左甚五郎の猿

 

 左甚五郎と言えば、日光東照宮陽明門の「眠り猫」で有名である。
 有名だけれども、左甚五郎がいつ、どこで生まれ、どんな作品を残した人なのか定かでない。伝説上の人物なのである。
 実像を追求する学者もいる。かなり有力な説として、泉州大阪府南部)貝塚出身の岸上甚五郎という人物が、世にいう左甚五郎の正体であるという説がある。 
 和泉家所蔵の「由緒書」なるものによると、その岸上甚五郎義信は、永正元年(1504)に生まれ、永禄12年(1569)没というから、戦国末期の人である。
 その「由緒書」には次のようなくだりがある。 
  蟇股猿彫物彫刻之伏見岩清水八幡宮拝殿建之、
  火防之法致候哉今連綿ニ御座候 
 つまり「伏見の石清水八幡宮の拝殿の蟇股に猿の彫り物を彫刻した。防火の工夫がしてあったのか、今も連綿として残っている」というのである。 
 私が参照している論文は、若松均著「近世に出現した宮彫師について」であるが、その注によると、猿の彫刻は「由緒書」に書かれた八幡宮の「拝殿」にはなくて、実際には「本殿」の方で、その西門の蟇股にある。
 そして、この猿は夜な夜な抜け出して神前のお供えを食べるので、こらしめのために両眼に釘を打ち込まれたという。
 また同じく本殿の正面西側蟇股にも、甚五郎作と伝える竜があるという。
石清水八幡宮
 若葉の美しいある日曜日、私は娘を連れて石清水八幡宮を訪ねた。
 お賽銭箱の前で天井を見上げると、竜の彫り物がある。しかしここは「拝殿」であって「本殿」ではない。ということは、この竜は甚五郎作とは違う。しかし本殿にあるという甚五郎の竜も、たぶんこれに似たようなものだろう。
 左側へ廻ってみるが、それらしい彫刻はない。
 ひと巡りして元の正面にもどると、若い神職に出会った。私のひと巡りしたのが回廊の外側であり、本殿とはそのまた内側であると教えられた。そして本殿に入れるのは、しかるべき祈祷料を払った人だけなのである。小銭入れしか持たぬ私はあきらめざるをえない。もし千円札を何枚か持っていたとしても、猿と竜を見るために何千円か払いますかと言われたら、ちと、首をひねるところである。
 また何かの機会にご祈祷をお願いし、本殿に立ち入ることもあるだろう。その機に拝見させていただこう。
 そんなことを娘に話すと、
「いいやん。よう似た竜が居てたんやから」と言った。
 11歳、小学校6年生の娘になぐさめられて帰途に着いたのであった。

 その後、この文章をごらんになった郷土史会のM先生からお電話があり、「地元の自分たちも甚五郎の作品があるなんて知らなかった。八幡宮宮司さんに訊いたら『ありますよ』とこともなげに言われた。今度の日曜日、希望者数人と一緒に見に行きませんか」。
 かくして「我がまぼろしの猿と竜」拝顔の栄に浴した。で、どうだったかと訊かれても「まあ、あんなもんでしょう」と言うしかない。当然ながら、職人技であって芸術ではない。
 「大阪欄間(らんま)」という。和座敷の鴨居の上の欄間である。鶴が飛んだり、亀が泳いだり、蓬莱山みたいな山があったりの木彫である。大阪はあの欄間づくりの本場だったらしい。私は、ひょっとすると泉州の岸上甚五郎の伝統が「大阪欄間」を生んだのではないかと思っている。
 それから左甚五郎の「左」だが、これはもともと「飛騨の」甚五郎だったのかもしれない。「飛騨の匠」は飛鳥・白鳳・天平時代の宮殿や寺社建築に駆り出された飛騨の職人たちで、その技術は世間から高く評価された。飛騨は木材の産出国であり、木工技術といえば飛騨の匠だったのである。(了)(1987)

 注;若松論文は『横田健一先生古希記念文化史論叢』所収