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山県有朋

一般

山県有朋

やまがたありとも

ちなみに、古い教科書では山縣有朋という表記。本人の署名旧字体


概略

  • 天保9年(1838年)閏4月22日〜大正11年(1922年)2月1日。長州出身。明治・大正の政治家、軍人。組閣2回。明治末期の最大派閥の主。
  • 最終爵位等:枢密院議長元帥陸軍大将従一位大勲位功一級公爵。明治帝にも大正帝にも恐れられ、少なからず疎まれていた模様。
  • 終生、民権運動を憎み、藩閥政府を守るために政党弾圧愛国心は非常に強く、天皇の権威を高めるための努力も怠らなかった。統帥権の確立によって軍部(特に陸軍)の内閣からの独立を図り、軍国主義への道を作ったということで、毀誉褒貶も激しい。また、官僚制の創始者であり、陸軍貴族院・各省庁にわたる巨大な「山県閥」を築きあげる。彼が作った組織や骨格は、現代でも形を変えて残っているものが多い。
  • 身の丈5尺6寸(約170cm)弱、体重は52kgくらい、と痩せ型。胃腸虚弱のために太れないことを、本人は非常に気にしていたらしい。大正帝がつけたあだ名は“キリギリス”。

誕生〜幕末

  • 長州藩蔵元附中間(ちゅうげん)・山県有稔(ありとし)の次男として生まれる。幼名、辰之助
    • 長男は夭逝したため、跡取り息子であった。他に姉妹が3人。家は大変貧しく、生家はわずか4坪であったと伝えられる。
    • 5歳の時に母を亡くす。父の後妻との折り合いが悪く、もっぱら祖母に育てられた。
    • 比較的風通しのよい長州藩とはいえ、上士と卒族である足軽の身分差は激しく、少年〜青年時代には上士から謂れのない辱めを受けたり、虐待を受けたりしたために、強い上昇志向を持つに到った、と伝記などには書かれている。
    • 初出仕は13歳。元服は16歳のとき。以後、小助と名を改める。この頃から宝蔵院流槍術に入門し、大いに励んだ。
  • 松下村塾奇兵隊
    • 安政5(1858)年、藩命で行った京で尊皇攘夷思想に目覚め、松下村塾に入門(10月)。2ヶ月ほどの末期弟子ではあるが、松下村塾門下生となったことで得た出会いや縁は、その後の彼の生涯に大きな影響を及ぼす。
    • 文久3(1863)年、伊藤博文らとともに士分に昇格。
    • 長州藩攘夷実行の際には、奇兵隊に入隊。この頃から狂介と名乗る。文久3年末頃には奇兵隊軍監*1となり、高杉晋作の総督辞任後、数人の総管*2があったが、彼はその間ずっと軍監を務めていたため、実質的に奇兵隊を掌握するようになった。

*1:ナンバー2。事務方などのトップ。

*2:開闢総督の高杉に憚って奇兵隊では“総督”の名称を用いなかった。