マイ・ビジョン応答せよ!


「創作文芸のビジョン」集積


 こうした動きが出ているそうです。ちなみにどなたか、リンクをつけたら自動的に青色にしてアンダーバー的なものを出さすためにはどこをいじくったらいいのか教えてください。僕は困り果てています。
 これはあくまで「Google Wave」という初耳におっかなびっくりしている、はてなとかそういうのにもあまり関わってこなかった僕個人の感想ですので、皆が使っている専門用語もびっくりするほど口をつきませんが、暇なら聞いてください。(書き終わって一番前に付言しておきますが、特に何も言えていないため最後謝ります)
 さて、ネット上にある創作は、チラチラみて、正直言ってほとんどは、何がおもろいねんの一山いくらの世界です。多様化と聞いて来てみたらこのザマです。絵や写真を簡単にはっつけられたり、リレー小説や改変上等創作などをしたり、やりやすくなることはいくらでもあって、やってみるのも悪くないのはそうに決まってますが、それでおもしろいの天竺までいくのかといえばめちゃ疑問です。やり方を変えれば世界も一変するのは一般常識ですが、音楽の受容の仕方が変わっても音楽自体はどう変わってますの、みたいな話になる恐怖がありますが、というかそれを避けるために立ち上がったのですものね。
 いろんな人で一つの話を作るとか、その過程もこみこみで思惑と思惑が消しあったりもみあったりというのは、一見おもしろそうですが、文章というもの、しかもそんなおもしろくない文章というものを振り切ったレベルに上げるには、パンチ力が緑色のボタンすぎると思います。例えばもうちょい凝って、一人が一人の登場人物を担当して書くみたいな面倒くさいこともアリなような気がしますが、こんなのはそんなに大口開けて提案することでもないのでやめます。大体、僕がしたいのはむしろ、書く前の会議みたいなもののような気がします。そこの想像を膨らませる企画会議がしたい。でもこれは普通のネット技術で出来る話です。
 ちょっと話の予定が前後してしまいましたが、つまり書こうと思ってたことを先に書いちゃいましたが、何事も、後のものが先になり、先のものが後になるらしいと聞いています。単にやり方が変わったからやることを変えるのでなく、最終的には「そのやってる方法がおもしろい」じゃなくて「その文芸なり創作なりがおもしろい」にならないといけません。「創作がおもしろい」が先にきて最終的に後になるのではなく、後にきて最終的に先にならなければいけません。そうじゃないなら正直ボロクソに言いたい。そうならないためには、僕たちが今まで何をしたくて何をできなかったのか、っちゅうことを考えるのが手っ取り早いと今思いました。それが今回の「考えよう、やってみよう企画」で、なーんだ出来るじゃんよということになれば、ちょっとはおもしろくなっているはずです。僕がこれまで、創作を書く際に悲しそうな犬の顔になってきたのは、とにかく台詞の感じを伝えるのがしんどいということでした。ほいで僕が頭をしぼり、逆にしぼりして考えた、ネット文芸でなきゃ今のとこやれない一つの方策として、まぁやる人がやればおもしろさに一役買うかもしれないな、と思えたのは、例えば、
「なりてえよ、あんたみたいな男になりてえよ」
 のような文章をクリックしたらサクッとした動作で感情こもった台詞が流れるとか、そんな程度のことでした。ハハハ。情けない。しかもこれは、逆に引かれてしまうという諸刃の剣で、しかも、自分を向いている刃の方がギザギザしている場合もままあるような気がします。ちなみに、はてなダイアリーでもやっている人もいるかと思いますが、ネット大喜利という小さな世界でも、例えばめりましさんという人が こーゆーこと をやっていらっしゃいます。正直、ここから飛んだ人には、まどっぺとは結婚とはいったい何のことやらさっぱり意味がわからず、音声を聞いても全然おもしろくなく、むしろ引いてしまうと思われます。やっぱり僕も、どっかの一般人の肉声がスピーカーから飛び出してくると、ちょっとビクッとなってしまいます。これは慣れれば慣れちゃうでしょうなと楽観的に思っておきますが、引いてしまう可能性があるという問題点に加えて、もう一つ問題なのは、原点に立ち返って、そういうのまだまだめんどくさい、ということじゃないでしょうか。これから元も子もないことを言います。文芸創作というのは、紙とペンとおらが頭さえあればどんどん勝手にやっていけるものですし、だから始めたようなところがあります。そうじゃなかったら僕は元気にNSCに入学し、小刻みにうまいことを言う千原ジュニアのポジションを目指していたと思います。結局、ネットでも楽しく生きるにやるべきことはコミュニケーションだったのかと思ったのも今は昔のことですが、その気分はまだ続いていますし、そんな自分が悔しいです。だから今回、首を突っ込んでみました。突っ込んでおいてなんですが、とにかく僕は、そのへんは人まかせっきりにして、トフラーとかいう天才的な頭脳の人が大昔に言ってた第三の波というのが、思いも寄らないところから本格的に文芸の世界にもやって来るのを信じて、それまでなるたけ地肩をおもしろくしておきたいと思います。なんかもう少しで、本格的に戻れないところまで文の書き方がいけそうです。
 ちなみに、ネットでの文芸が、単純に一番確実に盛り上がるのは、ネットで書かれてるそんなにおもしろくもない創作に対して、ちゃんとした本格的なそれっぽい批評をきちんと色々な人に対してやってくれるお釈迦様のような人の大登場でしょう。こと文芸創作に関しては、ハーバーマスさんの言う公共性的なものが、もともともう無いのに更にグダグダだと思います。そのグダグダ感を超平等、超公共性と名づけて、ギリギリ論客を装いながら、結局何も言ってなくてすいませんの言葉に代えさせていただきます。

『のぼるくんたち』いがらしみきお

 まずみなさん、自分がジジイババアになった時の理想のスタンスを紙に書いて発表してください。僕は、当たり前の話、自分の好きなようにおもしろいように喋って張りのある生活ができていればまあOKかな、と思っています。
 さて、『のぼるくんたち』は全2巻のいがらしみきおのマンガです。主人公 のぼるくんは、老人ホームで暮らす要はボケちゃったジジイです。認知症型のボケですが、もうちょっと複雑でマジカルで、その日によって何歳なのかが違うんです。当日その時間の年齢によって、記憶と思考、それに伴う行動、能力が変化します。3歳の時の能力で暮らしていると思えば、50歳の時は50歳で少林寺拳法が凄く強かったりします。友達は、老人ホームなので全員ジジイです。話は、のぼるくんが一日のうちで全部の記憶を思い出す、すなわち、のぼるくんがどんな人生を送ってきたのかのぼるくんに思い出してもらうという、壮大な目標「人生のグランドスラム」を漠然と感じながら進みます。
 ここでジジイババアについて考えてみます。志村けんのコントを見てわかるとおり、好き勝手なことをさせるのに一番適しているキャラクターはジジイとババアです。そこにみんなのリアリティ−が備わっているからです。今キャラクターと言いましたが、キャラクターというのは概念化した個性とでも言うようなものです、本当ですか。つまり、若い女の子というだけでキャラクターになるわけではないように、ジジイババアというだけでなく何か内面外面の特徴づけがあってキャラクターになるはずですが、僕達はそういう、特定のジジイババアをなかなか記憶から引っ張り出して来れません。ボケたジジイババアが出てくるはずです。こういうふうに、老人と、あと子供は、生きてるだけでキャラクターになってしまう。悲しいやら何なのやら、なかなかおもしろい問題です。でも、それは単に僕たち社会のメインストリームの者たちが、ジジイババアを決め付けて、その決め付けは一応合ってるのですが、そこで思考停止して、あまりいじってこなかったからなのではないでしょうか。僕達はジジイババアに脳を割くのを怠り、一本化したのです。ジジイババアに個性はないのか! これは、前回に薦めた『働くおっさん劇場』とも関わってきます。おっさんおばさんじいさんばあさんにも個性はあるはずだ、多様なキャラクターがあるはずだ。人間だもの。これが、「ボケること」「記憶」と並んで『のぼるくんたち』のテーマだと僕は思っています。いがらしみきおには、そういう個人として没キャラクター化されて十把一からげにキャラクター化された種類の人間を救い上げようと集中的に描いている時期があって、そのジジイババアサイドがこの作品です。
 「見ろや ジジババがあんなに喜んどるわ」という感動的なシーンがマンガにもありますが、冒頭の僕の目標を叶えるには、やっぱり友達が必要です。いろんな、できればおもしろい個性あふれるジジイババアと一緒に行動したい。その個性はボケたからでもいいし、なんでもいいし、そういう人がいて、最終的にツッコんだり、何か反応して、最後に客観視してくれる人がいればいいと思う。このマンガの先生のように、そのポジションをやってもいいと思う。ボケる方に回った場合は、もっとなんでもいいと思う。もちろん、現実はそうはいかないものですが、そういう希望を持って、光に透かして老後を見ていきたいです。
 とにかく真面目めなことを書きましたが、一番大事なのは、全編にわたってギャグがおもしろいということです。ジジイババアが、画太郎的な意味でなくおもしろいことを言うんですやるんです。別にギャグでなくてもいいんですが、全編に渡る何かがないとのめりこめないという僕は落ち着きの無い修行の身、これがなかったら僕の中で特別なマンガになっていないと思います。そのギャグですが、ギャグギャグ言ってもちんぷんかんだと思うのでやんわりと説明します。よく聞いてください。このマンガのギャグは、多分これを読んでいる人があまりマンガでは読んだことのなかったギャグだと思います。というのは、現実に再現可能なギャグだということです。おもしろいジジイを集めて、そのまま忠実に映画化したらいいのにな、と思います。うまくやれたらものすごいカルト映画になるでしょう。そしてそのギャグ、マクロな視点からの説明なんですが、なされたギャグが、それが狙ったボケなのか、狙っていない「ボケ」なのか、その境界線が「記憶」というこのマンガの一大テーマにも濃密に関わってきて、ラストはとにかく凄い、まさに完全制覇の満塁ホームランということになるでしょう。そして明日はまたボケているでしょう。