松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

元中帰連・森原一講演会

2007/10/13
蟻の兵隊』に出演した森原一講演会(神戸)
13時45分〜16時半、神戸市勤労会館403号室(三宮駅)。500円(高校生以下無料)。
撫順の奇蹟を受け継ぐ会関西支部

この方の略歴
1944年 日本軍に入る。
1946年 大隊長の命令で残留を決意。国民党軍に加わる。
1949年 八路軍に投降。
1956年 太原戦犯管理所から釈放、帰国。 
ということで、1949年までポツダム宣言に違反し、共産党軍と交戦している。
貴重な機会なので、話を聞きにいこう。

「軍命令はあったのか?」

 「軍命令はあったのか?」という問いかけは、しばしばミスリードである。軍というものは役所であり、本来の命令権限を超えた範囲の命令など出せるはずがない。沖縄「集団自決」問題も山西省残留兵問題でも、「皇軍」の本来の命令権限範囲内の正規の命令が存在しうる論理的余地はあったのだろうか。なかっただろう。
だから、問われなければらないことは、軍命令(であるかのような)強制性の存否であるはずだ。
集会で説明があった「起案用紙」など第一軍の命令文書5つの画像がネットに上がっている。ゴジラズワイフさん作成の資料集
http://www.tetsusenkai.net/official/e-mail/120917/godzillaswife/

そのうちの「起案用紙」
http://www7a.biglobe.ne.jp/~gwife/daiichigun_ari.htm
が興味深い。上記サイトによる活字化。

発翰者 軍参謀長

一、誠字第三〇七号ニヨリ日本軍民ノ中國残留ハ
   許可セラレザルコトトナレリ
   就キテハ本命ニ従ハズシテ今後山西側ニ脱走セル者
   ニ対シテハ日次ヲ遡リ三月十六日以降三月二十五日迄
   間ニ於ケル除隊者トシテ処置セラレタシ(但現役
   将校ノ転役ハ認メラレス)

   但シ今迄ノ間ニ於テ逃亡シ特務團等
   ニ入リタル者ニ対シテハ逃亡者トシテノ
   手続ヲ採ルモノトシ其ノ官職氏名ヲ改メテ速カニ報告セラレ度
                        依命 

二、本電直チニ焼却ノコト
二、本電用済後焼却

 日本軍民の中國残留は許可されないことになった。(しかし、当の残留者にはこのことは伝えられていない。)
その途端、自分たちが「命令」した兵たちのことを「今迄ノ間ニ於テ逃亡シ特務團等ニ入リタル者」と呼び始めるそして彼ら「ニ対シテハ逃亡者トシテノ手続ヲ採ルモノトシ」とされてしまう。いかにも官僚的隠蔽だ。そうした隠蔽自体は、よくあることのような気もするが、2600人もの人たちが人生を狂わされた。*1


http://homepage3.nifty.com/pcg3/newpage89.html
http://homepage3.nifty.com/pcg3/newpage96.html
に、体験者中西さんという方の文章がある。(この方は残留名簿に一時は名前を載せていた。「結局は残留を取り止め得たのには、この問題に終始批判的であった大隊長M利少佐に翻意を促され、口添の効果が大きかったと思う。(略)」と書かれている。
http://homepage3.nifty.com/pcg3/newpage90.html


この方は「問題は「命令の有無」ではないはずだ」と喝破している。

 わたしはこの推移にどうしても違和を覚える。
命令があったかなかったかと問われれば、なかったと答えるしかないが、それを持って「自願」とするのは飛躍であろう。残留者は軍が望みもしないのに自ら進んで残留を願い出たわけではない。問題は「命令の有無」ではなく、「軍の要望の有無」であるべき筈なのに、第二十五回国会以来、論点のすり替えが行われてしまったのだ。
http://homepage3.nifty.com/pcg3/newpage93.html

百歩譲って、第二十五回国会、昭和三十一年当時、日本軍のポツダム宣言違反を認めることが当時の政府には国際関係上どうしてもできないことだったとしても、21世紀にまでそれを踏襲する必要はない。
ちなみに当時の議事録は下記で読める。
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/025/0012/02512030012004c.html

○澄田参考人 私は、終戦当時、第一軍司令官として、山西省の太原におりました。日本軍降伏の命令を受けまして、閻錫山の第二戦区に降伏をすることになりました。降伏をすると同時に、私どもの任務といたしましては、当時張家口がソビエト軍のために占領されておりましたために、大同方面の後方連絡線が断たれましたので、この部隊が私の軍の指揮下に入りました。従って、総計軍約六万、これに居留民約三万ぐらい、これらの人数をなるべく多数、できたならば完全に日本内地に帰還せしめるのが、私の任務であると思いまして、(略)

当時、本来ならば軍は即刻武装解除しまして、一地に集結して復員時期を待つべき状態なのが自然でありまするが、中共軍の勢力が強く、しかも山西軍が劣弱であるために、軍自体、あるいは居留民の復員のための輸送を確保しなければならぬ、言いかえれば、鉄道を中共軍の妨害から守らなければならぬ、これを守らぬ以上は、全員の復員ができないという立場に立たされまして、また閻側からも希望がありましたので、しばらくの間、日本軍は旧来の配置を収縮をしながら、その配置に基いて警備を担当しておったのであります。

澄田氏の発言は核心を回避したもので面白くない。
以下、 山岡参考人。百百参考人 早坂参考人 小羽根参考人が発言している。

*1:ごく一部は確信犯の人もいたでしょうが

山西省以外にも

上記の集会には、ある中国人女性研究者が来ておられた。同様の例、日本軍の国民党軍への協力は沢山あり、参謀が数百人・・・と言っておられたが*1に、研究中とのことで口を閉じられた。
戦後の旧日本軍の蒋介石軍への協力としては(総勢83人)白団が有名ですが、これは1949年以降の話。それまでにいろいろなことがあったのでしょうね。

また、岡村に蒋介石接触したことから日本軍将校からなる軍事顧問団「白団」(ぱいだん:団長富田直亮の中国名、白鴻亮から)が結成され、昭和24年から約20年にわたり中国国民党政権に協力した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E6%9D%91%E5%AF%A7%E6%AC%A1

中でも、大掛かりだったものは、台湾の国民党軍の軍事顧問として、占領下の日本から台湾に渡った旧日本陸軍将校だ。彼らは団長の富田直亮氏の中国名、白鴻亮から取り「白団」(ぱいだん)と呼ばれた。白団は、昭和二十四(一九四九)年から約二十年の間、国民党軍の軍事顧問として将校の指導にあたった。蒋介石は、台湾に追い込まれた国民党軍にとって、旧日本軍のセオリーが大陸への反抗にとって必要だと考えていた。そこで、支那派遣軍総司令官であり中国通であった岡村寧次に、蒋介石接触して実現したのが白団であった。
http://www.jiyuren.or.jp/topics_old/bigaku.html

*1:岡村と蒋介石接触を契機したケースと言っていたように思うが不確か。

残留兵と靖国神社

これにより,約2600名の残留兵の内,約550名が戦死した.この戦死者の方々は靖国神社に祀られてはいなかったが,昭和31年(1956年)になって,遺族の申し出により準軍属扱いで合祀されたそうである.
http://trekky.mania.cx/blog/archives/2006/05/post_30.html

上記のブログには、ソースの明記がなかったのが残念ですが、いちおうメモしておきます。