天も地もあることなく、ただ虚空(おほそら)なり
大きな紙を用意する。その紙いっぱいに大きな円を書く。円の内側には何もない。その外側に、次のように書いてある。「此の輪の内は大虚空(おほそら)なり。」さらに小さな字で註釈「輪は仮に図(か)けるのみぞ。実に此の物ありとにはあらず、次なるも皆然り」
中庸の「三大考」は宇宙生成譚である。宇宙の始まりを第1図から第10図までで解き明かしそれに解説を加えている。大虚空(おほそら)があって他には何もなかった。
記に曰く
此の時いまだ天も地もあることなく、すべてただ虚空(おほそら)なり。天と地の初めは此の次の文に見えたり。然るを天地初発の時と云るは、後より云る言にしてただ世の初めということなり。また高天原にとあるも、此の時いまだ高天原はあらざれども、この三柱の神の成り坐したる処、後に高天原となれる故に、後より如此(かく)云る語也。*1
「大虚空(おほそら)があって他には何もなかった」、それ以外は三柱の神が成った、だけだ。と云っている。「天も地もあることなく」とは空間がなかったということなのか、それとも大虚空(おほそら)とは空虚な空間なのか、などなど疑問が生じますがそれには答えず、虚空(おほそら)という一語から始まることが語られるだけです。
次に第二図。大きな円の真ん中に小さな円が描かれ、それは「一物」であるとされる。一物ってなんやねんというと書紀にあるみたいですね。
書紀に曰く「天地初判、一物在於虚中(おほそらに)、状貌(そのかたち)難言(いいがたし)」(同上)
第一図と第二図ほとんど同じなのですが第一図は大きな円のなかに、天之御中主神など三柱の神が三つの点で表示された図。第二図は大きな円の真ん中に一物があり、その上方に三つの点がある図。第一図では物はなく神だけ、第二図で物が小さく現れる。で次々に第十図まで展開していくのですがその展開の原理とは何か?と云えば。高御産巣日神、神産巣日神の<産霊(むすび)>(の力)によるわけです。でそれは尋常の理を以て測り知ることができるものではない。したがってこの天地の始めを、「太極、陰陽、乾坤などといふ理をもってかしこげに」あげつらうことは妄説、見当違いだ、ということになります。id:noharra:20050326#p2 でも書きました。
つまり、宇宙のすべてが、<産霊(むすび)の力>によって生成したのだなどとは記紀にはどこにも書いていない。テキスト主義者の筈の宣長がそこから逸脱して勝手に言いだしただけです。
「三大考」のポイントは、大虚空(おほそら)への注目にあります。書紀に「虚」という一字があるだけで注目されてこなかった、おほそらになぜ中庸は注目したか。西欧渡来の「地は円(まろ)にして、虚空(そら)に浮べる」説を知ったとき、記紀の冒頭とそれがシンクロし、おそらく中庸は激しく感動したのだと思う。
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(続く)
*1:p257 日本思想体系50
萌え上がる物
次國椎如浮脂而。久羅下那洲多陀用幣琉之時【琉字以上十字以音】如葦牙因萌騰之物而。成神名。宇摩志阿斯訶備比古遲神【此神名以音】
次天之常立神【訓常云登許訓立云多知】此二柱神亦獨神成坐而。隱身也。
http://www.let.osaka-u.ac.jp/~okajima/kojiki1.txt
かの始めて成れる一つの物、浮き脂の如く、虚空(オホソラ)に漂蕩(ただよ)えるなり。さて其の物の中より、葦牙(あしかび)のごとく萌上がる物あり。これ天となるべき物也。かくてその天と成るべき物は萌上がり了(おわ)りて、其の跡に残れるが、堅まりて、地(つち)とは成る也。されど此の時は、いまだ海と国土と分かちなどもなく、ただ混(ひと)つにて、ふわふわとただよいてある也。(三大考)*1
第3図。宇宙のなかにただ一つ浮き脂みたいなものができて、葦の芽のようにぐいーんと萌え上がるものがあった。上の方向への巨大なベクトル。宣長によれば、あしかびは「葦のかつがつ生(お)初(そ)めたるを云う名なり」*2これを中庸は「その天と成るべき物」とみなすわけですが、まあそんなことは古事記には全然書いてないのですけどね。宣長には「さて此は天(あめ)の始めにて、如此萌え騰りて終(つい)に天とは成れるなり」*3とある。これによって天と地が分かれたと。
そもそも「三大」とは何か、というと、天、地、泉である。このうち二つがここで出来た。あと泉、とはいずみではなく黄泉(よみ)のこと。上に天が出来、下に垂れ下る物もあって黄泉になった(はずだ)と次の段で説明がある。