安陽の「曹操の墓」が冉閔の墓だという説について

河南省安陽の西高穴村2号墓が曹操の墓ではなく、五胡十六国時代冉閔の墓だという説があるようです。べつに専門家が唱えているわけではなく、ネット巷間の説(コピペ)なのですが、ある種の魅力がないわけでもないので、紹介してみます。

http://info.wenweipo.com/index.php/action-viewnews-itemid-6080

1.歴史上には「魏武王」はふたりいて、曹操をのぞくと、もうひとりの名は冉閔という人である。曹操はよく知られているが、後者についてはあまり知られていない。
2.後者の冉閔の故郷は史書によると魏郡内黄県であり、今日の安陽であり、今回の「魏武王墓」の発掘地はちょうど安陽である。
3.曹操が死んだときは身体が完全だったが、出土した「曹操の遺骨」は体と首が分離しており、体から分離した頭骨は頭の傷痕がひどく、これは曹操には合わない。鮮卑人によって殺された後に祭られたもうひとりの「魏武王」冉閔の遺骨と考えるほうがよい。遺骨が関連部門の最も権威ある専門家の手でDNA鑑定されることを希望する。
4.曹操の死の前の遺言で、墓の中には陪葬する人はいらないといい、史書にも陪葬した人の記録がない。今回発掘された「武王墓」の中には2名の女性が含まれており、1名の女性は生前には戦士だった。
5.曹操の死の前には厚葬をしないよう要求していたが、今回発掘された魏王墓はいくたびも盗掘に遭ったにもかかわらず、各種の珠宝器物が250件あまりもあった。
6.曹操は生前にただ「魏王」と称し、魏武王とは死後に後漢の朝廷により封ぜられたもので、そのときにはすでに埋葬されていた。後漢曹操墓を開きっ放しにしていたとは考えにくいのではないか?
7.「魏武王常用格虎短矛」「魏武王常所用格虎大戟」「魏武王常所用格虎大刀」…… 曹操は生前に常人の力で猛虎を殴ったのであろうか?かえりみるに、冉閔は生前の後趙の時期に(後趙は長らえることなく冉閔に打倒される)、人や獣に石虎の養った無数の猛獣と戦わせ、勇士や戦争捕虜が野獣と戦うのを見て喜んだという。当時にあって「勇力絶人」といい、勇武においてならぶ人もない冉閔なら必ずや日常的に参加していたことだろう。そういうわけで冉閔が生前に愛用した兵器がこれらの矛と戟なのだ。
8.墓地のある土地は肥沃で、曹操が死の前に「痩薄の地」に埋葬せよといった要求に符合しない。
9.冉閔は後趙にいたとき武興郡にうつされ、武興公に封ぜられた。建国後、国号を魏とし、魏武王、魏天王を称した。鮮卑に殺された後、敵手によりかれは「武悼天王」と称された。かれの臣下たちはいつもかれが(羯人と匈奴によって建てられた)後趙を打倒した行為を「周の武王が紂王を討った」故事と比較していた。冉閔が殺された後、鮮卑人は人心を収拾するため、かれを祭祀し、かれの遺骨は当時の漢人によってかれの故郷に送りとどけられたのではないか。

安陽墓の「魏武王」は冉閔に合致するという異説です。とくに「曹操の墓」だとする正統的な説がうまく説明できていない「格虎」を説明できているところなどは魅力的です。ただ冉閔は中国東北部の龍城で殺害されており、それがなぜ河南省安陽に立派な墓を建ててもらえたのかという疑問はあります。「人心を収拾するため(鮮卑人出於收拾人心)」「故郷に送りとどけられた(他的遺骨被當時的漢人送到了他的故鄉)」と一通りの説明はありますが、やはり推測でしかありませんし、そのへんが弱点とはいえると思います。

あとこのコピペでは曹操について「陪葬した人の記録がない(史載也沒記錄有人去陪葬)。」といっていますが、『三国志』魏書后妃伝に卞皇后を高陵に合葬したことは書かれているので、記録がないというのは間違いですね。

あと参考に。
http://tieba.baidu.com/f?kz=692270543

以下蛇足です。「魏武王」について、これはとりあえず曹操のことだと考えますが、「魏王」でも「漢魏武王」でも「魏武皇帝」でもないというのが味噌ですね。