法華経徒然蔦 #1

法華経徒然蔦 #1
   「徒然草」とすれば良いところを、少し悪乗りして徒然蔦とした。蔦はビルディングなどに絡みつき、それぞれの枝がどこからやってきているのか分からないが、地中から栄養や水分を吸い込み、緑の葉を繁茂させている。支離滅裂に見えるこれからの文章も、私の思いを吸い上げていると理解してもらいたい。法華経とあるのは、法華経について述べていくということだが、この方面での素人で、法華経に関する本を一冊読んだだけで、感想のようなものを書こうというのだから、相当ずうずうしいと思ってもらって結構である。徒然だから、今のところどのような文章になるか見当もつからない。

  先日、Fさんから「Aという人が日本から来られるので、家に来ませんか」と、誘いを受けた。彼女手作りの料理にも興味があり、出かけることにした。A氏、アトランタでの世界仏教会議に参加の後、ロスの彼女の家に立ち寄られた。Fさんの子供の頃からの知り合いで、ある新興宗教の会長をしておられたという。この程度のことしか知らなかった。そういえば、この宗教の信者で通訳や翻訳をしているFさんの友達のアメリカ人とは、2年ほど前に会ったことがあった。この宗教は日蓮宗関係らしいが、教義がどうの、この宗教の歴史などほとんど知らなかった。ただ、F氏の伯母に当たる方が豪傑で、元横綱を子供のように扱っていたようなことを、どこかの週刊誌で読んだ記憶がある。
  A氏のこと、文章を書く前にインターネットで検索してみた。超有名人ではないか。この方、宗教団体の元会長を務められたということなら、公人であり、実名を書いても差し支えない。しかし、一応A氏にしておく。読者でこの方面に精通しておられる方なら、A氏が誰か直ぐに分かるだろう。分かっても、A氏にしておいてもらいたい。お忍びでFさんの所にやって来られたのかもしれないし、検索によるとこの宗教団体にはA氏を取り巻く複雑な歴史があるようなので、実名を控えるのが礼儀なような気がする。
  Fさんの家に約束の時間に着くと、A氏、2年前に会ったアメリカ人、それに数人のA氏の取り巻きと思しき人々が応接間に所狭しとソファーや椅子に座っていた。私が部屋に入ると、Fさん、みんなに私のことを紹介してくれた。そのあと名刺交換をしたが、A氏は私の知らない宗教団体の代表になっている。それに、A氏が会長をしていた頃に分かれたらしい宗教法人のロスの代表の方もおられた。70歳は越しておられるのだろう。一際オーラーが漂う方がA氏である。異種の私の闖入に敬意を表されたのか、私とA氏の問答を中心に、皆さんが聞き役と言う形で会が始まった。どういう話の展開であったか忘れたが、「仏教のユーモア」についての話題になった。「近頃日本では、末期患者に宗教家が対処するというのが流行りだしたのですが、キリスト教の牧師が行くと歓迎されるのですが、仏教の僧侶が衣を着てやって行くと嫌がられるらしいです。坊さんイコール葬式というイメージがあって、いくら末期患者でもすぐにあの世は嫌ですよね。これユーモアでしょうか」。「さあ、どうでしょう。道元は『柔軟心』とか『愛語』という言葉を使っているのですが、これとユーモアは結びつくのでしょうか」と私が切り返した。「道元が中国に到着したときに、道元が乗ってきた船に日本から持ってきたしいたけを買いに来た老僧から仏教の真髄を学んでしまい、直ぐに日本に帰ってしまったというのはどうでしょうか」。これは明らかに歴史的事実を勘違いなされている。道元がこの老僧に、「もう遅くなったので、船に泊まられてはどうでしょうか。貴方が寺に帰らなくとも、だれに迷惑をかけるわけじゃないでしょう。」と言うと、老僧曰く、「日本から来られた若いお方、貴方は仏教の意味が分かっておられないようですね。私はようやくこの歳になって典座(てんぞ)(食事係)になることが出来たのです。私が帰らないと多くの修行僧はお腹を減らしています」。それを聞いた道元は、「中国ではこのような普通の僧侶でも仏教の捕らえ方が違う。仏教とは、経典などで理解するだけでなく、生活の中にあるようだ」と、新天地での本格的な修行に胸躍らされたというのが本当の話であり、すぐに帰ったのではなかった。勘違いなされたのか、知らなかったのか、東京大学印度哲学科を卒業なされたA氏が他宗派のこととはいえ間違われたということこそ、ユーモアに繋がると思った。
  我々の問答の後食事をしたのであるが、私はお腹が一杯になり、いつしか睡魔に襲われ、皆さんの会話を聞きながらコックリコックリであった。A氏も旅の疲れか、うとうとされていたようである。A氏の秘書兼通訳と見える若い女性を中心に宗教論争が展開しているようであったが、私にとって夢の中であり、内容を掴むことなど出来なかった。A氏、少しは論争に入っておられたが、殆ど聞き役のようであったと思う。後でFさんに尋ねると、「そうなんですよ、A先生の周りの人、先生に気遣うこともなく、時には先生を無視して話されるのですよ」であった。

 そのことを思い出し、ウイキペディアでA氏が元会長をなさっていた宗教団体のことについて調べてみた。そうすると以下のような記述があった(この宗教団体の名前やA氏の名前などは伏せる。と言っても、本当は分かってしまうだろうが)。

歴史
OOO年 創立者のB 実兄のC・Cの妻DらとともにXXXを開始。
OOO年 B他界。その後、Dを中心に戦後大きく教勢を伸ばしていくが、方針の違いや様々な中傷報道が原因となって多くの分派を生むに至る。

分裂・分派発生と解釈の多様性の要因
創立者であるB氏によって発想された在家の菩薩行としてのXXXの修行体系が、必ずしも正確に会員に徹底されていたとは言えない面もあるようである。
その要因の一つは、XXXが個人一人一人の自らの体験を重んじ、理屈だけで分かった積りになる事を避ける為に、敢えて教条化された「教義」というものを提示せず、「人を見て法を説く」というポリシーを貫いたことにあると思われる。ただ、そのようなポリシー自体は、釈尊の基本姿勢に忠実に従ったものであり、本来、画期的であるとさえ言えるものである。しかし、その画期的なポリシー故に、人から人に伝わるうちに、様々な独自な解釈が入り込む余地を残してしまったことも否定できない。
教条主義で塗り固められ、全ての信者が同じ考えで同じ行動様式をとるのも、不気味であるが、XXXのように個人の自由と主体性が重んじられるあまり、様々な解釈や様々なグループの分立を許してしまうのも、教団の大きな弱点の一つになっていると言えよう。
XXXから、分派した団体は主なものだけでも十数団体を数え、その総会員数は優にYYYを越えるとも言われるが、それぞれの団体の解釈には大きな幅があるようである。
当のXXX本体においても、本来、「先祖供養」は菩薩行の一環としての手立てであったはずだが、いつの間にかそれ自体が目的化して、XXXの教えは「先祖供養」であるというようなとらえ方が目立つようになり、菩薩行の実践という本来の目的が見失われるケースが少なからず見られたようである。
創立者のB氏の子息であるAは、そのような解釈のずれを修正すべく、さまざまな改革を断行したが、趣旨の徹底に成功したとはいえないようである。個人の体験と主体性が重んじられる会の体質においては、誰の意見であっても相対化されてしまう傾向があり、特定の解釈を浸透させる事は容易な事ではなかったようである。
Aは結局、会内部での改革をあきらめ、改革の趣旨に賛同した会員達とともに、ZZZという別団体を設立する事になる。
 
  なるほど、A氏の人柄を通して大きな宗教団体が動いていたことを何となく理解できたように思える。私には、今のA氏でよいではないかと思う、大きな教団のトップにいるより、自由人として名もないFさんの家を訪問し、弟子たちの自由な議論を聞きながら転寝(うたたね)する。どこかほのぼのとした大宗教家の老後の過ごし方ではないかと、門外漢の私は無責任にも思うのである。 
  Fさんの家にはA氏の著された本を安く買えたのだが、別にこの方面に興味を持っていなかったので、彼が新しく創立された宗教団体の冊子だけを戴いて帰った。その後何気なくその冊子を見ていると前記した、彼の伯母にあたるD氏の記述があり、興味が湧いてきた。Fさんに電話して、A氏の本を購入することを伝え、それを読むことにした。