった時の利益の減り方が、例えば4社が5社になった時の減り方よりもかなり大きいことが見えてきます(204p)。ライバルに先駆けてイノベーションに踏み切るメリットというのはそれなりに大きいのです。

 「能力格差」に関しては、投資コストを計測するわけですが、この本では、まず投資から得られる期待価値と、一度投資したら戻ってこない費用埋没費用サンクコスト))を比較し、投資に踏み切るかどうかのタイミングを調べます。 


 さらハードディスク業界において、5.25インチHDDから3.5インチHDDへのイノベーションに注目し、企業を、5.25インチだけを売っている既存企業イノベーション前)、3.5インチと5.25インチを両方売っている既存企業イノベーション後)、3.5インチだけを売っている新参企業の3つに分類し、いつイノベーションに踏み切れば、あるいはいつ参入すれば最も高い利益を上げられてかを調べていきます

 こうしたことを調べていった結果、イノベーションコストに関しては、既存企業の方が少ない、つまり「素のイノベーション能力」では既存企業の方が優れているというデータが出てきます(249p)。

 つまり、「既存企業が鈍重なのは能力不足のせいじゃない。意欲や、努力が、欠如している」(251p)ということなのです。


 ここから、この本では今まで積み上げたデータを元に反実仮想シミュレーションを行っていきます

 例えば、既存企業が「共喰い」のジレンマを避けるために新部門分社化したらどうなるのか?というシミュレーションを行っていますが、このシミュレーションでは既存企業新参企業の差が小さくなります。つまり、分社化によって新部門が「共喰い」を気にせずに行動できるようにするというのは有効戦略なのです(それでも新参企業ほど積極的に新製品販売できてはいないが(256p図表9-4)。

 また、「抜け駆け」の誘惑がない状態イノベーションに対して盲目であると、既存企業新参企業の間には大差がつきます


 以上のような分析を受けて、第10章では「では既存企業はどうしたらよいか?」、第11章では「イノベーションを促進するにはどのような政策をとればよいか?」ということが簡単に触れられています

 そして、著者は本書のまとめとして次の3点をあげています

既存企業は、たとえ有能で戦略的合理的であったとしても、新旧技術事業間の「共喰い」がある限り、新参企業ほどにはイノベーションに本気になれない。(イノベータージレンマ経済学的解明)

2 この「ジレンマ」を解決して生き延びるには、何らかの形で「共喰い」を容認し、推進する必要があるが、それは「企業価値の最大化」という株主(つまり私たち家計投資家)にとっての利益に反する可能性がある。一概に良いこととは言えない。(創造的「自己破壊ジレンマ

3 よくある「イノベーション促進政策」に大した効果は期待できないが、逆の言い方をすれば、現実IT系産業は、丁度良い「競争技術革新のバランス」で発展してきたことになる。これは社会的に喜ばしい事態である。(創造破壊真意)(313p)


 ここでは本書の実証の流れをたどってきましたが、挟まれる実際の企業エピソード豊富で、最初にも述べたようにビジネス書的な面白さもあると思います

 そして何よりも、最新の経済学実証がどんなふうに行われているのかということを、難しい数式なしで直観的にわからせてくれるというのが本書の最大の売りだと思います

 また、この本で示されている「既存企業別に奢っているわけでもバカなわけでもないのだけれど新参企業との競争に負ける」という事実は、日本経済にとって耳の痛い話かもしれません。

 日本には長命企業が多く、それが一種の安定性を生み出していることは事実なのでしょうが、そうした中ではイノベーションは望みにくいわけです。世界を制覇した日本の電機産業が苦況に陥っている原因は、「経営者ダメだった」、「政府経済政策が間違っていた」というふうに理解されていると思いますが、この本によると、「そもそも企業としての寿命だった」とも言えそうで、ある意味で厳しい事実を示した本だと言えるのかもしれません。


「イノベーターのジレンマ」の経済学的解明
伊神 満
4822255735