行方不明の時間

「行方不明の時間」  茨木のり子


人間には
行方不明の時間が必要です
なぜかはわからないけれど
そんなふうに囁くものがあるのです


三十分であれ 一時間であれ
ポワンと一人
なにものからも離れて
うたたねにしろ
瞑想にしろ
不埒なことをいたすにしろ


遠野物語の寒戸の婆のような
ながい不明は困るけれど
ふっと自分の存在を掻き消す時間は必要です


所在 所業 時間帯
日々アリバイを作るいわれもないのに
着信音が鳴れば
ただちに携帯を取る
道を歩いているときも
バスや電車の中でさえ
〈すぐに戻れ〉や〈今 どこ?〉に
答えるために


遭難のとき助かる率は高いだろうが
電池が切れていたり圏外であったりすれば
絶望は更に深まるだろう
シャツ一枚 打ち振るよりも


私は家に居てさえ
ときどき行方不明になる
ベルが鳴っても出ない
電話が鳴っても出ない
今は居ないのです


目には見えないけれど
この世のいたる所に
透明な回転ドアが設置されている


不気味でもあり 素敵でもある 回転ドア
うっかり押したり
あるいは
不意に吸いこまれたり
一回転すれば あっという間に
あの世へとさまよい出る仕掛け
さすれば
もはや完全なる行方不明
残された一つの愉しみでもあって


その折は
あらゆる約束ごとも
すべては
チャラよ

ひよっこ四国・九州旅(前編)

念願だったお休みを強引にとったのは10月初旬のこと。
大学は後期が始まるタイミングですのにね…。完全に無視。


そしてどこへ向かったかといえば、国外脱出したわけでもなく、高知→愛媛→大分→福岡の行程で約1週間の旅。
と言ったら友人に「行き先が渋っ」と笑われたけど、最近めっきり国内旅行をしていなかった私には、日本の風土に触れ、人びとと出会い、改めて考えることも多くあって、とてもよい時間でした。


ということでぐんぐん写真をお見せしましょ。


夜行バスに乗り込み、早朝に高知に上陸。
寝ぼけた状態で嗅覚をたよりに歩き出すと、さっそく高知の洗礼を受ける。

何かを注意されているのか…むむ、わからない。寝起きでなおさらわからない。
思わずweb検索したところ、「たすい→形容詞 張り合いがない 手ごたえがない。」という高知弁だと判明。そんなビールはあかん、ってことか。へええ。


到着直後から2日間、素敵な友人一家にお世話になりまくりで、いろんな所に連れて行っていただく。本当にありがとう。
秋晴れのなか、オーガニックマーケットが開かれていたのは、緑に囲まれた公園でした。
おひさまが心地よい。


そして牧野植物園へ。牧野博士の植物画はやっぱりすごかった。
あら博士、キノコがお似合いですね。


私とめいいっぱい遊んでくれた姫君。


汗ばむ陽気の中、青さのりの香り豊かなうどんをつるりと食べた。美味。


高知といえば朝市でしょう。人でいっぱい。


おばちゃん、いも天くださいな。


めっちゃ濃厚な高知産のジンジャーエールぐびぐび。


そして高知市から西へ車を走らせ、久礼という漁師町へ。
わあい市場だ。どんな土地に行っても市場を見るのが好き。
土地に暮らす人びとの営みが感じられて、美味しそうなものがたくさん集まっていて。


お魚がきらきらしちゅう!!(にわか土佐弁)
これは打ちひしがれる美味しさ。


海辺をさんぽ。たそがれる猫。


とりあえずここまで。旅行すると食べてばっかりだな…。
後編につづく。

秋めく。

「失われた夏休み」を取り戻すべく?人びととまったりお酒を飲んだり、しょーもない話にけらけらと笑ったり、からりと乾いた風の中を散歩したり、美味しいものに悶絶したり、素敵な贈り物をいただいたりしながら、日々を送っておりました。なんだかんだいってヒトに恵まれているなあ、とつくづく思える瞬間が訪れるから、生きていけるのであって。


友人から結婚式の「書き物」を依頼され、こういうの2度目だわー、と思う。スピーチするよりは書く方が自分には向いてるかも。あるいは周囲が既にそれを察しているのかも。


ということで以下がかつて親友の結婚式brouchureのために書いたエッセイ。何も考えずさあーっと書きあげたけれど、伝えたいことは込められたという、私にとって稀有な文章のひとつ。一応彼女の名前は伏せて。

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『そして花嫁は旅を続ける』


 それが久々の再会であれ何であれ、出会えばいつも私たちは、(愛すべき意味での)バカバカしい遊びを繰りひろげていた。冬の稲毛海岸に出かけて砂浜に落書きをしたり、Y駅に貼られていた金城武の巨大ポスターがどうしても欲しいというので協力して頂戴したり(もう時効でしょう)…挙げればきりがない。それは息が切れるほど散々遊んで泥だらけになって、もう夕暮れだから家に帰らなくちゃ、またあした遊ぼうね、じゃあね、といって駆け出していく小学生のようだった。Sと過ごしてきた時間は、そんなことの繰り返しだったような気がする。その光景を想うとどれもちょっと刹那的で、ほんのりと淡い色彩を帯びていて、まるで旅の景色みたいだ、とも思う。


 たしかに、Sとは何度か旅をした。けれど彼女との時間がいつも旅のようなイメージを伴うのは、おそらく彼女の中に(そして私の中にも)流れる旅人の血のようなものに依るんだろう。旅することが半ば仕事になりつつある私にとって旅の極意とは「ハプニングを楽しむ」ことに尽きるのだけれど、彼女のバイタリティーはまさに、あらゆる出来事を楽しみに変えてしまう。


 天性の旅人である花嫁には、世界中へ出かけていくその軽やかな足取りと、強引な物売りをも論破してしまうたくましさと、旅を臨機応変にオーガナイズする才覚、そしてなにより、ハプニングさえも含むすべてを貪欲に楽しもうとする強い意思がある。そんな彼女が一緒に歩んでいくパートナーを見つけたというのだから、それはとても素敵なことだ。旅にパートナーを伴うことのメリットはいくつもあるけれど、カメラにも収められない、絵葉書にも書ききれない、そんな数々の瞬間を共に記憶していく幸せは何物にも代えがたい。


 そして旅は続いていく。あの2人のことだ、きっとこれからも、胸躍る瞬間を創りながら、日々を楽しんでいくのだろう。ご結婚おめでとう。

Beyond Control

多忙を極めた8月が過ぎて、いったん脱力してしまったせいか、どうも仕事に集中できず困る。晩夏?早秋?の暑さも原因かもしれない(good excuse...)。まだまだ今月も小さめの仕事や中くらいの仕事や大きな〆切が(結局ひととおり!)控えているんだけどな...困った。


しかし昨日は911から10年、311から半年、ということで、関連する映像やドキュメンタリーなどを延々と見続けてしまった。どれも片手間で観るようなものではないだけに、思わず集中してしまい、全てを見終えたあとはしばらく脱力。
これだけでもエネルギーを使うのだから、実際に一連のできごとに直面したのなら、どれほど強烈な経験だっただろう。


特に911関連は特集も多かったので、CNN→BBC→National Geographic→Al Jazeera の順でどんどん映像を観ていく。やはり独自の視点が群を抜いて面白かったのはアルジャジーラの映像。


同じ911回顧とはいえ、そもそも誰の声を拾い、インタビュアーが何を尋ね、どのように編集するかで全ては圧倒的に異なってくるという意味で、こういうクリップの作り方は人類学の民族誌の書き方(あるいは調査の仕方)とも強くリンクする。「視点」とはそういうもの。


フォーマルなインタビューからインフォーマルなおしゃべりまで、多くを聞き取っていると、肝心なのは言葉の中身よりもむしろ声のトーンや身振りや微妙な表情の変化にあると思えてくる。口先では何でも言えるかもしれない、でもその場の感情に伴って身体から発現する多様なサインは、卓越した演者でないかぎり自覚そしてコントロールできない。


パウエル元国務長官へのインタビューbyアルジャジーラも、イラク攻撃の根拠となった演説を否定させる内容なのだが、彼が途中で感情的になってしまう箇所が見てとれる。政治家の振るまいとしてはNGかもしれないが、そのような態度を引き出したインタビュアーは実に恣意的に、対話を展開していたのだろう。


アルジャジーラのクリップにはもうひとつ印象的なものがあった。それはポリフォニーという話につながるので、また次回に。

哀しみのなかに一抹の可笑しさが。

大型台風で家にひきこもる時間がぽっかりと生まれ、ここぞとばかりに映画を観る。DVDを借りに行くことさえせずに映画が観れるなんて、本当に便利な世の中になったものだ。


久々の映画の時間、と考えただけでるんるんしてしまう。そしてコーエン兄弟祭り!をすることに決定。(といっても2本だけど。)
昔から好きだけれど、やっぱりaddictiveだわ、彼らの作品。ふと足元をさらわれるような展開や、人を食った視点が絶妙。


トゥルー・グリット スペシャル・エディション [DVD]

トゥルー・グリット スペシャル・エディション [DVD]



「トゥルーグリット」は飛行機の中に次いで2度目。これを機内で観たときは確か、「ブラックスワン」「市民ケーン(古っ!)」「トゥルーグリット」の3本を立て続けに観たのだが、私としてはそれぞれに2つ星★★、3つ星★★★、4つ星★★★★で、「トゥルーグリット」が一番面白かった。


60年代映画のリメイクだというが、そもそも私が西部劇に対する関心が薄く(というか昔から「戦う」映画、戦闘シーン全般に興味が持てない...)、オリジナルなど知る由もなく。


ここまで西部劇に食指が動かない私でも、面白い!と思えるのは、やはり監督の力だろう。ありきたりの「正義/ヒーローの物語」ではなく、復讐劇であるのに敵の死さえ淡々としている。あまりにも軽妙にバタバタと人が死んでいくので、可笑しくて仕方なかったが、もしかするとこれを「残酷」だと言う人もいるのか、と考えたり。


都知事のように「青少年の健全な育成」なんてものを謳う人たちは、表象の持つ力を何一つ理解していないのだろう。暴力描写や性描写は悪影響を及ぼす、という短絡的な発想は、優れた表象に触れていれば、またそれを読み解くリテラシーが備わっていれば、生じないはずだ。生々しい殺戮シーンよりもむしろ、平然と(so-called)正義を語ったり乱暴に権力を発動したりする人間のほうが余程残酷だと思うのだが。


シリアスマン」では一転して、冴えない大学教授の日常に訪れる不条理の数々を描く。その一つ一つは私たちにも共感できるような些細なできごとであっても、ここまで怒濤のように押し寄せてしまう不条理さは、フィクションらしくてシンプルに可笑しい。そう、主人公の彼の不幸さは、簡単に救われるようなものではなく、彼の必死に救いを求める声は神(この場合はユダヤ教のラビ)にさえなかなか届かない。


この2本が見せてくれるのは、悲劇や不幸の「やりすごしかた」かもしれない。人生には不条理が必ず紛れていて、どんなにその不幸を罵っても、どんなに善行を積み重ねても、脱却できないときがある。渦中にいる当事者は必死で、全力で立ち向かっているのだけれど、外から眺めればそのあがきはまるでドン・キホーテのように滑稽ですらある。


敵を倒すことや悪に立ち向かうことが不必要だ、というのではない。ただそれよりもまず、ガチガチに固まった自分の価値観や世界観をゆるやかに見直しながら、自分の駄目さも受け入れながら、しなやかに、ほがらかに、時にはてきとうに、生きていくほうが、お得なのかもしれない。そうすればどんな悲劇に見舞われても、どんな修羅場に突入しても、くすくすと笑える瞬間が、きっと訪れる。

怒る。

必要に迫られて財務省の貿易統計をブラウズしていたが、欲しいデータに行きつくまでがあまりにも煩雑で、情報公開したくないのかとさえ思った。


そしてうんざりしつつ、データを開いて、唖然。
冗談かと思って何度もクリックしたけど、奴らはどうやら本気らしい。こんなの誰が快適に読めると思うわけ?


(どの地域でもいいからこの中のリンク先をクリックしてみると、数字酔いを体験できます。)

財務省貿易統計 Trade Statistics of Japan


はああああ?と、久々に怒る。
こういうものを平然と公開するような、常識も美意識もない官僚たちとは、200%友達になれないと思う。


これを作った人はもちろん統計を学んだプロなんだろうが、情報処理ってどういうことなのか、そのプレゼンの技術も含め、どうかもう一度おべんきょーしてください。

ひよっこのはちがつ

嗚呼、8月が終わる。


締め切り仕事がみっしり詰まっていた月だったので、7月の時点から既に、「8月が60日くらいあったらいいのにね…」などと周囲に呟いていたひよっこ。夏休み、長くなあれ!という小学生レベルの発想がいつまでも抜けない。


そして夏休みの日記や宿題を全部まとめてやっていたあの頃のように、


漢字の部首だけをまとめて書きまくったり、新聞を引っ張りだして夏休み期間の天気を一気に調べたり、友達の数学のノートを片っ端から写したり、ついには提出物を催促されてもしらばっくれていたあの頃のように(不真面目な記憶ばかりが引っぱりだされてくるなあ)、


思いだせる範囲で8月のできごとをまとめて記しておく。そんな、成長しない自分に苦笑しつつ、振りかえる8月。


【8月某日:なしの味】
講師バイトが多忙すぎてくらくらする。そこに追い打ちをかけるように、大学生たちが添削を依頼してくる、自由奔放すぎる(つまり支離滅裂な)日本語を読んでくらくらする。

そんななかで教え子の一人、中学生男子がガリガリ君(梨味)を保冷剤に包んで持ってきてくれる。値段にしたらなんてことないものだけど、わざわざ炎天下の中を溶けないように1本のアイスを持ってきてくれた優しさが嬉しい。
贈り物の価値、ってそういうことなんだ、結局。

ここまでは美談だったけれど、数年ぶり(数10年ぶり?)に食べてみたガリガリ君は文字通りガリガリと固くて、ひよっこは歯茎から出血し、半分で挫折した(残り半分も後からいただきました)。やっぱりあれは中学生男子の食べ物だな、と再認識する。


【8月16日:弔い】
酷暑といえども、送り火の京都の街は観光客で賑わっている。一方で私は、お盆明けに提出する論文があったので、帰省も旅行もままならず、その夜もオフィスにかんづめしていた。

部屋の近くからは大文字がよく見えた。ぼんやりと闇の中に浮かび上がる文字を眺めながら、これを見るのは何度目だろう?とおぼろげな記憶をたどる。

そして今は亡き大切な人びとの顔を順々に思い浮かべつつ、合掌。
記憶に呼び戻すことが一番の弔い、ということを教えてくれたのは、フィールドの人びとだったかもしれない。


【8月某日:stressed out】
本屋に彷徨いこんだら耐えきれなくなって、気づけば小説を5冊ぐらい買っていた。仕事続きで気持ちのネジが飛びそうになっていることを自覚。この小説だけ抱えて旅に出たいと、痛切に願う(間違ってもラップトップなんて持たずに)。今もまだ、もくろんでいる途中だけれど。


【8月21日:英語力】
必死に改稿して出した論文が受理され、よかった…と安堵。しかし自分の主要な業績が立て続けに英語論文、というのはいかがなものか。おとなしく日本語で書けばいいものを、自分で自分の首を絞めているような気が…。

英文は書けば書くほど筆が乗ってくる、はずもなく、自分がいかに稚拙な表現をしているのかを自覚しつつ書き進めるのは苦行に近い。

英語力といえば、親友Kが仕事で「ぎょう虫検査の方法を外国人に英語で、しかも電話で説明しなければならない」という、爆笑の(かつシリアスな)場面に遭遇した件。ねえ、説明できる?と問われて、あっさり降参。実践的な英語力を試すにはいいかもしれないけど、いろんな意味でレベルが高すぎる(笑。


【8月28日:まつたけ】
8月の仕事に「だいたい」目途がついたところで、一気に熱を出す。相変わらず、わかりやすい身体だ。でもこういうセンサーを大切にしなくちゃいけないと、年々痛感する。というか熱を出す前に感知するべきところを、黙殺して仕事した私が悪いのです。身体ちゃん、ごめんよ。

丸2日間、昏々と眠り続けたら、だいぶ身体が軽くなった。久々にたくさんの夢を見て、そして次々と忘れていった。

コーヒーを飲もうとしてクリームのパッケージにふと目を止めたら(普段ほとんど見ないけれど)、いつも花と花言葉が書いてあるそれに

「まつたけ」「花言葉:控え目」

と書いてあって、シュールさにおののく。もしもし、それはキノコではありませんか?という質問も受け付けないような、毅然としたまつたけの写真がそこに。

無性にキノコが食べたくなる。