Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

ガーリーフォト - Wikipedia ※2009年4月1日 (水) 08:01; 61.202.18.21 (会話) による版

ガーリーフォト (girly photo) とは1990年代後半に流行した写真の一傾向。「ガーリー」とは "girl" の形容詞 "girly" もしくは "girlie" の転用であり、この場合は「少女の撮る写真」の意として使われる。

コンパクトカメラやレンズ付きフィルムの発達により、専門的で面倒な技術を持たなくてもある程度の写真が撮れるようになって、女子高生などの間で写真を撮ることが一般的になり、ある種の流行現象となったことから生まれた。またこれらのカメラは手軽に持ち歩くことが出来たので、身近で日常的なものを被写体にする傾向が高く、パーソナルなコミュニケーションの手段として彼女らの間でもてはやされた。 また読者投稿を主体とした写真雑誌アウフォトなどが創刊され、ブームを作った。

1995年、当時19歳であったHIROMIXキヤノン主催の「写真新世紀」でグランプリを取って評価され、テレビなどで報道されたこともあって、一般的に認知されるようになった。この写真新世紀を始め、ガーディアン・ガーデン主催の「ひとつぼ展」などがこの時期のガーリーフォトの写真家をプロへと引き上げる登竜門ともなり、ブームを加熱させた。 この両方のコンテストに関わった写真評論家・飯沢耕太郎の影響が大きいと思われる。とりわけ『ガーリーフォト=女性のセルフヌード』という図式を築いたのは、とりあえず彼の功績である。

写真ブームを牽引したアウフォトには、地方の女子高生や男性の作家による、日常生活をテーマにした作品も掲載されていたが、前述のような『ガーリーフォトの写真家をプロへと引き上げる』ような恩恵を受けられたのは、竹内万里子のいう『写真村』に出入りしていた、主に東京の美大出身者や写真学校の生徒、美術関係者と面識のある女性写真家であった。 つまり、『写真村』とアウフォトは無関係であった。

以上の点から、『ガーリー・フォト』とは職業年齢性差を問わず起こった90年代の写真ブームの中で、一部の評論家が、自分の周辺にいた、セルフヌードを売りにした女性写真家を、マスコミに載せるために作った概念であるといえる。

写真家の篠山紀信はブームの初期から、そのような評論家主導によるガーリーフォトのありように懐疑的であった。(篠山紀信著『写真は戦場だ!』参照)

なお、今日ではガーリー・フォトグラファーの面々がセルフヌードを撮っていた事はあまり話題に上らない。

また、海外ではむしろテリー・リチャードソンやウォルフガング・ティルマンズなど男性のコマーシャル写真家が80年代後半からコンパクトカメラを用いた作品制作を行っており、『ガーリーフォト』という枠組み自体が、日本的なジェンダー解釈(あるいは性的偏見)を露呈しているともいえる。

また、同時期には街頭でのプリクラなどの流行もあり、簡単に撮れて即時に写真が入手できるようになったという背景もある。このような写真の大衆化の傾向は、その後のデジタル写真技術の進歩とも相まって、従来の専門的な暗室技術や専門店への発注といった手間を省き、家庭用プリンターの普及を促進させる要因ともなっている。

2000年代になり、ガーリーフォトという言葉は死語になりつつある。しかし、カメラ付き携帯電話やデジタルカメラの爆発的普及で、写真を撮るということがさらに日常的な行為となり、ガーリーフォト的な写真が世代性別を問わず一般化したと言うこともできる。

いっぽう、煩雑な技術の束縛から解かれて、瞬時の感性によって見たものを記録することができるようになったことで、写真というメディアにこれまでにない視点が持ち込まれたということでは、新たな可能性を示したともいえる。極めて卑近な日常やプライベートな空間を写真イメージとして捉えることで、撮影者と被写体の距離が限りなく融合して独特の親密な関係性が発生し、このことを応用してファッションなどの広告表現の場に持ち込もうとする試みが成された。

また「ガーリー」の範疇とはいえないが、このような写真技術の大衆化によって、高齢女性による極めて日常的な個人の感性による記録が写真という枠を超えてひとつのドキュメンタリー作品として評価される例(関連項目「増山たづ子」の項参照)も現れた。

http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%88&oldid=25157824
独自研究削除」ということで消去された内容を発見。


>>>飯沢耕太郎「写真家たちのステージ──「写真新世紀」と「ひとつぼ展」」より
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20090819#p3


>>>飯沢耕太郎さんと「少女」
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20090819#p8


>>>飯沢耕太郎戦後民主主義と少女漫画』関連
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20090817#p5


>>>飯沢耕太郎さんと安楽寺えみさん
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20090819#p9


http://d.hatena.ne.jp/n-291/searchdiary?word=%c8%d3%c2%f4%b9%cc%c2%c0%cf%ba

篠山紀信 ピュアな感性とパワーが「表現者」として自立する時(「写真ブーム」の勘違い/『egg』とHIROMIX/スケベな評論家の虚妄性/「私写真」は新しくない/プロの写真家とは何か)より

〔略〕 最近は『日本カメラ』のようなカメラ雑誌でも「女子高生写真家が撮る」なんていう企画をやってますけど、この子たちはカメラ雑誌になんか興味はないし、写真を表現として考えているわけでもない。ただ喉が渇いたときに冷たい水を飲んだら気持ちがいい、というような感じで、そこにたまたまカメラがあったから写真を撮ってる。カメラじゃなくても、他のものでスカッとできればそれでもいいかもしれない。そのぐらいのものです。ところが写真業界の人たちは、新しい写真表現があるとか、写真ブームであるとか言って、自分たちの側に引っぱり込もうとするわけですね。そこにそもそも勘違いがあると思うんです。

ただ面白かったのは、この写真(135頁参照)を見せたときに、彼女(引用者註:「オノトモ」こと小野智子さん)が「うーん、この写真は何も描かないほうがいいと思う」と言ったんですよ。これは実際、オリジナルで見るとすごくいい写真なんです。つまり隙間とか、ここを絵で埋めようというようなところがない、完璧な写真だったわけですね。それでもせっかくだからちょっと描いてよって言って、無理に描いてもらったんだけど、 〔略〕 僕はその言葉を聞いたときに、この子の青春は終わったんじゃないかと思いましたね(笑)。写真とか表現とかを全然意識しないでやってた彼女が、ここには絵を描くのがもったいないと躊躇してしまった。写真表現を感じてしまったわけです。そういう意識が生まれると、もう『egg』のような自由なものはできなくなっちゃう。そうなると、もう「こっち側」の人間ですからね。そこで「キヤノン写真新世紀」とか飯沢耕太郎とかの出番になるわけです(笑)。
 そうやって青春が終わって大人になったときに、彼女たちがどこへ行くかというと、たとえばHIROMIXという人になったんですね(笑)。彼女は写真として新しいということを言われていますけど、『egg』のようなものとは完全に隔絶しています。それはもう、この人には表現という意識があるからです。彼女はインタヴューでも「長続きしたい」ということを言ってましたね。新聞なんかに「写真ブーム」が取り上げられると、HIROMIXも『egg』も同じという感じで語られていますけど、まったく違う。確かに若い女の子たちが裸になって自分を撮って、オッパイなんか写ってたりすると、鼻の下をのばしたスケベな写真評論家がそれを写真家として祭り上げちゃったりという風潮はありますね。だけど、それは一時的な現象であって、当人が持続的に表現者としてやろうとしたときに、これほど辛いことはないわけです。若いときはそれを意識的に排除したりすることはできないし、持ち上げられると有り難がるから、スケベな評論家や編集者のいい餌になっちゃう。

 撮影の後に三人(引用者註:篠山さんとHIROMIXさんとホンマタカシさん)で喋ってみると、『アサヒカメラ』が言うところの「渋谷系」の写真に対して、彼らもすごく批判的でしたね。そもそも、素人の若い子たちが写真を撮るというのは昔にもあったんです。ポラロイドが出始めたときにも、現像に出さずに秘密を守れるということがあるから、恋人のヌードを撮ったりして「私写真」なんていうのが流行ったりしました。それが今またブームなんて言われてるのは、カメラが軽くなったり、使い捨てカメラの普及があって、写真を撮って楽しむ人たちのレベルでそれが爆発的に拡がったわけですね。でも、それで写真に新しい表現が出てくるかと言ったら、そんなものは何も関係もないと思います。それを「女の子写真」などと命名して一括りに持ち上げる評論家がいるから、めいめいが迷惑しているだけです(笑)。

『写真は戦争だ! 現場からの戦況報告』(フォトリーヴル04 河出書房新社)所収
http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309902746
http://www.bk1.jp/product/01573757
篠山紀信さんによる飯沢耕太郎さん批判。
「鼻の下をのばしたスケベな写真評論家」参考→ → → →


◇ 写真は戦争だ!―現場からの戦況報告 (フォト・リーヴル): 篠山 紀信: 本 - Amazon.co.jp

内容(「BOOK」データベースより)
「写真ブーム」の正体は何か。デジタルイメージは写真をどう変えるのか。東京という都市は今どう変貌しつつあるのか。世間を騒がせたヌード写真集の舞台裏には何が起きていたのか。写真家は未だ芸術家たりうるのか。写真評論家はなぜ駄目なのか。現代におけるマスメディアの本質とは何か。写真は社会の中でどう機能しているのか。―時代と並走しつづける写真家が、マスメディアの現場から語る写真術・写真論の精髄。写真批評誌『デジャ=ヴュ・ビス』の好評連載、待望の単行本化。

内容(「MARC」データベースより)
写真の現場でいま何が起きているのか。「時代」と格闘し続ける写真家がマスメディアの最前線から発信する、写真評論家には書けない実戦的写真論。数々の修羅場をくぐりながら感得した篠山写真術の全貌が初めて明かされる。

http://www.amazon.co.jp/dp/430990274X
もちろん、ここでの「写真論」とは、荒木経惟さんの「写真論」と同じく
あくまでも意見・見解なのであって、「theory」ではありません。
しかし、実際の現場(戦場?)での経験に裏付けされた貴重な言葉が満載です。


◇ デジャ=ヴュ・ビス ― 写真と批評/第10号 - MILBOOKS -online book seller-

連載:写真は戦場だ 現場からの戦況報告(10) ピュアな感性とパワーが「表現者」として自立する時 篠山紀信

http://www.milbooks.com/shop/detail.php?code=BK070645
上記引用記事の初出。
発行は1997年(おそらく9月)。
ちなみに、HIROMIXさんの最初の写真集『girls blue』は1996年9月24日初版発行。
『アウフォト』(Out Of Photographers)の創刊号は、1997年5月発行。


>>>【コラム】Photologue - 飯沢耕太郎の写真談話 活躍する女性写真家たち - マイコミジャーナル
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20090507#p11


>>>西井一夫『写真的記憶』(青弓社)より
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20090130#p8