新式算術講義

takehikom さんに教えられて注文した高木貞治著『新式算術講義』(ちくま学芸文庫)が今朝来た.夢中になって読んだ.明治36年の本の横書きに直しての復刻というべき本である.著者には『数の概念』もあり,それはこれまでも読んできたが,面白いという点では本書の方がずっと面白い.その緒言で高木貞治はいう.

 普通教育に於ける算術の論ずる所は一見甚(はなはだ)卑近なるが如しと雖(いへど)も,若(も)し深く問題の根柢に穿入せんとするときは,必しも然らず.夫(そ)れ教師は其故ふる所の学科につきて含蓄ある知識を要す.算術教師が算術の知識を求むる範囲,其教ふる児童の教科用書と同一程度の者に限らるること,極めて危殆なりと謂(い)ふべし.確実なる知識の欠乏を補ふに,教授法の経験を以てせんとするは,「無き袖を振はん」とするなり.是を以て此書け広く算術の教授に従事する教師諸氏の中に其読者を求めんと欲す.

そうなのだ.かつて私もそう考えたから,力及ばずながらもこの十年,自分のサイトでいくつものものを作ってきた.教育数学とは,この高木貞治の言葉を受けとめるものでなければならない.実際,自分はこれらのことごとを勉強してこそ,ちゃんと教えられた.小学校の先生の置かれた状況が,なかなか勉強する時間などないことは,妻が3年来小学校でスクールカウンセラーをやっていて,半分は先生の悩みでの話しだということからもわかる.それでも,明治36年高木貞治がこう言ったことは今も正しい.もっと先生が時間に余裕を持って自分で勉強できるようにしなければならない.現実はその逆の方向にばかり進んでいる.だからこそ,自分もできるかぎり今,いろいろ書き置かねばと思っている.
先日のことで言えば,まず量は,数の可換性を仮定しないで,結合性のみを仮定して定義する.その上でアルキメデスの公理を満たすアルキメデス量を定義する.その内容が本書の八章でなされていることだ.アルキメデス量では,積の可換性が結論として導かれるにちがいない.証明はまだできていない.この仕組みを教えるものはつかむ.しかし,生徒にとっては,量が数で切りとられる過程そのものを追体験しなければ,身につかない.そこで量に根拠をおいた授業がいる.その上で可換性もはじめに確認する.式は数の式としては,3×2=2×3であることを根拠に,いずれでもよいとする.その教材の工夫は難しい.しかし,「確実なる知識の欠乏を補ふに,教授法の経験を以てせんとするは,「無き袖を振はん」とするなり」である.やはり数学の根柢をふまえて教材も工夫されなければならない.
本書の高瀬正仁さんによる解説もすばらしい.ぜひ手にとって読んでほしい.ジーゲルと高木貞治ジーゲルと岡潔の関わりは知らなかった.ジーゲル( 1896年12月31日〜 1981年4月4日)は修士課程のときに打ち込んだ人.そのジーゲルの論文集「C.L.Giegel:Abhandlungen,BdI-III」3冊箱入りは今も本棚にある.ジーゲルはリーマン,ワイル,ポアンカレと続く西洋数学の一つの流れを受けつぐ人.そのジーゲルが若い頃高木貞治類体論アルティンに勧めたことも,岡潔を高く評価し来日したときには和歌山まで会いにいっていたことも,昔は知らなかった.知っていれば読み方が変わっていたかも知れない.そしてまた,金沢,京都を結ぶ日本の近代数学黎明期の話しも感慨深かった.解説の中の最後に「数と量」という一節がある.これを紹介させてもらう.

 数学の基礎に関心を寄せる近代の数学者たちは「概して全く量の観念を離れ,最抽象的に卒然として無理数の定義を立し」たと高木はいうが,量と数の概念が19世紀後半にいたって大きく乖離する様相を見せるのは高本の指摘の通りである.近代数学史に現われた解析概論の流れを回想すると,無限小解析の一番はじめのテキストといわれるマルキ・ド・ロピタルの著作『曲線の理解のための無限小の解析学』(1696)は,変化量と定量の概念規定から説き起こされているし,オイラーの作品『無限解析序説』(1748)でもこの点は同様である.これらの二つの作品には「数とは何か」という問いは見られないが,19世紀のはじめ,1821年に刊行されたコーシーの講義録『王立理工科学校の解析教程.第一部 代数解析』を見ると,「数]と「量」をめぐって精密な議論が重ねられ,両者を概念上,厳密に区分けしようとする姿勢が現われている.コーシー以降,「量]の概念は次第に後退の萌しを見せ始めるが,それでも1851年のリーマンの学位取得論文「一個の複素変化量の関数の一般理論の基礎」の標題に見られるのは複素「変化量」の関数であり,決して複素「変数」の関数なのではない.
 「数とは何か」という問いに厳密な様式で答えようとする試みを通じ,量の概念は急速に消失する方向に向かったが,形式論理上の厳密性はこれで確保されるとしても,見る者の心に「唐突の感」が起こるのは避けえないところである.数学は論理のみで構成されている学問ではないから,たとえ知的には申し分のない説明であっても,「情」がそれを拒絶することはありうるのである.現に,今日の大学の微積分の教育現場でも,「数」をはじめとする基礎的諸概念の取り扱いには困惑が見られ,おおむね省略される傾向にあるのではないかと思う.数の概念や極限や連続性などの厳密な説明は定着度が低く,数育効果にとぼしいというほどの理由がしばしば語られている.
 当初の解析学は量に寄せる素朴な観念に支えられて歩みを運び始めたのであり,その足取りは,少くとも19世紀半ばのりーマンにまで及んでいる.そうであれば量の概念を完全に放棄するのではなく,高木がそうしたように「数」の概念の背景に「量]の概念を配置するのは,よいアイデアである.晩年の岡潔はしばしば
  「数は量のかげ」
と語り,色紙も遺しているが,高木の語る「数の理論」の実体を言い当てた一語であり,根柢には高木の影がくっきりと射し込んでいるように思う.岡潔は京大の学生時代に園正造から「高木類体論」の話を聞いて感激した経験をもち,その後も『過渡期の数学』(岩波書店,昭和10)や『解析概論』など,高木の諸著作の愛読者であった.数学の深い場所で共鳴するところがあったのであろう.

実に心を動かされる一文である.先日,中日新聞の記事を紹介したばかりに,この本を教えられた.takehikom さんには,心から感謝する.ほんとうにありがたいことである.そしてまた昨今の,積の可換性に関する議論も,このような先輩諸氏の真剣な考察の流れのなかにあることを,実感する.である以上,これらをふまえたものでなければならないと思う.私の方もようやくにこの問題で一定の方向が見えた.いろいろと問題作成の依頼も来て,冬ごもりとは言え,何かとすることもあるのだが,これがあるから自分があるといえることについては,一つ一つになんとか綿密な論証をつけてやってゆきたい.