「指導者の条件 山本七平著」

山本七平ライブラリー5 指導者の条件

山本七平ライブラリー5 指導者の条件


構成としては、

  1. 日本の組織における特徴 [id:mrstx:20050926:1127737503]
    • 日本における「契約」という概念
    • 「自然」という規範 [id:mrstx:20050926:1127743112]
    • 西欧の組織の概念を取り入れた「軍隊」と日本が自ら構築した「一揆」との相違[id:mrstx:20050927:1127772572]
    • 組織とはそもそもどうあるべきか(基礎集団、機能集団)[id:mrstx:20050928:1127874333]
  2. 日本的組織を再構築するにはどうすべきか
    • 「契約」「自然」という概念を日本と西欧とで対比させ、その本質的な違いとは[id:mrstx:20050928:1127874588]
    • その二つの概念により、それぞれの組織がどのように構築されているかを検証[id:mrstx:20050928:1127905268] [id:mrstx:20050928:1127905269] [id:mrstx:20050928:1127905270] [id:mrstx:20050928:1127917641]
  1. 日本型指導者とは
    • 日本の組織から生まれるべくして生まれてきた指導者の像
    • 本来あるべき指導者とは
    • 日本と西欧の指導者(組織)を融合させる際の注意点
  2. 指導者とは

指導者の条件(2) − 日本の組織における特徴

日本社会の基本原則

伝統的社会構造←→精神構造が社会の基本原則であり、法律にはそれが現れている。

日本の社会はすべて機能的原則が基になっていて、機能していないものには何らの特権も認めない(ex.擬制としての血縁集団)

企業、議員、伝統芸能などには世襲が残っているところも数たくさんありますが、果たしてこの総意によるフィルタリングが機能しているのかは疑問なところですが。

法律がどんな原理に基づいているかということはあまり問題にしない。これが社会の中で十分機能して、効果をあげればよろしい

これが一つの内心の規範に一度なってしまうと、制定した権力がなくなっても機能しつづけるものです(中略)ただし、抵抗できないほどの情況の変化があった場合、(中略)生存するということが第一であるということに尽きます。

日本の現代社会において、何が最後の秩序なのかといえば、

機能集団においてある任務を果たしていることが、同時に共同体への奉仕につながっている精神的満足

だろうと。

それを踏まえると、

日本の組織は「機能集団」と「共同体」という二つの面をもっていて、人事についてもたえずこの両方を勘案していかなければいけない

と言える。
「恩」に対する意識を見てみると、若者の保守化が見られ、この構造は変わらないのではないか。

日本社会の基本原則より導かれる特徴

  • 「恩」に報いる = 共同体への忠誠心
  • 質問あって命令なし = 組織に中心がない条件下、合議制という名の空気を読みまくらないといけない場において、上司が期待する「機能」を果たす

最低限上司がそのポイントを押さえておかないと、この仕組みさえ成り立たないのですがいかに。

組織的なものの存在がなくていったいどうやって済ましていたのかということになるのですが、鎖国という非常に堅固な枠だけは絶対に破らない、そしてこの枠の中で中心は立てない。

総論賛成各論反対が生まれるのもこのせいでしょう。うーん、枠に「柔軟性」を持たせてみせるのも一つのテクニックか。

自分自身で長い歴史をかけて一つの体系を作り上げてきた、それが西欧のさまざまな科学技術を輸入するのに非常に好都合に出来ていた。(中略) と同時に、そこで非常に危険な面もたえず出てくるのですが、この二つが同時に出てこない。同時ではないから、どこかまでいくとその二つが矛盾した形で出てくる。(中略)だいたい動きが取れなくなってきた場合には、いままでプラスに作用してきたものが全部逆に重荷になってくる。重荷になってきたとき、これをどう変えていくという方法が結局見つからないので、ただ壊せばいいという発想になります。(中略)いまあるものを何でも壊してしまえば、そのあとに何かが自然発生的に出てくるだろう

いや、なんともいえない既視感。

指導者の条件(3) − 「自然」という規範

西欧における「契約」

  • 日本 − パンティズム − 中心がない
  • 西欧 − モノティズム − 一つの中心
民族の独立
小国が宗主権者と条約を結ぶように、自分は天上の神と契約を結ぶ、その契約に基づいて国内法というものを作る

神 ←契約(国内法 ex.モーセの五書)→ 政府 ←契約(カノン)→ 国民

カノン=物差であり、このカノンにより平等であることが人間の平等であり、組織論の基本。

日本における「契約」

  • 日本語は図像言語型であり、論理不在
  • 外来思想は、日本的パンティズムのなかで分解でき、その文脈に組み込んでしまえる

日本人は、逆に、そのように論理的に論証されたものは信用しません。「曰く言い難し」の面があるはずで、そのように完全に論証されたのならおそらく嘘だろう、ということになってしまう。うっかり証明すると、逆に、信用を失ってしまうのです。それよりも図像言語的積み重ねによる説得、あるいは感情的受容の方を正しいとする。

しかし、日本では契約など堅苦しいルールがなくても何かしら秩序は保たれている。その秩序の根本となるものは、「美的判断」であり、これが日本人の考え方の規範となっている。
その「自然」とは

「日本という風土の持つ秩序」
いわば「自然に起因」する「人間の権利」をもち、「自然の定則」に従って「生活を遂ぐべきもの」が人間

ということ。

ルールありきで人間の自然な行動を規制するべきではなく、逆にその自然な行動こそが人間の規範となるべきものである。


いやー、私がSNSになじめず、はてなになじめるのもこの日本人として「自然かどうか」という美的判断に基づいたものだったわけですね(笑)

この手の源流をたどると鎌倉幕府にたどり着くようだが、鎌倉幕府時代は主権者が権力を発揮できなかったがために混沌とした状態になり、その自由さから今日にまで残るような新たなルールが生まれた、ということは随分皮肉なものだ。