皆さんの思い

niigatachuetsu2005-03-24





こんにちは。「立ちあがれ! 中越 」プロジェクト、niigatachuetsuことshigeです!!
震災から5ヶ月目の昨日、皆さんにシールを活用していただいて集まった義援金文化財・史跡への寄付の第一弾として当初の公約通り、小千谷市の慈眼寺へ目録と言う形で寄付させていただきました!!
また公式webサイトの方でも報告があるかと思いますが、今日は速報と言う形でこの@weblogから皆さんにお伝えさせて頂きます☆彡

慈眼寺?

「ところで慈眼寺って?」
と言う読者の方もいらっしゃるかもしれませんので、ここで少し説明させて頂きます。
慈眼寺が史跡として最大の輝きを放っているのは戊辰戦争の時の「小千谷会談」にあります。
司馬遼太郎の名作「峠」の舞台となった戊辰戦争における最大の激戦地、北越戦争において、戦争回避を模索する長岡藩家老の河合継之助と、北越地方の完全制圧を目論む明治新政府軍の山道軍軍監で土佐藩出身の岩村精一郎が慈眼寺にて会談を行いました。
それがこの「小千谷会談」です。
この会談の結果は河合の提案を岩村が一蹴する形で決裂したのですが、実はこの会談こそが戊辰戦争を、日本の未来を左右する分水嶺だったのです。
河合の類希なる才能を見抜いていた参謀の長州藩士山県狂介(山県有朋、後に総理大臣)は岩村の対応を聞いて激しく怒ると共に、河合を敵に回したまま帰藩させることを恐れて捕らえる様に命令しています。
また、同じく参謀であった薩摩藩士黒田了介(黒田清隆、後に総理大臣)は独自に今一度会談を持ちたいと河合に書状を送りますが、その書状が付く前に戦争が始まってしまいます。
そして最大の激戦となったこの戦争では日本の夜明けを嘱望された多数の志士が戦死しています。
後に総理大臣を務めた人物2人が買っていた河合継之助、彼と彼の構想を理解できる人間が会談していれば大きく結果は変わっていたことでしょう。

慈眼寺HP

総督府資料館「北越戦争」

ようこそ越後の山々へ「朝日山」

当日の様子

さて、前置きがかなり長くなってしまいましたが、ここでいよいよ当日の様子の速報に移ります!!

まずは同じく構内にある小千谷幼稚園の一室にて、報道関係者を前に今一度プロジェクトの説明と住職からのあいさつがありました。
正面に座っているのが住職、右に座っているのが奥から社団法人小千谷青年会議所理事長笹岡正栄、中央が「立ち上がれ!中越」プロジェクト長の宮崎悦男、一番手前が今度、後援していただくことになったフォーラム21と言う団体の会長を務める、社団法人見附青年会議所前年度理事長の山田淳一さんです。
郷土の史跡と言うものは地域の人たちの誇りであり、そして慣れ親しんだ場所は安らぎを与えてくれる場所です。
そして住職も「今一度足を運んでくれた方々に『変わったね』と言われない様に、できるだけ今までと同じ様に復旧したい。」とその思いを語って下さいました。
そして、いよいよ「会見の間」に移り、目録の授与となりました。

被災した会見の間を目の当たりにした報道陣から改めて感嘆の声が漏れます。
1月21日のエントリーで紹介させていただいた私たちの強力なアドバイザーであるストーリオ社長も「何度もここには来たけど…本当にひどいな…」と改めてその状況に声を漏らしていました。
そして、いよいよ目録の授与です。
1枚1枚のシールが生んだ義援金、それは単なる数字ではなく、シールを貼った人の思いのこもった義援金です。
それが形となって、いつの日かまた皆さんに、「ここまで直りました!!」とお伝えできる日を今から楽しみに待っています。