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2017年08月18日(Fri) ツーリング登山 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

第二回ツーリング登山「尻別岳」

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2017年07月06日(Thu) 喜茂別岳」 http://d.hatena.ne.jp/nakamoto_h/20170706

2017年05月23日(Tue) 尻別岳」 http://d.hatena.ne.jp/nakamoto_h/20170523

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2017年08月17日(Thu) 雨竜沼湿原-南暑寒別岳-暑寒別岳 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

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2017年08月16日(Wed) 「平和」の中に滅びた日本人の徳 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

「【正論・戦後72年に思う】『平和』の中に滅びた日本人の徳 『戦争』と同様に『平和』も危険なのだ 文芸批評家、都留文科大学教授・新保祐司」(産経新聞

 → http://www.sankei.com/column/news/170815/clm1708150005-n1.html

 戦後72年、大東亜戦争戦没者に対する深い鎮魂を心に思う夏である。まさに深い鎮魂の心に沈潜しなければならないのであって、戦争の犠牲者を悼むというようなとらえ方をしてはならない。長い平和の中で、英霊に対して礼を失するような振り返り方が目につくように感じられる。戦没者は、世界史の必然の中で国家の運命に殉じたのであって、決して犠牲者などではない。


≪内部からいつもくさってくる≫

 茨木のり子の詩「内部からくさる桃」の中に「内部からいつもくさってくる桃、平和」という一行があるが、過去の歴史の悲劇に対する敬虔(けいけん)の情の喪失は、今日の日本の「内部からくさって」いる「平和」の腐臭の一例であろう。

 72年間の長きにわたり自立的でない「平和」が続いてきた日本に思いを致すとき、『イタリアルネサンスの文化』などの名著で知られる19世紀スイス歴史家文化史家ブルクハルトの『世界史的諸考察』(藤田健治訳)の一節が思い出される。およそ150年前に語られたことであるにも拘(かか)わらず、現代の日本の状況が言われているかのような錯覚さえ覚える。

 ブルクハルトは、歴史における危機について論じている章の中で「長期の平和は単に意気の沮喪(そそう)を生み出すだけではなく、苦悩と不安に満ちて、切羽つまった生存をつづける多数の人々の発生をも許すが、長期の平和なくしては生ずることのないこのような存在はやがてはまた大声で『権利』を求めて叫びつつどんな仕方ででも生存にしがみつき、真の力の占むべき場所を先取して、あたりの空気をムッとさせ全体として国民の血液さえ猥雑(わいざつ)なものとするのである」と書いている。

 今日の日本社会の「空気」は、確かに「ムッと」しているし、世間を騒がせているさまざまな事件は、「国民の血液」が「猥雑」になってきたことを痛感させる。


≪惰性で生き残った特殊な「考察」≫

 この哲人の言葉は、本来良きものである「平和」が孕(はら)む逆説的な危険について改めて考えさせる。特に、自立的でない「平和」の場合は、その弊害がさらに深刻なものとなるであろう。「戦争」と同様に「平和」も危険なのである。

 「戦争」だけが危険であると思い込み、「憲法」と同様に「配給」された「平和」という枕の上に眠りつづけた日本の戦後史というものも、「世界史的」「考察」を下してみるならば、ずいぶんと奇妙なものに違いない。戦後のいわゆる進歩的文化人による特殊な「日本史的な、余りに日本史的な」「考察」は、世界の現状からみれば、もう有効期限がとっくに切れているのであるが、日本では「意気の沮喪」による惰性で生き残っているのである。


≪西欧の成熟した思想に学べ≫

 「長期の平和」の中で「生存」してきた日本人にとって、このラスキンの言葉は「頗る奇異であり、かつ頗る怖ろしい」ものに違いないが、「まったく否定し難き事実」なのである。近代日本の歴史を振り返ってみても、人間の高貴な精神を発揮した数多の行為が日露戦争大東亜戦争という「戦争の中に生まれ」、日本人の伝統的な徳の多くが戦後の長き「平和の中に死んだのであること」を「見いだ」すからである。

 今や世界は深刻な危機の時代に入った。「平和」と「戦争」についての単純な思考を超えて、ブルクハルト、ラスキンレッシングのような西欧の思想家たちの成熟した思想に改めて学ぶ必要があるのではないか。そのような精神の深みからの鎮魂こそ、先の戦争の英霊にはふさわしいからである。


賢人に曰く、

 平和とは何であるかと問はれれば、それは辞書にある通り“Freedom from, or cessation of, war or hostilities, that condition of a nation or community in which it is not at war with another.”意味し、また“A ratification or treaty of peace between two powers previously at war.”を差すといふのが、最も常識的な答えでありませう。それは戦争の事前と事後にある戦争の欠如状態、即ち、戦争してゐないといふだけの事です。要するに、単なる事実を示す消去的な意味に過ぎず、何等かの価値を示す積極的な意味として使用し得ぬものであります。少なくとも過去においては、特殊な平和主義者以外の大部分の人にとつてさういふものだつたのです。詰り戦争さへ無ければ好いのであります。が、戦争さへなければ好いといふ事は、或る価値を生むのに都合の好い状態であつても、その事自体を価値と見なす訳には行きません。のみならず、或る幾つかの価値を生むのに都合が好くても、それは必ずしも他の価値を生むのに都合が好い状態を意味しません。例えば勇気や自己犠牲の様に戦争状態であつたはうが生むのに都合の好い価値といふものも存在します。しかし、だからといつて戦争自体を価値と見なす訳には行きますまい。尤も日本の平和思想の弱点は、平和状態であつたはうが生むのに都合の好い価値といふ事についてすら、一顧の考慮をも払はなかつた事にあります。言ふまでもなく、平和は単なる事実や手段を示す消極的な意味ではなく、それ自信直ちに価値や目的と成り得る積極的な意味として通用してしまつたからです。

── 福田恆存(『平和の理念』)

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2017年08月15日(Tue) 『終戦の日』 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

 僕は政治的には無智な一国民として事変に処した。黙って処した。それについて今は何の後悔もしていない。

 大事変が終った時には、必ず若(も)しかくかくだったら事変は起らなかったろう、事変はこんな風にはならなかったろうという議論が起る。

 必然というものに対する人間の復讐だ。はかない復讐だ。この大戦争は一部の人達の無智と野心とから起ったか、それさえなければ、起こらなかったか。

 どうも僕にはそんなお目出度い歴史観は持てないよ。僕は歴史の必然性というものをもっと恐しいものと考えている。

 僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか。

── 小林秀雄


終戦の日

戦没者を追悼し平和を祈念する日


この時期になると読み返す一冊がある。

GHQの検閲により発禁・削除され、十数年前に発見された坂口安吾のエッセイ、『特攻隊に捧ぐ』である。


戦争にからまる何事をも悪い方へ悪い方へと解釈するのは決して健全なことではない。」「ことさらに無益なケチをつけ、悪い方へと解釈したがることは有害だ。


偏る世論に一石を投ず。

無頼派"坂口安吾


以下、抜粋。

 数百万の血をささげたこの戦争に、我々の心を真に高めてくれるような本当の美談が少いということは、なんとしても切ないことだ。それは一に軍部の指導方針が、その根本に於(おい)て、たとえば「お母さん」と叫んで死ぬ兵隊に、是が非でも「天皇陛下万歳」と叫ばせようというような非人間的なものであるから、真に人間の魂に訴える美しい話が乏しいのは仕方がないことであろう。

 けれども敗戦のあげくが、軍の積悪があばかれるのは当然として、戦争にからまる何事をも悪い方へ悪い方へと解釈するのは決して健全なことではない。

 たとえば戦争中は勇躍護国の花と散った特攻隊員が、敗戦後は専(もっぱ)ら「死にたくない」特攻隊員で、近頃では殉国の特攻隊員など一向にはやらなくなってしまったが、こう一方的にかたよるのは、いつの世にも排すべきで、自己自らを愚弄することにほかならない。もとより死にたくないのは人の本能で、自殺ですら多くは生きるためのあがきの変形であり、死にたい兵隊のあろう筈はないけれども、若者の胸に殉国の情熱というものが存在し、死にたくない本能と格闘しつつ、至情に散った尊厳を敬い愛す心を忘れてはならないだろう。我々はこの戦争の中から積悪の泥沼をあばき天日にさらし干し乾して正体を見破り自省と又明日の建設の足場とすることが必要であるが、同時に、戦争の中から真実の花をさがして、ひそかに我が部屋をかざり、明日の日により美しい花をもとめ花咲かせる努力と希望を失ってはならないだろう。

 私は文学者であり、生れついての懐疑家であり、人間を人性を死に至るまで疑いつづける者であるが、然し、特攻隊員の心情だけは疑らぬ方がいいと思っている。なぜなら、疑ったところで、タカが知れており、分りきっているからだ。要するに、死にたくない本能との格闘、それだけのことだ。疑るな。そッとしておけ。そして、卑怯だの女々しいだの、又はあべこべに人間的であったなどと言うなかれ。

 彼等は自ら爆弾となって敵艦にぶつかった。否、その大部分が途中に射ち落とされてしまったであろうけれども、敵艦に突入したその何機かを彼等全部の名誉ある姿と見てやりたい。母も思ったであろう。恋人のまぼろしも見たであろう。自ら飛び散る火の粉となり、火の粉の中に彼等の二十何歳かの悲しい歴史が花咲き消えた。彼等は基地では酒を飲み、ゴロツキで、バクチ打ちで、女たらしであったかも知れぬ。やむを得ぬ。死へ向かって歩むのだもの、聖人ならぬ二十前後の若者が、酒を飲まずにいられようか。せめても女と時のまの火を遊ばずにいられようか。ゴロツキで、バクチ打ちで、死を恐れ、生に恋々とし、世の誰よりも恋々とし、けれども彼等は愛国詩人であった。いのちを人にささげる者を詩人という。唄う必要はないのである。詩人純粋なりといえ、迷わずにいのちをささげ得る筈はない。そんな化け物はあり得ない。その迷う姿をあばいて何になるのさ何かの役に立つのかね?

 我々愚かな人間も、時にはかかる至高の姿に達し得るということ、それを必死に愛し、まもろうではないか。軍部の欺瞞とカラクリにあやつられた人形の姿であったとしても、死と必死に戦い、国にいのちをささげた苦悩と完結はなんで人形であるものか。

 人間が戦争を呪うのは当然だ。呪わぬ者は人間ではない。否応なく、いのちを強要される。私は無償の行為と云(い)ったが、それが至高の人の姿であるにしても多くの人はむしろ平凡を愛しており、小さな家庭の小さな平和を愛しているのだ。かかる人々を強要して体当りをさせる。暴力の極であり、私とて、最大の怒りをもってこれを呪うものである。そして恐らく大部分の兵隊が戦争を呪ったにきまっている。

 けれども私は「強要せられた」ことを一応忘れる考え方も必要だと思っている。なぜなら彼等は強要せられた、人間ではなく人形として否応いやおうなく強要せられた。だが、その次に始まったのは彼個人の凄絶せいぜつな死との格闘、人間の苦悩で、強要によって起りはしたが、燃焼はそれ自体であり、強要と切り離して、それ自体として見ることも可能だという考えである。否、私はむしろ切り離して、それ自体として見ることが正当で、格闘のあげくの殉国の情熱を最大の讃美を以もって敬愛したいと思うのだ。

 強要せられたる結果とは云え、凡人もまたかかる崇高な偉業を成就しうるということは大きな希望ではないか。大いなる光ではないか。平和なる時代に於(お)いて、かかる人の子の至高の苦悩と情熱が花咲きうるという希望は日本を世界を明るくする。ことさらに無益なケチをつけ、悪い方へと解釈したがることは有害だ。美しいものの真実の発芽は必死にまもり育てねばならぬ。

 私は戦争を最も呪う。だが、特攻隊を永遠に讃美する。その人間の懊悩苦悶(おうのうくもん)とかくて国のため人のためにささげられたいのちに対して。先ごろ浅草本願寺だかで浮浪者の救護に挺身し、浮浪者の敬慕を一身にあつめて救護所の所長におされていた学生が発疹チフスのために殉職したという話をきいた。

 私のごとく卑小な大人が蛇足する言葉は不要であろう。私の卑小さにも拘(かかわ)らず偉大なる魂は実在する。私はそれを信じうるだけで幸せだと思う。

 青年諸君よ、この戦争は馬鹿げた茶番にすぎず、そして戦争は永遠に呪うべきものであるが、かつて諸氏の胸に宿った「愛国殉国の情熱」が決して間違ったものではないことに最大の自信を持って欲しい。

 要求せられた「殉国の情熱」を、自発的な、人間自らの生き方の中に見出すことが不可能であろうか。それを思う私が間違っているのだろうか。

『2006年09月17日(Sun) 戦艦大和ノ最期』 http://d.hatena.ne.jp/nakamoto_h/20060917



 日本は太平洋戦争に敗れはしたが、そのかわり何ものにもかえ難いものを得た。これは、世界のどんな国も真似のできない特別特攻隊である。ス夕−リン主義者たちにせよナチ党員たちにせよ、結局は権力を手に入れるための行動であった。日本の特別特攻隊員たちはファナチックだったろうか。断じて違う。彼らには権勢欲とか名誉欲などはかけらもなかっ た。祖国を憂える貴い熱情があるだけだった。代償を求めない純粋な行為、そこにこそ真の偉大さがあり、逆上と紙一重のファナチズムとは根本的に異質である。人間はいつでも、偉大さへの志向を失ってはならないのだ。

 戦後にフランスの大臣としてはじめて日本を訪れたとき、私はそのことをとくに陛下に申し上げておいた。

 フランスデカルトを生んだ合理主義の国である。フランス人のなかには、特別特攻隊の出撃機数と戦果を比較して、こんなにすくない撃沈数なのになぜ若いいのちをと、疑問を抱く者もいる。そういう人たちに、私はいつもいってやる。「母や姉や妻の生命が危険にさらされるとき、自分が殺られると承知で暴漢に立ち向かうのが息子の、弟の、夫の道である。愛する者が殺められるのをだまって見すごせるものだろうか?」と。私は、祖国と家族を想う一念から恐怖も生への執着もすべてを乗り越えて、 いさぎよく敵艦に体当たりをした特別特攻隊員の精神と行為のなかに男の崇高な美学を見るのである。

── アンドレ・ マルロー(『特別攻撃隊の英霊に捧げる』

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2017年08月14日(Mon) 平和を口にする者が本当に平和を愛してゐるのか。 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

平和を口にする者が本当に平和を愛してゐるのか!?

ナショナリズムを口にする者が本当に日本民族自覚を持つてゐるのか!?

 平和といふ名の美しい花を咲かせた日本の薔薇造りは、そのヒューマニズムといふ根がエゴイズムといふ虫にやられてゐる事に、果して気附いてゐるかどうか。そのけちくさい、小(ち)つぽけな個人的エゴイズムに目を塞ぎ、今度は同じヒューマニズムの台木にナショナリズムを接木して、平和と二種咲き分けの妙技を発揮しようとしてゐるのではないか。平和を口にする者が本当に平和を愛してゐるのか、ただ戦争を恐れてゐるだけなのではないか。ただ戦争を恐れるだけの消極的な精神が、平和を文化の創造と維持との原動力と為し得るだらうか。ナショナリズムを口にする者が本当に日本民族自覚を持つてゐるのか、ただ個人的な消費生活の水準を落されたくないといふだけの事ではないのか。ただそれだけの消極的な精神が、文化共同体の源泉としてのナショナリズムに結集し得るだらうか。

── 福田恆存(『知識人の政治的言動』)

滅びゆく日本へ: 福田恆存の言葉

滅びゆく日本へ: 福田恆存の言葉

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2017年08月13日(Sun) 「世の中に一夜の成功はない」 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

「奴隷出身の哲学者から学ぶ『世の中に一夜の成功はない』ということ」(ライフハッカー

 → https://www.lifehacker.jp/2017/08/170812-there-is-no-overnight-success.html

奴隷出身の哲学者エピクテトス。苦難や困難があっても強く生きることを説いた彼の教えは、現代のビジネスや日常生活にも応用することができそうです。彼は著書を残していませんが、その教えは弟子のアリッアノスによって『Discourses』にまとめられています。たとえば、次の教えはその1つです。

何であれ素晴らしいものは突如として生じるものではない。ブドウの1房、イチジクの実1つとて同じである。君がイチジクの実が欲しいというなら、私は時間が必要だと答えよう。花が咲き、実がつき、それが熟すのを待たねばならない。

──Epictetus, Book I, ch. 15.


それが意味するもの

メッセージのポイントは、プロジェクト、発明、芸術作品、個人的な目標など、素晴らしいものは何であれ、それを生み出すためには時間と労力がかかるということです。「忍耐は美徳」であり、素晴らしいことを成し遂げるには、断固とした決意を持って根気強く取り組まなければなりません。

また、エピクテトスイチジクなどの果物を引き合いに出したことにも意味があります。実がなるまでに時間がかかるということ、さらに実が食べられる段階に達するまでにいくつかの段階を経ることも重要です。


そこから学べるもの

一夜にして成功者となる話を何度も耳にしたことがあると思いますが、それは全体を見通した話ではありません。あなたは、誰かが長年のハードワークの末にチャンスを掴み取った瞬間を見ているにすぎないのです。つまり、イチジクの実を見ただけであり、その実が熟すまでに多大な時間とエネルギーが費やされているのを知りません。

ですので、努力がすぐに報われなくても落胆しないでください。世界はそのようには動いていません。イチジクの実のような小さな成功であっても、時間をかけていくつもの段階を踏む必要があります。最終目標に向かうための中間目標を設定し、花が咲き、実がつきそれが熟すまで前進し続けてください。いつの日か、その実を手に取る日がやってくるはずです。

人生談義〈上〉 (岩波文庫)

人生談義〈上〉 (岩波文庫)

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2017年08月12日(Sat) 一日一言「運は待たない者にこそ」 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

八月十二日 運は待たない者にこそ


 人間の運は天から降ってくるが、地からも湧いてくるものでもある。しかし、運のくることを待っている者にはこなくて、待っていない欲のない者にくるものである。土地はこれを耕す者のために豊かになり、何もしないで秋を待つ者には、実りはこない。天は自ら努力する者を守ってくれるもので、御守に頼っている者など守ってくれない。


  守るとは身を守るのが守るなり

      身を守らねば神も守らず

── 新渡戸稲造(『一日一言』)


「天はみずから助くるものを助く」

「天はみずから助くるものを助く」(Heaven helps who help themselves.)といえることわざは、確然経験したる格言なり。わずか一句の中に、あまねく人事成敗の実験を包蔵せり。みずから助くということは、よく自主自立して、他人の力によらざることなり。みずから助くるの精神は、およそ人たるものの才智の由りて生ずるところの根源なり。

── サミュエル・スマイルズ中村正直 訳『西国立志編』

西国立志編 (講談社学術文庫)

西国立志編 (講談社学術文庫)

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