2003/09/14*5
というわけで、「動物化するポストモダン」について、一通り書き終わったので、次は「網状言論F改」です。
この本の東氏(id:hazuma)の文章は、「動物化するポストモダン」のような論考ではなく、エッセイに近い短文と対談なので、批評も、感想を含んだものとなります。
そんなわけで、今回は、ですます調でいきます。
動物化するオタク系文化 統計的、集合的
短いながらも、「動物化するポストモダン」の要約や、方向性の説明などがあり、いろいろ参考になる一文です。
さて、それによると、東氏は、おたくを以下の観点から分析しているそうです。
(斉藤氏の論とは)ただオタクたちの人間的・主体的な方向に観点を置くのか、集団的・統計的な動きに重点をおくのかという部分でのみ齟齬があるとも言えるわけです。(p24)
えーと「集団的・統計的」と言いつつ、「動物化するポストモダン」に統計のとの字もないというのは、いかがなものか、と思うんですが*1。
「集団的・統計的な動き」に重点を置くには、「集団的・統計的な動き」を把握できないと意味がないですよね。
もちろん、一般書で、細かい生データを延々載せるわけにはいかないですけど*2、それにしたって「こういう調査をしたら、こういう結果が出た」くらいは書けそうなものです。
調査をしないにせよ、最低限、「この理論が正しいとすると、こういうデータが出るはずだ」とか「こういう調査で、その裏付けが取れるはずだ」という姿勢は、意味のある議論をする上で必須だと思います。
けれど、「動物化するポストモダン」の批評で述べたように、東氏の論考って、そのへんが甘いんですよね。定量的な議論は愚か、もっと基本的なところで、単純な反論可能性さえ意識してるとは思えない。
そのへんの問題は、この本でも幾つか見られます。次の「動物化」なんか、まさにそうです。
*1:厳密には、ここで言ってるのは、東氏と斉藤氏の、ウェブ書評、網状言論たちについてですが、そこでも別に統計的データ、視点は、直接でてきません。というより「網状言論たち」の「『戦闘美少女の精神分析』をめぐる網状書評」は、東氏が、「おたくを主体的にではなく、集団的、統計的に捉えるべきだ」という話なので、その展開である「動物化するポストモダン」で統計がないのはどうなのよ?って話になります。網状言論F改文章を読む限り「動物化」というキーワード自体が、集団的・統計的な動きを前提としたもの、と言っていいでしょう。それについては、あとでも書きます。
*2:一般書に載せられなくてもネットに置いてリンクを貼ってもいいよね
動物化するオタク系文化 動物化
ここでは、「動物化するポストモダン」の大きなキーワードである、「動物化」についても語られます。
(オタクたちは)集団として見れば、結局、猫耳が流行れば、バーッと猫耳、メイドが流行ればバーッとメイド、羽根が流行れば羽根というわけで、単にもう動物的に動いているだけだろう、と。むしろ、そういう風に捉えたほうが、オタクたちの行動は効率的に説明がつくし、その時に集団コントロールの技術がどんどん洗練されてているという展開を見たほうが、オタクのカルチャーは面白いんじゃないの、というのが僕のポイントなんです(p23)。
(九五年以降の時代においては)、実はオタクにかぎらず、ひとびとは一般的に「動物化」してるんじゃないのか、「癒し」とか「トラウマ」とか言いながらも、実のところ主体的な決断よりも統計的な集団として動かされるようになってるんじゃないか、と僕は問題提起をしてみたい(p24)。
これを読むと、東氏の「動物化」の定義が、「流行に影響される集団」ということが分かります。
即座に4つほど疑問が、でてきます。
- 「集団」として全体の動きだけで見る場合、その集団が流行に影響されてるのは当たり前じゃないの? 集団の動きを、他にどのように説明するの?
- 「「主体的な決断」よりも「統計的な集団」として動かされる」というのは、実のところ、どのように判断するの?
- 「大きな物語」とやらが健在だった時代。つまり、国民的大スターが存在し、みんなで紅白とか見て、同じ話題で盛り上がれた頃のほうが、集団に対する流行の影響力って強かったんじゃないの? 流行に流されるのが動物化なら、今って、むしろ動物化から離れてるんじゃないの?
- 社会正義に関する意識や行動とかなら、「流行に乗せられること」vs「主体性」みたいな構造はわかる。動物的には嫌でも、人間的にしなければいけないこと、というのもある。でも、娯楽について「主体的な決断」する必要あるの? 面白いそうなモノに夢中になって反応して、みんなと一緒に流行を共有して楽しめばいいじゃん*1。「主体性」と対立しないんだけど。
1と2は、反証可能性の問題です。その理論は、どうやったら証明でき、反証が可能になるのか。
普通だったら、これらに対して、統計的な立場から見た、反証可能性を定義して、次に実際に調査を行って調べるわけです。でも、本書にも、「動物化するポストモダン」にも、そういう記述はありません。南無。
3は、定量的な計測をする前から浮かぶ、単純な疑問です。「動物化するポストモダン」が、「ポストモダンの時代になって、こんなに変わった」という議論である以上、3は、わりと真っ先に浮かぶ重要な疑問だと思います。
4の問いは、反証可能性ではなく、単なる姿勢に対する疑問ですね。これも、すぐに思いつく単純な疑問です。
さて、これらの単純な疑問について、本書では、どのような答えを与えてくれるでしょうか?(ヒント:与えない)
動物化するオタク系文化 でじこ
他の部分は、基本的に「動物化するポストモダン」の要約なので、特に付け加える感想はなかったりします。
ただ一部面白い記述もある。「でじこ」に関しては、
さらに言えば、このでじこのデザインは、そのような変化にただ寄り添っているだけではなく、それを茶化しパロディ化する一種の悪意にも支えられています(中略)そういう自己言及的な部分まで考慮すると、僕はこのでじこが、九五年以降の「ポスト・エヴァンゲリオンの時代」を象徴する典型的なキャラクターだと考えています(中略)『デ・ジ・キャラット』の悪意はズバぬけている(笑)(p32)
と書かれており、本日記で指摘した問題点を、既に意識してることが伺えます……じゃぁ、なんで「動物化するポストモダン」にそう書いてなかったのよ、と思うわけですわ。
まぁ東氏が、「このでじこの悪意を見抜いたのは俺だけだ。バカなオタクどもは、ころっと騙されてるぜ」みたいな安直なことを考えてるわけはないと思いますが、一応、書いておくと、オタクというのは、昔から自己言及的なネタを好み、自虐ネタも作り手の悪意も大好きです。
オタクに限らず、集団の構成員が、わざと自分の属する集団をさげすんでみせるというのは、連帯を確認する方法論として、一般的なものですよね*1。
ともあれ、その悪意こそが、「でじこ」普及に大きな意味を持っていた、という重要な記述が「動物化するポストモダン」では、すっぽり抜けています。この章自体は、「動物化するポストモダン」の発売前に書かれた(講演された)ものなので、大きな謎が残る。いったい彼はなぜ、そこの記述を抜かしたのでしょうか?
実はこの、悪意を受け取れること……つまり、自分の動物性に自覚的であるかどうかというのは、東氏の「動物化」理論において、大きなキーワードになっています。
*1:評価の高い野球選手が、「俺(達)は野球バカだから」というと、他の野球選手は、うんうんとうなずくわけですが、そこで野球を知らない外部の人間が「あ、野球バカだ」と言ったら、怒られるでしょう。野球に限らず、構成員が、自発的、自覚的に所属してる集団の場合、こういう身振りは、たいてい成立すると思います
動物化するオタク系文化 IT
世界のデータベース化は、経済的にはグローバル化、技術的にはIT化によって支えられます。この二つが関係していることはよく論じられますが、その同じ変化が文化的側面では「ポストモダン化」として現れている、というのはあまり指摘されません。しかし、データベース化、グローバル化、IT化、ポストモダン化、文化的多様化などがみな同じ大きな変化の一部である、というのは、だれもが直感的に感じていることだと思います。p28
「動物化するポストモダン」の批評(9/11あたり)にて、この本にはポストモダン化のメカニズムの説明が欠けている。例えばネットの勃興によって、このように説明できる、とか書いてほしい、と述べたわけですが。
ここで、東氏は、IT化、グローバル化と、ポストモダン化が関係あると述べています。いや、わかってるんだったら、「動物化するポストモダン」に、そう書いておけ、と心の底から思うわけです。
さて、id:hitomisiriingさんの9/12のコメントのコメントにて、goito、伊藤剛氏から、
『望月さんは「ポストモダン、という言葉は一般に知られていない」と書きましたが、ポストモダン、という概念に親和性のあるひともいるのです。それは「オタク的」なカルチャーにディープに関わっているひとと同じ程度にはいるかもしれない。そのへんの想像力を持ってもらったほうがいいと思います』
というコメントをいただきました。
俺は、そう、「ポストモダンという概念に親和性のある人」というのは「オタク的なカルチャーにディープに関わっているひと」と同程度にしかいないと思っています。つまり、圧倒的大多数の人は、どっちも知らない。読者というのは、そういう人である、というところから始めなくちゃいけない。
では、そういう人は、どういうことに興味を示すか? まぁ「オタクから見た日本社会」という本を買うくらいですから、オタクおよび日本社会に関する面白い事実くらいには興味を持つでしょう。「でじこ」とかね。ここまではいい。
次に来るのはメカニズムの説明です。普通、人間というのは、具体例を欠いた抽象思考には、あっという間に興味を失うので、その興味を持続させるため、さっきの事実を直接説明するような、具体的なレベルの理論・メカニズムの考察を行います。この場合「でじこ」は具体的に、どのように生まれて、どのように受け取られたか。なぜ、これまで「でじこ」みたいなキャラが生まれなかったか、とか、そういう話です。
そういう考察を積み重ねて、やっと最後に、抽象度の高い理論……この場合は、文化全体のポストモダン化の話を振れるわけです。
ところが東氏は、そういう当たり前の説明をしない。「でじこというキャラがブレイクした」→「データベース化だ」。「ノベルゲーが流行った」→「大きな物語の崩壊である」みたいに、中途をすっ飛ばして、すごく抽象度の高い理論にくっつけている。
これは、論として粗雑ということもありますが、それ以前に、最初から「大きな物語」「ポストモダン」に興味を持っている人相手にしか伝わらない説明です。普通の人……数少ない現代思想オタク以外にとってどう見えるかというと、様々な事実を、聞いたこともないし、実感もない、もしかしたら、ただの屁理屈かもしれない「ポストモダン」とやらで、説明されて、何も分かった気がしないわけです。
もちろん、意味が伝わってないにも関わらず、「おぉ、なんか俺様、頭が良くなった気がするぞ」的な感想を得ることはあるでしょうが、それはきっと、東氏の望んでることではないでしょう。
動物化するオタク系文化 ノベルゲーム
具体例としてあげられているノベルゲームについて。
ノベルゲームというのは、簡単なツールで、ゲームから画像データなどが吸い出せるようになっています。
東氏は「例えば同人誌ではキャラクターは自分の手で描くわけだから、作家性の残滓が宿る」「吸い出したデータを使えば原作と同じ価値を持つ別ヴァージョンを自分で作れるようになる」と述べ、そうした新たな二次創作、シミュラクラの可能性を指摘し、その具体例として、マッドムービーを上げています。
さてマッドムービーで「原作と同じ価値を持つ別ヴァージョン」的な作品……つまり、「痕」なら「痕」のデータを使い、原作と同じ画面構成の中で外伝やらSSを語る作品が出回れば、それも一理あるでしょう。
実際には、マッドムービー……Flash系に、そういう作品は、限りなく少ない。まずマッドと名のつくものは、たいていは全然違うジャンルのものを組み合わせて、受けを取る一発ものが多い。画像はミキシングの材料であって、要するにサンプリング以外のなにものでもない。
東氏の考えてるのに近いものは、ノベルゲームの製作ツールです。「痕」からデータを抜き出して、自分でノベルゲームを作ることは、マッドムービーではなく、そうしたツールを通じて可能になる。なかでも、原作そっくりのものを作ることに特化したツールとしてDNMLなどがあります。
もしこのDNMLとかが大ブレイクしていたら、作家性を排除し、「原作と同じ価値を持つ別ヴァージョン」を作る欲求がある、と認めて差し支えないと思います。
さて、筆者は、DNML界隈(あるいはDNML的な、原作画像をそのまま使った自作ノベルゲーム)に詳しくないんですが……ま、控えめに言って同人誌は愚か、Flash系に匹敵する価値を持つところまでは行かなかった、と言ってもいいんではないかと思います*1。流通させにくい。プレイしにくい、というのもありますが、ある意味、同人誌やマッドムービーを作るよりラクだというのに。
そういう環境があるのにブレイクしなかった、というのは、やっぱり、作家性を排除しようとする欲求自体が、ないんじゃないかと思わざるを得ません。
同人誌は、萌える絵、抜ける絵を求めて買うもので、「作家性の残滓」どころか「作家性」自体を求めている。別にオリジナルのコピーが欲しいわけじゃない(原作者が描いた絵ってのならともかく)。
東氏の考えるような「データベース消費」というものが存在しないという、もう一つの例証かもしれません。
*1:DNML界隈に詳しいかた、教えていただけると幸いです