去れ!純愛ブーム! 佐野洋子「100万回生きたねこ」

本当は去年のうちに書く予定だった感想。今回取り上げるのは、1979年の初版から、私の持っている2003年12月発行では77刷(2006年の現在では80刷くらいにはなっているかもしれませんね)と、四半世紀以上にも渡って読まれている有名な絵本です。日本での人気の高さはもとより、海外でも翻訳本が出版されています。私の一番好きな絵本です、とこの本を挙げるファンの方も多いことでしょう。今回はそんな人たちに石を投げられ、さげすまれ罵られる覚悟で書いていきたいと思います。つまりはそういった内容です。まあ私もこの絵本好きなんですけどね。

100万回生きたねこ (講談社の創作絵本)

100万回生きたねこ (講談社の創作絵本)

 100万年も しなない ねこが いました。
 100万回も しんで、100万回も 生きたのです。
 りっぱな とらねこでした。
 100万人の 人が、そのねこを かわいがり、100万人の 人が、そのねこが しんだときなきました。
 ねこは、1回も なきませんでした。


 「100万回生きたねこ」は、このような冒頭の文と、不機嫌そうな顔つきのとらねこの絵の見開きから始まります。主人公はその一匹の雄ねこです。彼は死んでは生き返ることを繰り返し、その度ごとに、どこかの国の王さま、船乗り、サーカスの手品つかい、どろぼう…とさまざまな人間にねこは飼われます。ねこが死んだとき飼い主たちはそれぞれ悲しんで泣くのですが、当のねこは飼い主が「きらい」「だいきらい」で、ついぞ一度も好きになることはありませんでした。

 そんなねこが100万回目に生き返ったとき、ねこは「だれの ねこでも ありませんでした。」ねこは野良猫として生き、自由気ままな何ごとにも縛られない生を手に入れました。100万回も生きた、りっぱなねこ。どんな雌ねこもねこと結婚したがり、魚やねずみ、またたびをプレゼントしてくれるねこや、ねこのトラ模様を舐めてくれるねこもいました。しかしねこはやっぱりだれも好きにはなりませんでした。だれよりも自分が好きだったから。

 しかしねこが、自分に興味を示さない一匹の白い、美しい雌ねこに出会ったとき、物語が大きく進展します。だれもが自分のことを好きになるだろうとばかり思っていたねこは焦って、白いねこに何度も会いに行きます。ところが「おれは、100万回も しんだんだぜ!」と自慢をしても、サーカス仕込みの宙返りをしても、白いねこは「そう。」とそっけない返事を繰り返すばかり。

 あるとき、ねこはお決まりの「おれは、100万回も…」を言いかけて、「そばに いても いいかい。」と白いねこにたずねました。ねこは白いねこを好きになっていたのです。そして二匹は夫婦になり、かわいい子猫をたくさん産み、育てていきます。ねこはもう「おれは、100万回も…」などと言いません。その代わり白いねこと、子供たちを「自分よりも 好きなくらい」と感じます。やがて子猫を産まなくなり、年老いて眠ってばかりいる白い猫のかたわらで、ねこは「白いねこと、いっしょに、いつまでも 生きていたい」と思うようになります。


 ある日、白いねこは、ねこの となりで、しずかに うごかなく なって いました。
 ねこは、はじめて なきました。夜になって、朝になって、また 夜になって、朝になって、ねこは 100万回も なきました。
 朝になって、夜になって、ある日の お昼に、ねこは なきやみました。
 ねこは、白いねこの となりで、しずかに うごかなくなりました。





 ねこは もう、けっして いきかえりませんでした。


 以上でこの絵本は終わりです。初めて読んだ人も読んだことのある人も、もちろん解釈は人によってさまざまだと思います。ただ、従来の「愛されることよりも愛することのほうがすばらしい」「100万回生きたねこは、最後の100万回目の生でやっと真実の愛を知ったから死んだのだ」などという感想に、賛成しかねる気持ちが私にはあるのです。「本屋で立ち読みしたら泣いた」とか(正直私もウルっときましたよ。)、「好きな人に読んでもらいたい」とか……。本当にそうなのでしょうか?この作品は、美しくも悲しい「純愛」の物語なのでしょうか?性格のたいへん悪い私は、どうもそんなふうには考えられないのです。

 白いねこはプロポーズを受けたときも、ねこに自慢話を聞かされたときと同じように「ええ。」とそっけない返事を返しただけでした。ねこが自慢しても何をしても、白いねこはねこにちっとも興味を持たないのです。興味を持たなければ、かといってねこを拒絶するのでもない。はっきり言ってこの白いねこはねこのことをまったく見ていません。挿絵には執拗にねこから目を逸らした白いねこが描かれています。いっそスキャナーで取り込んで画像をアップしようと思うくらいです。

 これは…いわゆるツンデレなのでしょうか。ならねこが白いねこに萌える気持ちも分かります。しかし二匹が夫婦になった後もやっぱり白いねこは「ええ。」とそっけない返事を繰り返すだけ。ツンデレじゃなくてツンツン??え?新しいよ、コレ!!はっきり言わせてもらいますが、ツンデレツンデレたるゆえんは、ツンの際に隠しても隠しきれないデレの要素があるとき、愛ゆえのツン、つまり「いやよ、いやよも好きのうち」なのだそうです。しかし私は白いねこがねこのことを愛していたかと思うと、それは非常に疑わしい。ただもう本当に、白いねこはねこに関心がないとしか思えない。それなのにそばにいてねこは、幸せと感じる。このねこ、俺様男だと思ってたら実はとんでもないドMなんじゃないでしょうか。

 ……と思わずいつもの調子で書いてしまった。仕切り直しです。ねこは一体、白いねこの何を知っていたのでしょうか。いや、知ろうとしたでしょうか。「純愛」、「愛」というものを突き詰めていけばこういう問いにぶつかります。「愛」とは他者に投影されるだけの自己愛、まぼろしではないか、と。ねこは白いねこを愛していたけれど、白いねこのことを知ろうとは思わなかった。ねこは白いねこを愛していたけれど、白いねこが自分のことを愛しているかは考えなかった。…ねこは本当に白いねこを愛していたのだろうか。

 だとするならば、ねこの白いねこに対する愛情と、数多くの飼い主が彼に抱いた感情は、一体どう違っているのでしょう。何も変わらないのではありませんか。ねこの気持ちを考えることなく愛した飼い主たちと、白いねこの気持ちを考えることなくただ愛した猫。Amazonのレビューで「ねこが最初に王さまを好きになっていたら、そこで話は終わりだよ」と書いていた人がいましたが、至極もっともな指摘だと思います。白いねこは、大嫌いといいながら飼い主から離れようとしなかったねこ自身にとてもよく似ています。

 突然ですが、私の実家では猫を一匹飼っています。それも白猫を。8年くらい前に妹がどこかから拾ってきて、それからずっと私の家にいます。猫は本当に自由気ままというか、エサの時にしか甘えてこないし、抱くと嫌がるし、全くウチの猫はちっともかわいげがない。でも私だって、嫌がっているのにむりやり抱っこしようとしたり、湯たんぽ代わりに布団につっ込んだり、尻尾の先っちょをつまんでいじめてみたりと、猫からしてみればずいぶんひどいことをしているのです。でもやっぱり、どうしたってかわいいと思う。わたしはきっと彼女が死んだら泣くでしょう。そしてずっと覚えているでしょう。名前を呼ぶとめんどくさそうに、でもしっかりとしっぽを振って返事をしてくれる姿を。

 私の飼い猫に対する愛情は身勝手で独りよがりです。そしてそれは「100万回生きた猫」の、100万人の飼い主たちと同じものです。ねこの白いねこに対する愛は、この100万人の飼い主たちを否定することによって純化されます。それがこの絵本の解釈であったし、これからもそう読まれていくでしょう。ただその愛を「純愛」として昇華することはしかし、実はその愛を貶めていることにはなりませんか。なぜなら「純愛」にまで突き詰められた愛の姿は、愛が他者に投影されるだけのまぼろしでしかないこともはっきりと映し出すから。

 私は今の「純愛ブーム」が大嫌いです。早よ終われ〜と日々念じています。やっと韓流ブームはなくなりそうでほっとしていましたが、これだけでは不十分です。韓流が電車男とか春の雪とかにシフトしたに過ぎないのです。純愛ブームの収束化を図るべく、これからもこういった文章を書いていこうと誓いを新たにしています。どうしてこんなにも「純愛」を憎むかというとですねぇ、「純愛」に観念化されることは、現実の人間の関係・感情の生き生きとした豊かさをそぎ落としてしまうように思うからです。

 「真実の愛」を描こうとすれば、この絵本は後半だけで十分なはずでした。しかし作者は前半に後半と同じだけのページを割いて、さまざまな人間のねこに対する感情、愛情を描いています。それは後半のねこと白いねこの愛を純化しているようでありながら、実は「純愛」を相対化しているのです。これがこの絵本をセカイ系っぽくしていない大きな要素…ってやっぱりオタク用語でまとめたい私。

どうもいつもより思い込み深く書いてしまったような気がします。ありえないくらい長いし、ここまで読んでくれた人がいるのか?その分私のこの本に対する愛情が深いと思ってくださいませ。本ばっかり感想書いてたので、次は漫画読んで感想書こうと予定しています。次回予告「私が『NANA』に萌えないワ・ケ 矢沢あいNANA」」とか、思ってるだけ!思ってるだけです。

100万回生きたねこ」はねこが死んで、決して生き返らなかったと書かれて終わっています。でも白いねこはどうでしょうか。もしかして今度は、白いねこが何度も死んで生き返る物語が始まるかもしれません。その時白いねこは100万回生きたねこと同じ道をたどるのか、それとも新しい物語を紡ぐことになるのか。できるならば後者であって欲しい、と私は願っています。