シンガポール通信ーハノイの印象

8月に国際会議参加のためハノイを訪問したのでその印象を。

ベトナム戦争ハノイについて語る時、私たち団塊の世代(実際には私はその少し前であるが)にとってこの言葉を抜きにしては語れない。1960年代から70年代の私の高校時代と大学時代を通して、ベトナム戦争は世界中の中心的な話題であり続けた。(大学紛争も懐かしい思い出である。そのことはまた別途。)

北ベトナムという小国が、中国の援助はあったにせよ、米国という世界最大の国と(最初は南ベトナムを通して間接的な戦いではあったが、最後はほぼ直接対決と言っていいであろう)戦い、そして最終的には勝利を収めたというのは、私にとってもそして言ってしまえば世界中の若者にとって驚きであると同時に、ある種の感慨と感動を与えたのではないだろうか。北ベトナムの大領領であるホーチミンが当時の若者にとって英雄であったのと同時に、首都であるハノイはある意味で聖地であった。

その聖地を初めて訪れようというのである。当然であるが、ある種の期待と感慨を持っていた。さて実際訪れてみて、いくつかの失望とそしてまたいくつかの感動を覚えたので記しておきたい。

最初に驚きかつ失望したのは、現地でドルが通用するということである。飛行機の中で読んだ観光ガイドに書いてあったので本当かなと思っていたら、たしかにタクシーはドルが通用する。市内でも土産物屋などではドルが通用する。米国と長い苦しい戦いを戦い抜いてそして最後に勝利をおさめた国が相手国である米国の通貨であるドルを流通させているとはなんということだろうか。

もちろん共産主義体制の崩壊と共に米国一国の覇権が続いている(さすがに最近はかげりが見えているが)とはいえ、戦って勝った相手の国の通貨を流通させているというのは、ベトナム戦争には勝ったが、その後の共産主義対資本主義の戦いに敗れたことを自ら認めていることになるのではないか。ある種の恥(shame)でありまた悲劇(tragedy)ではないだろうか。空港からホテルまで同じ会議に参加するので一緒にタクシーに乗ったオーストラリア人にそのことをいったら「そうえばそうだな」という返事で、同意はしてくれたのであるが、今ひとつのりの悪い返事であった。やはりベトナム戦争も戦後30年以上、「明治は遠くになりにけり」である。

同じタクシーに、会議開催側が用意したガイドが同行してくれた。現地の大学の学生だという。道筋の建物や名所を説明してくれるが、大変流暢な英語である。特に発音がいい。私の英語は足下にも及ばないかもしれない。大学の授業で勉強しているそうである。中国を中心として東南アジアの英語勉強熱は大変なものである。やはり英語をしゃべれないとこれからのグローバル時代は生きていけないということなのであろう。ところが本家の米国は下降気味で米国の時代は終わったなどと言われている。何とも皮肉なものである。

ところで、興味深かったのは、彼の英語の発音はほぼ完璧なのであるが、ヒアリングが出来ない。私や同行したオーストラリア人がいろいろと質問するが、少し難しい表現になると理解できないようである。どこかの国の教育と良く似ているが、どうも読み書き等を中心とした教育で、ヒアリングなどの会話を軽視しているようである。(同じ経験をかってチベットに旅行した際に持った。そのことはまた別の機会に記したい。)

別の日に市内の観光をしていて、米軍の北爆で何度も破壊された橋の側を通った。橋の名前は忘れてしまったが、当時は新聞に米軍側の戦果発表の写真として何度も掲載され、私たちにとってなじみの深い橋である。もちろん今は復旧され使われている。私は興奮ししまい、「あれがあの有名な橋じゃないの」とタクシーの運転手に大声で話しかけたのであるが、「そういえば、戦争のときに激しい爆撃があったらしい」程度の返答である。運転手は30代、ベトナム戦争のときはまだ生まれていなかったのであろう。

さてハノイの街であるが、これはうれしいことにまだ欧米の文化の影響をあまり受けていない。典型的な東南アジアの街としての町並みを残している。一言で言ってしまえばごみごみしている訳である。裏通りはもとより幹線道路に沿っても小さな店や食べ物屋が延々と続いている。また、人々がそこにたむろし、特に何もせずに行き交う車や人を眺めているだけの人々も大勢いる。夜になっても街灯の少ない通りに人々がいすなどを持ち出して食事をしたり雑談をしている。薄暗いので、歩いているとこれらの人々とぶつかりそうになったりする。でもこれこそがアジアの人々の生活スタイルであり、もっと言うとアジア文化である。

また有名なバイクの大洪水も経験した。まだ一般の人々が車を持つには至っていなくて、大半の人々はバイクで通勤・通学する。特にラッシュ時となると道路はバイクの洪水で埋め尽くされる。タクシーはこのバイクの洪水をかきわけるようにして、というよりはバイクの洪水に乗っかって進んでいく。時間がかかってしょうがないのであるが、これもハノイ文化であると考えると楽しみながら観察できる。

ところでシンガポールに帰国してからガイドブックを読んでいて知ったのであるが、ホーチミンの廟がありホーチミンの遺体を公開しているとのことである。しかもその廟が実は私の宿泊したホテルからそう離れていないということも知った。まさに「仁和寺の法師」であるが、見学したとしても単なるおじさんであることを見いだし失望したかもしれない。私の心の中で英雄であり続けた方がいいのかもしれない。



世界遺産ハロン湾の風景