Sugar+Spice 2

Sugar+Spice2Sugar+Spice2
(2010/07/30)

システムとかキャラクターを別とすると、前作『シュガスパ』のキモは(特に『恋文ロマンチカ』なんかと比べた時のシステム・シナリオ・キャラ以外での最大の差異は)、「記憶喪失」と「what a little girl made of.――女の子ってなんでできてるの?」の二つにあったと言うことができるでしょう。後者――「what a little girl made of.」は、ゲーム冒頭に意味深に語られ、まるで本作のテーマのように標榜されることによって、そして、そうであるにも関わらず最後までその(明確な)答えが明らかにならないことによって、作中においてエピソードを選ぶことにより構築された日々を纏め上げる力能を持っていた。女の子を構成しているステキななにもかもの答えは分からないのだけど、各々の個別シナリオラスト部分(あるいはエクストラエピソード)が示唆するように、または「EVERYTHING NICE!」が暗喩するように、”この日々全てが”そのステキななにもかもに当てはまるかのようであり、当てはまりきらないようである。そして、そうであるが故に、この日々にはただの女の子攻略を越えた輝きが存在していた。
――考えてみれば、「EVERYTHING NICE!」とはまさにそうだったのでしょう。あれは全員のED見れば出てくるファイナルエピソードでして、そして全員のEDさえ見てればよくて、つまり全員のEDさえ見ていればその過程=道中=日々は気にしないということです。エピソードを全部洗って探してコンプリートしてようが、必要最低限だけをプレイして極々僅かなエピソードでEDに至ろうが、あるいは誰かに告白してフラれて別の誰かに告白して上手くいったけれど後に別れてそしたらまた別の誰かに今度は告白されて付き合ってみてそのままEDなんて過程を辿ろうが、EDにさえ至っていれば何だって同じなワケです。つまり、どんな日々だったのかは問われていないということであり、ということはつまり、”どんな日々であろうとも”EverythingNiceだということ。
同じようなシステムの『恋文ロマンチカ』がぶっちゃけつまんなかった理由の一つとしてその辺を挙げることもできるでしょう。『恋文』は、日々が筆(習作システム)に結実されるにも関わらず、筆(習作システム)が恋(攻略アイテム)を生むこととしてしか機能していない。簡単に言えば、筆のために、別に見たくもないエピソードすら選択したい気分にさせられ(選択しないと損した気分になる)、かといって習作極めたら作家デビューとかそういうのがあるわけじゃなく、単純に作家になれるシナリオならなれる/なれないシナリオならなれない、という形で作られている。つまり、日々と筆は恋を生む=女の子攻略に回収されるのだ。日々が(習作システムにおいて)筆に回収されながらも、筆の生産物(すなわち日々の生産物)が攻略アイテムでしかない。恋すら筆の糧とせよ、と言いつつも、筆の生産物が恋しかないという、女の子攻略で纏められてしまう円環が出来上がっている。ただの女の子攻略に回収されてしまうのなら、選ぶ必要がないエピソードを選んでしまうなんて無駄すぎて辛いのだ。その点、これは『Sugar+Spice』ですから、『2』においても、その「what a little girl made of.――女の子ってなんでできてるの?」は生きています(1よりはコンテクスト的に弱くなったとはいえ)。けれど「記憶喪失」という機構は失われている。


システムというのは物語を作り出し、物語というのはシステムによって作り出される。当たり前ですが、セリフやモノローグ、出来事や状況・状態の変化をつなぎ合わせたものだけが物語になるのではなく、たとえば映像作品ならイメージが(その連鎖が)、ゲームだったらその体験やシステム構成が、物語を時に象徴的に、時に暗喩的に、時に本質的に、作り出したり構築したりしている。明確なRPGやアクション・シミュレーションジャンルではなく、こういったノベル・ADV色の強いエロゲだと、そこにおけるノベルやADV的でないシステムの持つ意味が一般的にはあまり重視されない傾向が強いかと思うのですが、いやむしろそここそを重視するべきだと思うので勝手に重視したいと思います。つまり、何かと言うと、たとえば『少女魔法学リトルウィッチロマネスク』では、お話の進行の大部分はノベル・ADV形式でありながらも、その他のゲーム進行は「サイコロを振る」というシステムにより構成されています。これがどういう意味を持つのかというと、サイコロを振る=運=運命という要素のメタファーですね、実際に個別シナリオというのは大半が運命に関わるお話であり、であるからこそゲームの進行は運命に支配される「サイコロを振るという行為」に握られていた。さらにこのゲームの場合は出目をある程度操作できるものであり、つまりそれもまた運命をある程度操作する(曲げる・変える)ということに象徴的に繋がっている。また、たとえば『祝福のカンパネラ』では、後から考えると(つかプレイ中でも)特に意味が無かったと思えるくらいに必然性の感じられない戦闘シーン演出(まるでRPGのような画面になる/実際の操作はRPGではなくただ選択肢を選ぶだけなんですけど)が入りまして、つうかあそこまで作りこんで選択肢とか勿体無い、ここまでやるなら本当にRPGとかアクションにしちゃった方が面白いんじゃないのとか思ってしまいますが、しかし選択肢であることにも意味がある。殆どの選択肢が「周りの話をちゃんと聞いて」「周りの言う事(助言)を信じて」さえいれば正解を選べるものであり、つまり戦闘パートが選択肢で出来ているというのは(作中でも何度も出てきた)「信頼」ということを体現する/再現前させる為に必要なモノであった。

では『Sugar+Spice!』は?  ―――前作においては、そこに「記憶喪失」という要素が大きく絡まっていた。ゲームの進行はエピソードを「選ぶ」という形式なのですが、選んでないエピソードも後々に「あの時どうこう」と言及されることがあるように、「あったこと」になっている場合が多々あります。多々というより、”矛盾が生じない限り全て”かもしれません。その辺を実証する術はありませんが、しかし明らかにプレイヤーが選んでいないのに和真(=主人公くん)が体験しているエピソードがあるのです。この齟齬は、システム上どうしようもなく起こりうる齟齬ですが、しかし『シュガスパ1』ではそれをシステム内の必然レベルに落ち着けている。『シュガスパ』のシステムは、プレイヤーがエピソードを選択することによって構築されているように見えますが、選んでないエピソードでも主人公が体験しているように、実はそうではありません。プレイヤーが選んでいるのは、プレイヤーが「見れること・見ること」であって、和真が「体験すること」とイコールではない。つまり私たちが選んでるのは和真の体験ではなく、私たちが見ること(知ること)が出来る和真の体験のどれか、を選ぶということに他ならない。これは換言すると、「私たちが覚えていることを選んでいる」ということが出来るでしょう。和真の経験の中から、プレイヤーが知る・見る=つまり覚えていることを選ぶ。ならばこれは、プレイヤーとプレイヤーキャラクターの同一性といういつものコードも加味しつつ、この齟齬は、和真からすれば「プレイヤーが記憶喪失である」と言うことも出来る。プレイヤー=和真の体験から、プレイヤーの記憶だけがポロっと落ちている。
これはMAPを巡る構造だからこそ起き/そしてだからこそこのゲームはMAPを巡る構造なのです。主人公の父が考古学者だというのが暗に示している。ゲームプレイというのは(作中でも出てきた)考古学と相同するように喩えられ、つまり、MAP上を巡ること=フィールドワークであり、エピソード(アイテムリスト)集め=発掘であり、それを行なうプレイヤーが和真を導く者/和真がプレイヤーを導く者=考古学者である。だからこそMAPを巡る構造なのです―――そこには勿論、もう一つの要素「what a little girl made of.」も存在します。女の子ってなんでできてるの? は、ゲーム冒頭でテーマのように標榜されながらも、その答えは決して解き明かされない。「ステキななにもかも」が何なのかは解明されない。それは中心にありながら中身がない/中身が問われていない/中身が機能していない、ある意味「この構造を為すため形式的に中心に置かれているもの」として、つまり「空虚な中心」として、中心に座す。どこまで行っても「what a little girl made of.」の中身は不明であり、であるからこそ、また彼女たちへの感謝で「EVERYTHING NICE!」が締めくくられるからこそ(そこは『2』も同様)、この日々全てが/ここ(EVERYTHINGNICE)に至るまでの日々全てが、その中身のようであり/中身ではないようであり/中身なんてないかのようであり、つまり日々が女の子攻略などに回収されないで、ステキななにもかもでありつつそこにすらも回収しきれないで、純粋に、その輝きを保てていたのです。


では『シュガスパ2』はどうか? ―――というと、おおよそ同じというか似ている感じです。ぶっちゃけ、『1』のコピー。キャラとシナリオと設定が(当たり前だけど)総とっかえされただけの『シュガスパ』、と言っても過言ではないくらい(勿論システムなんかも多少は変わっていますし、音楽は全部違いますが)。ただ2作目だから「what a little girl made of.」はコンテクスト的に弱くなっているし(あとあれは「記憶喪失の主人公」だからこそ十全に機能する)、そしてなにより「記憶喪失」設定が無い。今回の主人公は記憶喪失ではないのです。
その分、先に記したような「齟齬」は非常に抑制されています。つまり、「選んでないエピソードを主人公が経験している(あったことになる)」という現象が非常に抑えられている。前作は選んで無くても「あの時どこどこに行った」と言及されたり、たとえば司から告白されると初エッチが見れなくて、選択可能なエッチイベントはいきなり2回目のエッチになってる(僕らが見てないうちに和真くん済ませやがった!)みたいな齟齬がありましたが、そういうのが(そういうのを感じさせるテキスト・イベントが)ほぼ無い。和真が体験することではなく、和真が体験したことから私たちが見れることを選択するというのが前作の構造でしたが(齟齬を合理的に解釈するとこうなる)、しかし今回は齟齬が(ほぼ)ありませんから、つまりここでの選択は、「響(=主人公)が体験することを選択する」というごく真っ当な形に概ね落ち着きます(※齟齬は絶無ではないので、概ね)。
では行動=MAP上の選択の指針は何処に置かれるか。あるいは、MAP上の選択は”何に回収されるか”。前作においては、そこにプレイヤーと和真との齟齬――つまり「プレイヤーの記憶喪失=記憶回収」がありました。見れば見るほど、私たちの失われた記憶を回収していくという形になっており、また記憶を失くした和真が自己を安定させる(EveryhitngNiceで語られるように)ための道筋にもなっていた。選択という行動はそこに回収されていた。では『2』はどうか。記憶喪失というある種メタ的な操作がなくなったために、そしてプレイヤーの選択=(あるいはニアイコール)響の選択となったために、前作のような屈折はなく、単純に、響の行動指針=プレイヤーの行動指針/プレイヤーの行動指針=響の行動指針のような式が出来上がる。では響の行動指針は何かというと、それは作中で幾度か語られたとおり。

響 「楽しい事とかおいしいものって世の中に一杯あるんですよ」
響 「それこそ、毎日全力疾走している人でも、見つけきれない程に」
姉さんはあれだけ生き急いでいれば、どこかで興味が尽きることもあるかもしれない。
でも、まだまだ世の中は楽しくて、おいしいものも沢山あるらしい。
響 「だから、知らないのはもったいないです」
世の中楽しんだ者、勝ち。
病は気から、じゃあ逆もあり。
俺が姉さんに教わった生き方で、合言葉だ。

「楽しいこと」「楽しむこと」が生き方であり合言葉であり、つまりは行動指針としている。もちろん、誰かに優しくしたり誰かを助けたりといった指向もあるんだけど、彼にとってはそれすらも「自分の為」であったりする(「人の幸せも自分の幸せも、響くんにとっては、全部自分のためなんです。ひどいエゴイストなんですよ、彼」と銀河に見抜かれていたりするように。それどころか八方美人の暴力性までも薫子に指摘されていたりする(「そこまで言って、結局困っていれば私でなくても良かったって事じゃない。そんなの、気持ち悪いほど乱暴でひどい話だわ」))。
これらは姉さんから受け取った(あるいは教えられた・感じ取った)生き方である部分も大なり小なりありまして、だからある意味では姉さんにより支配されるという甘く優しいセカイでもあるのですが(<父>の項に収まるのが高圧的な大人や恐い男性ではなく、甘さと優しさと厳しさと凄さ(尊敬)を併せ持つ姉さんなのだ。どちらにしろ<父>の項に何かが(仮であっても)収まらなくてはならないのだから、姉さんのような理想的な対象をそこにさっさと据えておくという所作は、ある意味現代的でしょう。ゲームのルールにこそアクセスする、という意味で)、いずれにせよ響くんの行動指針にそれが宛がわれている。当然ですが、その「楽しむ」という指向、それは私たちプレイヤーとも相同する/あるいは、単純に相性が良いものです。私たちが何でゲームやるかといったら、その理由のひとつには「楽しみたい」があるからです。だから私たちは/響くんは行動する。「楽しみたいから」。
前作はその部分(行動の理由・行動が回収されるところ)が「記憶の発掘」であり、だからこそ前作はより素晴らしいというかメチャクチャ上手かったのですが、今回はそこを、もっとシンプルに、単純に、むしろ能天気に、ただ「楽しむ」という指針で突き抜けてみせた。楽しみたいからエピソードを選んで、楽しみたいからクリックして、楽しみたいから会話して、楽しみたくて物語を進める……そういう風に、纏められていたのです。

もちろん、単純に「楽しむ」ということ自体に功罪は在る。個別シナリオはそこを突いてきました。

薫子 「そうねえ……天本くんって基本的に、娯楽か必要かでしか行動しないじゃない。その辺が原因じゃないかしら」
薫子 「楽しみたい以外で目標のためにがんばるとか。そういった目標を持ってるのって見た事がないのよね」

それが響くんの行動指針なのだけど、それだけでは進んでいけない場所がある(だから個別シナリオはどれも、いったん別れそうになる/離ればなれになりそうになる)。そこでいったん、この指針は見直され/問われ/向き合うことになる。(姉から得た)その指針を再考し練り直すことによって、新たな自分のモノとして確立していくわけです。前作における記憶喪失でもこれと近い処置が施されており、思い出した記憶と記憶喪失のまま過ごした日々(の記憶)とが見直され/問われ/向き合うことにより、そこでもまた新たな自分のモノとして確立されていった。
記憶を巡る発掘をシステムとプレイヤーの結節点においていた前作に変わり、今回はそこを、ある意味能天気なくらい単純に、「楽しい」という指向でまとめてみせた。それにより、キャラやシナリオの好みや評価は別にするとして、システムとそれがプレイヤーにもたらすものを考えた場合、前作ほどの深みはなくなりましたけど、瞬発的な楽しさは増したのではないかと思います。

信天翁航海録

信天翁航海録信天翁航海録
(2010/07/23)

一言で云えば、いつものレイルソフト×希でした(なので、興味を持った方はまず体験版を――本当にマジで体験版を触るべし。特攻するのは危ないヨ!)。
が、前2作に比して雰囲気が明るいというかノリが軽いというか、登場人物が奇人変人だらけだったりすることもあって、また出くわす出来事も奇出来事/奇事件ばかりであって、そういう意味でこの『信天翁』が一番やりやすいというか、プレイしやすいのかもなぁとは思います。

感想書いても仕方ない作品なので(「文章」がキモな作品なのだから、別の言葉に翻訳したらまるで意味がない)、以下軽く。
ダメ主人公オブザイヤーはもはや確定、どころかエロゲ史上最も「ダメ主人公」といえるくらいダメ人間な朔屋くんのダメっぷりをとくと拝見する物語。彼は全てのシナリオにおいて結局最後までダメを貫き通すわけですが、しかしそれが同時に彼の存在意義にもなっている(朔屋くんにとっては嬉しくないけど!)。それはつまり、どういうことかというと、ダメにより飛翔するということ。ダメを力に/ダメの力で飛び立つ鳥――まさに名前的にはアホウドリ
フィクションは正しくフィクション――つまり「別世界」であり、故に登場人物も正しくフィクショナル――つまり「非人間」である。しかし、たとえば夢から覚めても忘れていない限りにおいては、夢の内容は無かったことにならないように、物語が終わっても忘れていない限りにおいては、物語の内容は無かったことにならない。毎度のことながら、そういった基本律をしっかりと押さえているのがステキだなぁとか思いました。

麻枝准と奇跡と理不尽

この世の全ては理不尽でもある。たとえば人間いつかは死ぬわけですが、それだって理不尽と言えば理不尽だ。寿命というものがあって、細胞は劣化し朽ちていき、細胞分裂にも限界はあって、また病気というものがあって、ウイルスが身体を蝕み、また事故というものがあって、外部から肉体を崩壊させるほどの衝撃があったら人は耐えられなくて死ぬ。そんな世界の法則だって理不尽と言えば理不尽であって、だってなんで細胞は劣化すんのよ、なんでウイルスを自動で駆除できないのよ、なんで肉体は何者にも負けないほど頑丈じゃないのよ、という疑問に、そういうものだからとしか答えられないという理不尽な法則に支配されている。そんなこと言い出したら物理法則とかもそうで、たとえば重力が現在の度合いであることも、地球の公転周期が現在の値であることも、月が一個しかないことも、なるほど現在の状況から遡れば必然ではあるのだけれど(というかそうだからこそ現在がこうなってるわけだけど)、でも「そうなった」部分は理不尽なくらい強制的に決められている。

だから、麻枝さんにおけるいわゆる奇跡(以下「いわゆる」省略)みたいなものも「理不尽」である。渚が死ぬのは理不尽だし、修学旅行のバスが事故るのも理不尽でしょう。しかし渚が死なないのも、大事故から皆助かるのも、ある意味理不尽なのではないでしょうか。単純な話、たとえば、CLANNADのアフターで、渚が死んで汐まで失って、そこで「理不尽に」物語が終わることに憤怒したプレイヤーも少なくなかったのではないでしょうか? むしろその先こそが見たいんだ、という。よくこれら奇跡と呼ばれる事象に「都合良く奇跡が起こって助かって」などと称されたりしますが、しかしプレイヤーからすれば決して都合が良いとは言い切れない。むしろアッチの物語が(も)見たかったのに、何でここで終わっちまうんだ、という理不尽な都合の悪さもそこには孕まれていたのではないでしょうか。奇跡により助かる/救われるということは、奇跡が起きないで助からない(助からないかもしれない)/救われない(救われないかもしれない)物語が僕らの眼前から奪い去られるということである。悲劇を掛金に奪われてハッピーエンドをもたらされてるんだけど、その悲劇を見ることは叶わない。その悲劇の先からの脱却を見ることも叶わない。

さて、話が逸れたので戻すと、その奇跡のメカニズム、それが理不尽だということです。たとえば光の玉を集めて奇跡が起こるとかいうメカニズムは、端的に言えばワケが(道理が)分かりませんが、ということは、そのワケの分からないメカニズムは最早存在そのものが理不尽であると言える(たとえば光の玉を13個集めなくてはならない必然は何処にも描かれていない。なのに10個でも20個でもなくて13個なのだ。そんな攻略上の都合のような個数設定がまかり通っている)。それでも集めれば奇跡が起こるというのは、理不尽にも「そうだと決まっている」自然や物理や人間の法則と同じくな、ひとつの「理不尽な」法則であるでしょう。つまりここにおいて奇跡というのは、物理法則などと同じく――あるいはこの世界における物理法則のひとつとして――理不尽に存在している。換言すると、メカニズムそのものに対する選択の余地なく理不尽に存在していて条件を満たすと発生するという点においては、物理法則も奇跡も何ら変わりはない。

Angel Beats!』において、それは心的なものと世界的なものに集約されている。肉体を斬ろうが殴ろうがどうしようが死ぬことはなくて、つまり生命は精神(意思)に還元されている。肉体の頸木は、もちろん限界はあるでしょうけど限りなく減少されていて(むしろ現世における肉体の限界を超越したような運動能力を多々見せている)、ならば自己を縛るのはどうしようもなく逃れられない世界そのものと、どうしようもなく捕らえてくる自身の心そのものに集約される。そこから、生前における理不尽と戦っていくワケです。しかし、生前における理不尽はすべて身体的なものが介在していたのだけれど(列車事故で死ぬ・歌えなくなる・妹弟を殺される・寝たきりになる・心臓をもらう*1)、ここでその身体という要素は理不尽の枠から逸脱する*2。そうなってくると、ここでは生前の理不尽との非対称性が生じてきて、つまり、身体要素が逸脱してしまっているからこそ、どうあっても(生前の理不尽の解消が)現実的には叶わないという理不尽がここで生じてくる。身体と云う要素そのものが剥奪されている以上、正当な解決はない。だからたとえばユイは、運動だけでは決して満たされず、(結婚してやんよという)言葉においてはじめて満たされるところまで至ったわけです。この肉体は動いて当たり前なのだから、そこでいくら動こうとも達成には至りようがない(また同時に、この世界で幾ら叶おうとも達成には至りようがない)。そのように、その代わりの、心的において解決するという象徴的な実現――というかそれしか方策はないということになり、だからこそ、いわゆる「成仏」という結果で、彼らは生前の理不尽に対して折り合いを付けられるようになるのですが、しかしそこには身体が剥奪されるという事態そのものが剥奪されるという「理不尽」が存在していて、それに対し象徴的に(心的に)対処するという「理不尽」もまた存在している。しかし、だからこそ、それは象徴的には、現実世界における理不尽と何ら変わりないでしょう。つまり形は変わっても、だーまえさんはだーまえさんであったということです。そうたとえば最終話ラストの、来世なのか前世なのかユメなのか妄想なのかただの視聴者サービスなのか実はぜんぜん関係ない他人の空似なのか分からない、あの二人の邂逅直前もまた、理不尽にも出会うことになりそして理不尽にも出会う直前で物語は終わり映像が閉じるというあの作りもまた、いつものだーまえさんであった。単純に、奇跡も現実もユメも、ぜんぶぜんぶ理不尽なのです。

*1:心臓をもらった感謝を伝えたいという希求であって、「理不尽」とイコールで紡がれないけれど、いちおう。

*2:身体における理不尽が消失するという意味ではなく(どんな肉体的ダメージ負っても死なないというのは、それはそれで理不尽)、現世=生前における身体の限界を越えてしまったのでそこにおける理不尽の埒外に置かれるという意味です(埒外における理不尽なら(たとえば前述のように死ねないという形で)在る)。

「漢字2文字のカタカナ」なタイトルのエロゲ

なんか「漢字2文字のカタカナ」なタイトルのエロゲって最近多くない? とかふと思ったので調べてみました。

10 11月 紫影のソナーニル LiarSoft
- 10/29 祝祭のカンパネラ ういんどみるOasis
- 10/29 蒼穹のソレイユ SkyFish
- 9/24 楽園のルキア muscadet
- 8/27 涼風のメルト Whirlpool
- 7/30 遠望のフェルシス NineTail
- 7/22 黄昏のシンセミア あっぷりけ
09 12/25 幻月のパンドオラ Q-X
- 12/04 蒼海のヴァルキュリア アナスタシア
- 11/20 白光のヴァルーシア LiarSoft
- 3/27 星空のメモリア Favorite
- 3/27 聖剣のフェアリース リトルウィッチ・ベルベット
- 1/30 祝福のカンパネラ ういんどみるOasis
- 1/23 牢獄のミスリート BLACK LiLiTH
08 11/21 漆黒のシャルノス LiarSoft
- 5/23 反逆のベレッタ BLACK LiLiTH
- 4/25 鋼炎のソレイユ SkyFish
- 4/25 朝凪のアクアノーツ Fizz
07 11/22 赫炎のインガノック LiarSoft
- 3/30 白銀のソレイユ SkyFish
- 1/26 月光のカルネヴァーレ Nitro+
06 7/7 蒼天のセレナリア LiarSoft
05 3/18 深紅のソワレ Art
04 11/26 天空のシンフォニア カクテル・ソフト
03 6/28 永遠のアセリア XUSE
02 5/31 恥辱のカンケイ INTERHEART
01 3/16 椿色のプリジオーネ Mink
00 9/29 神父のオシゴト 美研究所
- 7/7 八月のノスタルジア BeF
98 8/28 風色のロマンス Logg
- 3/12 雪色のカルテ Peach

※95年以降/今年(2010年)分については現時点での発売予定のものも含む……ので、これより増えるかもしれませんし減るかもしれません/サブタイトルは省略/後や前になんかつくタイトルは除外(「星空のメモリア Eternal Heart」とか「輝光翼戦記 天空のユミナ」とか)


ということで、別にそんなに多くはなかったんですが、06年までは年間ほぼ一本ペースで、07年3本、08年4本、09年7本、10年7本(以上)という推移が示すとおり、着実に増えてはいました。
こう見てみると、特に近年のタイトルについては、スチームパンクシリーズはもとより、星メモ、カンパネラ、カルネヴァーレ、黄昏のシンセミアなどなど、評判が良いタイトルや話題になったタイトルが母数の割には多く見られます。だから自分は「漢字2文字のカタカナ」なタイトルのエロゲって最近多くない? とか思ったのでしょう。あるいは、だからこそ(評判が良かったり話題になったタイトルが多かったからこそ)、この形式のタイトルが増えてきたのかもしれません。
この先、オーガストの新作もそうですし(「穢翼のユースティア」)、太陽のプロミアとかもありますように、これからもこの形式のタイトルは増えていくかもしれません。

『FORTUNE ARTERIAL』について

なんだか驚くほど共通ルートが面白い作品でした。
ただおしゃべりしているだけ、が面白いのです。ただおしゃべりしているだけだから面白いと言ってもいい。それは物語的に前進するためのコミュニケーションではなく、ただ言葉の交換から生まれてくる感情(楽しさ)の往復運動であり、それだけで十分だった。言うなれば、アニメにおける『けいおん!』やラノベにおける『生徒会の一存』と同じ。感情の交換でも情報の交換でもない、何にも回収されない(敢えて言えば、ただ交換の為の交換としての会話)往復運動が、「物語のため」という目的論的犠牲に陥ることなく、ただそれとしてあるが故に(結果論としては、まるで逆説的に)感情と情報の交換に落ち着く。それは領土化・脱領土化・再領土化へと繋がっていく。

「お茶会」の構図が印象的というか、ある意味ではこの作品を象徴してるのではないでしょうか。あのお茶会というのは、主人公の部屋で行なわれていて、傍から見ると主人公がヒロイン同士を結び付けてるみたいに見えなくもないですけど、中身は寧ろ正逆に近い。あるイミ主人公置いてけぼりなんですね、お茶会の構造は。自分の部屋という場所を提供して(提供する羽目になって)、そこを介して沢山のヒロインたち同士・キャラ同士が結び付いていくのだけど、勝手に部屋に入ってこられるように、寝ている間にお茶会が勝手に始まってるように、もうここは主人公”の”モノではないのです。自分の部屋が自分の部屋でなくなってしまう。……とはいえそれはもののたとえで、実際には名実共に孝平くんの部屋なわけです。ただ、形が変わった――自分ひとりだけの空間としての部屋ではなく、他の誰かが居るかもしれない空間としての部屋に――という形に。そういった脱領土化と再領土化。そもそも孝平くんは引っ越してきたばかりですので、自分の部屋自体を領土化するところからはじまるのですが、そこで落ち着く暇もなく、前提-根底そのものを揺るがしてしまう。

脱領土化されて別の形として再領土化される―――そういったテリトリーにまつわる運動がこの作品には肝のように散りばめられていました。なんてことは吸血鬼(吸血/血)というギミックや『FORTUNE ARTERIAL』というタイトルを考えてみれば当たり前というか、然るべき結実でもあるでしょう。他人の中に私を入れる(入ってしまう)、私の中に他人を入れる(入ってしまう)。血とか家族とかあるいは珠とかが、連なるようにそうであるように。



そういう点から考えると、個別シナリオに入るための選択肢がMAP形式であるのもまた必然なのでしょう。何度も同じキャラを「探してカーソル動かしてクリックする」という行為が、わたしたちプレイヤーに対して領土化的効果を与えている。キャラを選ぶだけならMAP移動なんてしなくてもいい筈なのに(しかもMAPを1画面に納めるならまだしも、3画面分にする必然なんてぜんぜん感じられないのだ!)、わざわざあのような工程をあのような形式で踏ませる、そのこと自体が、「選び・そのルートのお話をみる・孝平とその子をくっつける」というわたしたちの行為自体を認識させ、そこに領土的作用を作り出していく(だからわざわざ3画面もあったということです)。

瑛里華シナリオ

特に瑛里華シナリオはそういったお話でした。別れを約束された転校生活は、彼から他人と繋がろうという気持ちを奪っていった/あるいは、見えないように(自分でも気付かないように)していった*1。それは瑛里華も同じで*2、もちろん実際の行動・対処はまったく逆だったのだけれど*3、他人と仲良くなる・近づくという作用に対する態度は同様のものであった。失うのだから、手に”は”入れない。非領土化。

しかし答えも道もそれだけではないだろう。失うのだから手には入れないのであるならば、失わないなら手に入れようとするのだろう、とでも言わんばかりに。

瑛里華「冷たかったり、寂しそうに見えたりしたのなら――」
そこで、副会長は手を前に差し出した。
瑛里華「私と手を繋ぎましょう」

瑛里華「他の人とでもいいわ」
瑛里華「近くにいる人と繋げば、きっと温かいし、寂しくないと思うの」

誰かと手を繋げば、それだけで―――ということが語られています。私でもいいし他の人でもいい、近くにいる人でいい、というその語り口はある意味節操の無さを感じさせますが(要するに誰でもいいから手を繋げと言ってるようなもの)、しかしそれは逆に、手を繋ぐという運動そのものを強調しているでしょう。”誰か”という不特定な彼と手を繋ぐこと、それは(相手が指定されない”誰か”なのだから)ただの、身体のあるいは体温の交換でしかないのだけれど、そんな些細な交換が、その繋がりそのものを私の領土とさせてくれる。

あるいは、わざわざ吸血鬼の能力として「記憶を消す」を用意して、それを受け入れないことによって瑛里華たちを受け入れる/生徒会に受け入れられるようになる、といったところもそうであるように(記憶は自分自身の領土だ)―――つまり記憶を維持すること・ならび吸血鬼を受け入れることから、彼女たちを受け入れる・友達を作るという行為がはじまるように。人と人との繋がりとは、交換することや受け入れることや与えることからはじまる領土の問題に他ならない。
好きになるとか恋愛するというのもまた――というかそれこそが、まったく赤の他人である相手を内側に入れるという行為こそが、領土化運動の最たるものでもあるでしょう。相手を自分の内に入れて自分を相手の内に入れる往復運動であり、そもそも――たとえば、そこからはじまっていたとも言える*4し、最後までその運動は維持されていたとも言える*5。一緒にいたりお喋りしている間はまるで別世界であって*6、身体的接触という繋がりは再領土化的に新たなものを作り出す*7。そして、その行き着くところが、自分の血を相手に与えて/相手の血を自分に取り込んで、繋がっている存在に/離れられない存在に、する/なる、という「眷属」であるのは当然と言えるし、必然と言える。物質的交換からはじまる肉体的縛りという、象徴的でも表象的でもない実質的な契約。


眷属化=血による実質的領土化が瑛里華ルートなだけに(だからか)、「真」が付く方の瑛里華ルートはその逆側でした。家族というのは血縁や戸籍ではない(だけではない)。それこそラストに、新しく家族を作る(再構成する)際に伽耶が口にしたように*8、「家族は作られるものである」。つまり、「真」のほうでは、血という逃れられない肉体的契約ではなく、心や精神の問題である、象徴的な契約――その領土化についての話。そちら側から結論が導き出されている。そして最終的には、瑛里華と孝平の子供が出来るように、身体的結びつき/象徴的結びつき、その両方が回収され纏められるわけです。


瑛里華シナリオ以外ではこういった見解は別にあてはまんないんですけど、血と欲求と恋とフォーチュン・アテリアルな瑛里華シナリオなら、こういったこともそれなりに言えるんじゃないかなーとか、そんな感じです。
要約すると、

孝平「自分の体が、好きな人の血となり肉となる」
孝平「これ以上の快感は、どこにもありません」
(真・瑛里華ルートより引用)

まさにこの一文の通り。私をあなたの内に/あなたを私の内に、入れる/迎えることは、身体的にしろ象徴的にしろ、最高の快感なのである。

*1:『確定した別れが恐くて、人とつながる場を避けていたんだ。そう。俺がなかったことにしてきたのは、人と深くつながりたいという、本当に単純な欲求だ。』(FA本文から引用)

*2:『そこにあったのは、最初から終わることが決まっている日常への、諦め。そして、近づきたくても近づけない人たちへの、羨望。わかりすぎるほど、わかる。かつての俺と似ているからだ。』(FA本文から引用)

*3:『俺は積極的に関わることをやめた。満たされない欲求をなかったことにして。副会長は、まったく逆だった。関わって関わって、自分が存在した証を残そうとした。満たされない欲求の代償として。』(FA本文から引用)

*4:『瑛里華「自分の事を知ってもらって嬉しいのは、血が欲しいのとは関係ないでしょ?」瑛里華「だから、私の気持ちは血に支配されていないわ、おそらく」』(FA本文より引用)

*5:『瑛里華「他人の気持ちはわからないわ」瑛里華「でも、だからこそ期待する言葉をもらえたときが嬉しいの」瑛里華「だから、孝平を眷属にしたくなかったの」瑛里華「好きだって言われたときの嬉しさを失いたくなかったから」』(FA本文(瑛里華シナリオラストのほう)より引用)

*6:(携帯で話すのを終えて)『別世界から帰ってきたかのような気分だ。世の中のカップルは、皆この気分を味わってるのだろうか?』(FA本文より引用)

*7:『人に触れられるというのは、本当にいいことだ。それが好きな人ならなおさらだ。性欲とは違う部分の欠損が満たされていく気がする。そして、やや遅れ、いとしさがこみ上げてきた。』(FA本文より引用)

*8:伽耶「残るも去るも自由だ」伽耶「残った者で再び家族を作る」伽耶「それが、あたしの考えた償いだ」』(FA本文より引用)

エロゲにおける立ち絵と顔と身体

主にノベル系ゲームにおける「立ち絵」の話。ノベルタイプ以外(ならび3Dポリゴンとか)は話が別でしょう。去年発売された3作品(しろくまベルスターズ、シャッテン、装甲悪鬼村正)&クドわふを例として挙げてみます。とりあえず見ていただくのが早そうなので、『しろくまベルスターズ』の話。

顔貌性象徴機械としての立ち絵

この作品の面白いところは、立ち絵が2種類+顔パターンしかないというところです(サブキャラにおいては1種類+パターン)。どういうことかというと、



基本体勢はこの2種類しかない。ななみでいえば「斜め向いて手を広げてる」のと、「正面向いて手は胸の前」という2種類しかない(てゆうか他のメインキャラも、斜め向きと正面向きの2種類しかない)。ただし表情のパターンは10種類以上あって*1、それによって『しろくま』の立ち絵は運用されているわけです。
身体は2パターンしかなくて、顔は10パターン以上あるということ。この形式が、他のエロゲに表現面で劣っているかというと全然そんなことはありません。実際に立ち絵がショボイみたいな意見はググッても一切見つからない。ついでに立ち絵が基本2種類しかないことを指摘している見解もほとんど見つからない。つまり、そうと気づかせないくらい、上手く運用されている。というか、表情さえ揃っていれば、上手くいかない理由がないと言えるかもしれません。


エロゲの立ち絵に運動は描かれておらず、それは(制限されたパターン数からも)状態の描写ではなくて文脈から切断されたポーズであり、そしてだからこそ、もはや身体までも「顔」に近い役割を負っているのではないだろうか。立ち絵というのはひとつの記号であり、それは「その時の」彼女を表していると同時に、「彼女自身」も表している。


立ち絵の身体には「運動」というものがありません。運動そのものは表現できていないと言える。たとえば、吹っ飛ばされたら横にびゅーんと立ち絵が飛んでいくとか、画面中を立ち絵が高速で行き交うことにより、部屋中を駆けまわっていることを表す、なんてように、立ち絵が移動するゲームというのは今や当たり前にあります。しかしそれは配置の移動でしかなく(『ましろ色』のように立ち絵が向かい合う演出を用意した作品もその点においては同様でしょう)、変化する、流動するという運動そのものではない*2。そうである以上、エロゲにおける身体の表象は、「映画のような演出」とメーカー自身が謳っていた『ef』ですらまったく映画的ではなかったように、映画やアニメなどの映像メディアとは大きく異なります。たとえば映画についてドゥルーズが登場人物の身体運動を分割不可能な一連のイメージとしてみたように、あるいはアニメについてエイゼンシュテインが一瞬後には何にでもなれる登場人物のその自由な身体性をこそ評価したように、「運動そのもの」がギリギリ区切られる一つの単位であり、その中のどこかの瞬間を切り出しても、それはまったく本質でもなく実質でもなく妥当ですらない、元となったものとは別物に成り果てるわけです。しかしエロゲの絵というのは動かない*3「一瞬の切り取り」ですから、そこに運動は存在できるわけがなく、別の記号がある。
つまり、エロゲの立ち絵というのは、運動性が剥奪された、もはや身体ではない別の記号であるということです。「身体マイナス運動性の身体」がそこにある。たとえばアニメや映画の映像から、どこか一場面をキャプチャーした絵が、決して運動(変化や流動)を表現できていない(むしろ貶めていると言えるくらい)が故に、元となった運動とはまったく別の記号を生み出してしまうように。ましてやエロゲは「元から動かない」のだから、偶然歪めて出来上がるそれらとは意味が大きく異なる。


ですので、そこにあるのはひとつの記号=ポーズなのですが、しかし圧倒的に種類が少ない(立ち絵の種類は限られている)が故に、立ち絵の身体が文脈を無視してキャラクターを表現するかのよう=キャラクターの表現が立ち絵の身体に文脈を無視して現れるかのようでもあるのではないかと考えられるのです。

たとえば先ほどの『しろくまベルスターズ』でいえば、

斜め向きと正面向きの2種類というのは3人とも共通だけど、それぞれに差異がある。斜めの立ち絵を比べてみると、もっとも人見知りしないで明るく開放的なななみ(ピンク頭)は「両手を広げたデザイン」と、絵においても開放的であって、えばりんぼうで自信家なりりか(金髪)は「手を腰に据えて胸を張るようなデザイン」と、絵もその性格を強調していて、内気で臆病でもある硯は「自らを庇うように胸の前に手をもってくるデザイン」と、これまた絵の方もその性格と統一的である。それは正面向き立ち絵にあっても同様です。

かつて『CLANNAD』の渚の立ち絵が、斜めでうつむいているものがよく使用されていたことに対し、それが渚の内面を象徴しているという言説が*4ありましたが(逆に渚が強くなったアフターに入ってからは正面向き立ち絵の方が多く使われるようになったり)、そのように、立ち絵というのは(立ち絵の身体というのは)、その瞬間の状態――喜んでるとか悲しんでるとか――のみを表すのではなく、そのキャラクター自身を表すものでもある。
それは最新の作品でも言えるでしょう。『クドわふたー』では、有月姉はほとんど常に斜め向きの立ち絵で、有月妹の方はほとんど常に正面向きの立ち絵でした。それについて、姉が持つ諦観と挫折と斜に構えたような姿勢を象徴していると言えるでしょうし、前向きにがんばっている妹の姿勢を象徴しているとも言えるでしょう。つまり姉妹におけるこの立ち絵の対比は、そのまま姉妹における内面の対比でもある。

正面を前向き、斜めを斜め向きというのは単純にすぎるかもしれないけれど、たとえばクドの立ち絵だって、基本は正面で、斜めのものは悲しんでたり落ち込んでたりという感情を表意するものがほとんどでした。この辺はゲームによっても変わってくるでしょうから一概なことは言えませんが、現実においても会話する相手が、真っ正面から自分の目をしっかりと見て来る場合と、うつむきながら斜め下を見ている場合とは、まったく異なる印象を抱くように、立ち絵においてもそれはある程度同じなのではないでしょうか。そしてそういったものの積み重ねが、キャラクターそのものを定義するように見える/立ち絵がキャラクターそのものに定義されているように見える。さらに細かいところを突けば、たとえば『星空のメモリア』の明日歩が右耳をこちらに向けている立ち絵の使われ方と左耳をこちらに向けている立ち絵の使われ方が(というか、その立ち絵の性質自体が)まったく異なるように。文脈に決して依存しない(パターン数の関係上「依存しきれない」)立ち絵は、その身体は、それだけでひとつの表意――象徴的な「顔」になるのではないだろうか。


フェイスウインドウと顔

「そもそもボクたちは立ち絵をそんなに見るのかな問題」というものがあります。テキストと立ち絵を同時に見るというは難しくて、そもそも立ち絵のパターンなんて限られてるのだから、毎回凝視しなくても記憶を参照すればいいだけで(つまりチラっと確認すればそれで十全なわけでして)、さらにテキストボックス横のフェイスウインドウなんてものがあれば、それだけで事足りるのではないか――
『Trample on "Shatten!!"』というゲームはその辺強烈でした。

こう見ると分かるように、立ち絵の表情とフェイスウインドウの表情がまったく異なっています。このシーンだけじゃなくて、ずっと(そしてどんなキャラでも)こんな感じです。てゆうか、このゲームにおいてはメインヒロインですら立ち絵の表情は1・2種類しかありません。キザイアさんにおいては、不敵な笑みと、頬を染めてる不敵な笑みの2種類くらいしかない。そして立ち絵の種類=ポーズも(服装差分除けば)2種類くらいしかない。けれどその代わり、フェイスウインドウの表情の種類はかなり沢山用意されています。立ち絵においては、悲しい場面だろうが嬉しい場面だろうが憂鬱な場面だろうが、表情はまったく変わらないんだけど(いつも不敵な笑み!)、フェイスウインドウにおいてだけは、泣くし笑うし物憂げな顔を浮かべる。
それに対して何か問題があるかというと、ほとんどなかったりします*5。てゆうかそもそも、こんな極端なことを行なっているにも関わらず、人によってはこの立ち絵の使い方になかなか気づかなかったりする。少なくともボクは数時間プレイするまで気づきもしませんでした。つまりそれだけ立ち絵を見ていなかったし、しかも見ていなくても何の問題もなくゲームを進められたということです。これはテキストに十分な情報があり、さらにフェイスウインドウという指標まであるならば、それだけで事足りるということでもありました*6。それはつまり、極端な話、顔さえあれば十分ということでもあるのではないでしょうか。少なくともその瞬間を表すという意味においては。


「顔」の強調というと、同じく09年発売の『装甲悪鬼村正』も特徴的だったでしょう。この作品もまた、立ち絵には存在しない顔がフェイスウインドウにのみ多く用いられていました。そのような理由からか、そもそも立ち絵自体が用いられてない場面も多かったです(シャッテンと異なり、村正は立ち絵とフェイスウインドウで齟齬を発生させないようにしている)。これについては、立ち絵では描けない表象をフェイスウインドウで実現させている、と言うことも出来るでしょう。あたかもコミカルに絶叫する香奈枝とか、ヤクザばりにキレるさよとか、驚異的な”あの”笑みを浮かべる景明くんとかの「顔」を、立ち絵として――身体が付いているものとして描くと、最早僕たちは耐えられないのではないでしょうか。コミカルすぎてとか、リアルすぎてとか、怖すぎてとかで。フェイスウインドウという、立ち絵に比べれば半歩だけ物語世界外における表象だからこそ、それに耐えることができるのではないだろうか。つまりフェイスウインドウの顔というのは極論であり表現であり、実際の彼らの顔は「分からない(こうでないかもしれない)」のだと。その辺が『村正』自体に大きく関わってくることは、ネタバレになるので詳細は避けますが、ラストの景明くんの「顔」そしてそれが「描かれなかったこと(我われには見ることが叶わなかったこと)」からも明らかでしょう。

文脈に捉われながらも同時に依存しきれない顔(顔と身体)は、キャラクターに依存しながらも同時に文脈に捉われている。だからこそ例に挙げたような(特に村正のような)使われ方が可能なのかもしれません。

*1:あと手とかの一部分だけの微妙な変化もここに加えられています。

*2:『真剣で私に恋しなさい』では、立ち絵をその場でくるくると回転させて回ってる様子を表すとか振り返る様子を表すという、とんでもない方法(というかある意味実直な方法)を使って「立ち絵の運動」を字義通りに表していましたが、それは逆に「登場人物などペラッペラの紙(CG)だ」ということを自ら証明するに過ぎない行為でもありました。立ち絵そのものの運動としてはもの凄く実直であったのだけれど(エロゲの立ち絵に運動させればペープサートになるのだ)、これではキャラがペラペラな紙に還元されてしまう面もあるでしょう(=キャラなど実はペラペラな紙に過ぎないというみんな知ってるけど敢えて黙っている事実が明るみになってしまう)。

*3:もちろん3Dポリゴン系とかは話が別ですが。

*4:出典を記しておきたいのだけど何処で見たか忘れてしまった――。

*5:ちょっとはありました。

*6:そもそも立ち絵が文脈に依存できない以上、文章には影響ないのだ。ライトノベルを読みながら表紙や巻頭に載っているキャラ絵を参照することなど、キャラ登場最初の一度や二度はしても、それ以上はまず誰もしないように、一度や二度見れば十分理解できる。

漆黒のシャルノス

漆黒のシャルノス -What a beautiful tomorrow-漆黒のシャルノス -What a beautiful tomorrow-
(2008/11/21)

ちょっとベタすぎることを書きます。


ゲームをプレイしている最中においては「時間」というものはある意味存在しない。もちろん存在していますけど、しかしゲームはゲームとして、僕たちが実際に生きる時間からはある種切り離されている。たとえばそのことを『ONE』は「えいえん」と呼びましたが、ゲームの中身は永遠に不変で、いつまでも何回でも繰り返し反芻することが出来る。言うなればそこに明日は来ない。幾ら僕らがゲームをクリアしようと、繰り返そうと、そこに僕らの明日は無い。僕たちにとっての/とっては、永遠の今日があるだけ――当たり前のことですが。


メアリが主人公という時点で、とにかくもう最高なゲームだったわけです。諦めないし頑張るし走り続けるし、それでいて相応に弱いし、友達のことをあんな風に思って心配して、友達にあんな風に思われて心配される―――わーい、僕らプレイヤーはこのステキな女の子になるんだ!
という時点で最高のゲームだったのですが、実際プレイヤーはメアリになりきれなかった。たとえば、やっていくうちに苦行に変わっていくような、あのゲームパートを諦めて投げ出してしまうか、それともちゃんと自力で頑張るか否かの態度が、メアリが諦めるか否かとは本質的には全く関わりないように(メアリは決して諦めないのだ)。もともとが違う。そしてその異なりは、最後により強まる――最後に分離されたと言えるのではないでしょうか。メアリは、明日への恐怖に怯まず、明日という恐怖を否定せず、それでも(みんなで)明日へ向かうことを選ぶ――そこで物語は終わることになる。僕たちはその「明日」を見ることも知ることもできない――つまりここで切り離されている。僕たちはメアリたちの「明日」には辿り着けない。僕らが辿り着く「明日」があるとしたらもちろん、ボクら自身の現実の「明日」でしかない。
ゲームをプレイするという行為は、その明日への歩みを一時止めて、停滞状態にあると言うこともできる。現実逃避、虚構――使い古されて飽き飽きする概念だけれど、そして現実へ帰れ的な言説はいまや聞いてるこっちが恥ずかしいレベルのお話だけど、そもそもゲームプレイもまた現実の一部であるのだけれど、しかしゲームの中身自体は現実ではない。だからこれは、『ONE』における「えいえん」と同じで、僕らにおける永遠の一形態である。そこに明日はない。そこの明日を僕らは知りえない。現実に還らなくてもいいし、また別のゲームに向かっても構わないだろうけど、けど、何にしろ必ず言えるのは、どんなゲームにも終わりはあって、その先は僕らの知らない「明日」だと言うこと。
それは多分、シャルノス(シャルノスの王)と同じなのではないだろうか。

【教授】私は実験を行ったのだよ。果たして人は、幻想たる”彼”と同じく――
【教授】無限に待ち受ける明日という日を諦め、留まることを選ぶのかどうか。

無限に待ち受ける明日への歩みを少し止めて、画面の向こうに見る別の世界のことがゲームの中と呼ばれるのであるならば。
立ち位置は似ている。メアリたちからして見ればわたしたちなど、『一人であるが故に、明日の何もかもを失った世界と王』に他ならない。彼女たちからすれば、それは届かない別世界で、たった一人で、明日がないのだから。そもそも「眼だけ」というのからしてそのように。かつて『ヤミと帽子と本の旅人』というゲームが的確すぎるほど的確に表現していましたが*1、わたしたちのゲームへの関わりはある種「眼」だけのようなものである。この永遠=ゲームの世界を、離れた場所から見つめているだけである。

──友の手を握って──
──幼い少女は微笑む──
【メアリ】シャーリィとだって仲良くなれたもの。あたし、自信があるのよ。
【メアリ】友達になれるわ。誰とでも。
──そう言って──
──微笑む少女の──
──影の中で──
──赤い瞳が──
──眩しそうに、歪んで──

喩えるならば丁度このように。


結局のところ、自分の明日は自分の元にしかない。自分たちの明日は自分たちの元にしかない。一昔前の「現実に帰れ」言説と異なるのはそういうところでしょう*2。『もしも、世界が終わってしまっても』。これは、シャルノスにとって、我われにとって、そこに至るまでのお話でもあった。彼女たちの明日は彼女たちの元に、我われの明日は我われの元にある。ただそんだけ。

*1:多少ネタバレですが、あのゲームの主人公は「眼」だけ(眼しか付いていない魔法の帽子)で、喋ることも自由自在に動くことも出来ない。その眼だけの彼が、本の世界=色んな虚構の世界の中にいる誰彼に乗り移る・憑依して、その世界の登場人物となって、物語が進められていく。これを思いっきりプレイヤーの暗喩と見て取るのはフツーだよね。

*2:たとえば、そういったメッセージ性を読み取れる「俺つば」にしても「コミュ」にしてもそうであるように。