第11話 「はばひろ川を渡れ」

RPG風のファンタジックな話に満ちていて少年の心が刺激されまくりで非常にいい感じです。一番いいと思ったのは、背の高い植物を切り裂きながらリーフたちが進んで行く辺りのシーン。ゆったりとして心地のいい、フィールドのBGMといった感じの曲をバックに、特に問題も無くゆっくりと前に進んで行く。これがRPGをやっていた時の、この先の冒険にワクワクしながらフィールドをゆっくりとぶらついている時のような気分を思い出させるものだった。冒険してるっ、て気がするわけです。いろいろと障害に突き当たって四苦八苦するのもいいけど、こういう冒険の気ままさ、雄大さといったものを感じることができるシーンもあってこそ、冒険に感情移入できると思う。クリーが意味も無く飛び回ってるのも、雄大な空気を作るのに一役買っていて良かった。

他にもトムの善悪を超えた商売人としての考え方や、クリーンチュルナイの由来なんかも、これまでの伏線をきちんと回収しながら、理屈としても面白い話で良かった。後はマジックアイテムの類もファンタジックで良かったし、リーフとジャスミンが喧嘩し、それをバルダがたしなめるといった話が何度かあったのも、それぞれのキャラクターらしさが出てて良かった。ジャスミン相変わらずかわいすぎです。このシリーズがすごく楽しくなってきました。

脚本:高橋ナツコ 絵コンテ:飯島正勝 演出:岡村正弘 作画監督:青野厚司

第7話 「親友ナッツ現る!」

「一緒に夢を、叶えよう!」

もうすごすぎるというか神というか完璧というか、劇場版一本見終わった後のような満足感。正攻法の話を最高の技術で正攻法で見せればこうなるというか、日本の30分アニメの洗練の極みというか、まあ素人なんで客観的にそうなのかどうかはわかりませんがもうどうでもいいですそんなこと。

プリキュア秘密基地を作るんだねー。」
とかれんの提案に対してもう白○120パーセントの表情で言うのぞみ。もう本物なわけです。かれんの冷静さとも対比されているのも上手い。

それが冒頭に引用したセリフのシーンや、ギリンマに対してナッツの行為を擁護するシーンなんかでは打って変わって、芯のある優しく強い女性になり、こっちも本物だという説得力がある。頭の悪さとこういった芯の強さが同居してるのぞみは、萌えーとかじゃなくて、本当に魅力的で、こちらの生きる活力になる。ええ現実で嫌なことがあってものぞみのことを思い出せば乗越えられる自信があります僕は。

すもももももも」のもも子の場合は活力の元が「愛」だったけど、こっちは「夢」というわけですね。「女」を説得力をもって描くために必要なのは、脚本や演出というより、作画と声優の演技力という気がします。あとは制作者のこれが女らしい行動だ! といった勘かな。女というのは理不尽で意味不明なな行動を取るのが自然だったりするわけだから。

変身シーンが五人同時だったのは物足りなかったし、バトルシーンもあっさりしすぎだったけど、もうこれが30分アニメの限界ということなんだろうなあ。

あとのぞみの頭の悪いのは遺伝だということがわかりましたね、冒頭で。

脚本:成田良美 絵コンテ:座古明史 演出:座古明史 作画監督:篁馨

その他アニメ関連

『まなびストレート!』からオタク世代間の問題まで考える : まるのうらがわ♪(ぬるヲタが斬る)いろいろと考えてしまう今日この頃。
http://www.bs-i.co.jp/clannad/ 個人的には京アニには新しいことをやって欲しかったところ。もうKanonでお腹一杯。でも世の中の流れ的にしょうがないか。
http://blog.livedoor.jp/blur66430/archives/50730330.html[:title]
エヴァンゲリオン - エヴァンゲリオンを10巻まで読みました、ビデオも26... - Yahoo!知恵袋こういう質問を無粋だと思うような感覚はないのだろうか。
http://www.new-akiba.com/archives/2007/03/youtube_98.html超ハイクオリティのストップモーション・アニメ。ストーリーもあり音響効果もきちんとつけてあり本当に楽しい。
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同人的な解釈とドラマ的カタルシス

あんまりこういう話はしたくないんだけど、どうしてもこれだけは言っておきたい。

くるぶしあんよさんの「ページの終りまで」の日記3月16日分3月17日分について。

まず、skripkaさんのhttp://blog.goo.ne.jp/skripka/e/79887e5e91930026bb0669587bc14cd6において、「また、「深読み」というなら、生徒総会でまなびが校歌を歌うシーンは、私には「CDを売るためのプロモーションとして用意されたシーン」としか思えないのだが……。」と書かれていることに対し、「それは作品外論理にすぎないので。ぼくなりに作品内論理で「深読み」すると、」と、「作品内論理」による深読みを行われております。で、その深読みというのが以下のものです。ここで理解しておくべきは以下の解釈の長さと出来のよさです。


 それは作品外論理にすぎないので。ぼくなりに作品内論理で「深読み」すると、この作品の主題のひとつは、終焉に立ち向かう再生への息吹、です。オープニング映像を初めて観たときぼくが感じたのは、「死」のイメージでした。焦点のぼやけた揺れる視界。色調の鈍い世界。死後の学園で遊ぶ子供達。
 現代と地続きのこの未来世界では、「学園」も「子供」もほとんど死んでいるんですよ。高校生が「子供」か、という批判に対しては昨日もちょっと触れましたが、この未来世界で高校に行くことを選ばなかった子供は、じつは「高校に行くことを選べなかった者」や、「子供として扱われなかった子供」だったりするんじゃないでしょうか。大人達が、子供の自由にしていいよ、早く働いて自己実現していいよ、と優しく語りかけているように見えながら、その実それは逆に、子供に早いうちから責任を負わせる世界です。未熟な若者に自分の尻を拭かせる世界。それは開かれているからこそとても厳しい場所です。そこには、自分の未熟さとゆっくり向き合っていくための余裕がない。余暇(スコレー)がない。スクールというのはそんな余暇を子供に与える場所だから、つまりそういう学園もない。(以下略)
これ以外にも、こういった「深読み」を行うことによりskripkaさんの演出の解釈に対する反論を挙げておられます。
で、何が問題かというと、skripkaさんは視聴者が「ドラマ的カタルシス」を得るための演出について語っているのに、あんよさんは二次創作的な解釈をした上での演出の話をしているということです。
「ドラマ的カタルシス」が得られるのは、何も考える余裕がなくなるほど作品に感情移入し、作品内での急展開などが起こるときです。例えば寅さんがまた失恋してしまう事がわかったときに、「あーまたか!」と心がゆすぶられてしまうアレのようなものです。またはシャーロックホームズが犯人を暴き立てた時の爽快感のようなものです。
重要なのは、そういった快感が得られるのは、作品を見ている時間内でということです。読者をカタルシスに導くためには様々な演出や構成の技術が必要になり、それが上手く使われていた場合のみ、視聴者は深い感動や衝撃に包まれます。さらにそれが得られるのは、一回目の視聴でのみであることも忘れてはなりません。これは寅さんやシャーロックホームズを二回見ることがどういうことか考えてみればわかるでしょう。
ところが、あんよさんの解釈は、例え「作品内論理」に基づいていたとしても、作品を視聴中に行うことは不可能なものです。上に引用した「深読み」を読めばわかりますが、これは視聴後にあれこれ考えた末の解釈であって、恐らくあんよさんも視聴中にそこまで理解できなかったと思います。
しかし、あんよさんはこの解釈を第1話の演出の解釈の前提にしています。そもそも、事前知識なしに第1話のOPを見た人がそんな解釈は出来ようもありません。つまり、あんよさんの演出やストーリーの解釈というのは、視聴時間外に行われるな解釈をふまえたもので、そのことは自覚されてると思います。
別にあんよさんの解釈が悪いといってるわけではありません。これは創造的な行為だと思いますし、むしろ個人的には今後のまなびの解釈を非常に楽しみしております(期待してますよ!!!)しかし、それは二次創作的といってもいい深い解釈に基づいたものであって、何も考えずに作品を見ることによってグワーッと感動が得られるかどうか、という話とは別の問題です。
あんよさんは「作品内論理」に基づいて解釈をされていますが、これは視聴者が作品を見たときに受ける印象と必ずしも一致しません。例えば、ある行動の原因が作品内で描かれていたとしても、その原因が視聴者にとって印象の薄いものであれば、その行動は不自然なものと視聴者は思ってしまいます。まなびストレートの問題は、作品内での行動や事件の因果関係に論理的な矛盾があるというわけではなくて、その因果関係を視聴者に印象付けるだけの強度をもった演出や脚本の仕事がなされてないということにあります。また、作り手の商売の匂いがしてしまうといった「作品外論理」も視聴者が感じてしまうものであれば、視聴者の印象に影響を与えるものとして重要視されるべきです。もし寅さんが作品内で歌っていた歌が、映画館を出たときに大々的に売られていたら気分が悪いでしょう。
あんよさんの経歴をみると、同人誌活動をされていたようで、作品を二次創作的な解釈の材料としようとする傾向が強いと思われます。この点についてskripkaさんは、当該記事のコメント欄で以下のように述べられています。

昨今のアニメ業界に蔓延する違和感は、リテラシーの問題というよりも、視聴者が、アニメを観る根源的な楽しさから離れてしまっている風潮と、むしろ不可分なような気がします。その風潮とは、もはや作品には、自分達が遊ぶためのテンプレートとしての意味しか求めてないということです。プロット重視というか、作品の中でキャラの行動の動機や目的が明確に規定されてしまうと、自分達が遊ぶ余地がなくなります。従って、ストーリやドラマは二の次となり、ものすごく広がりがあってドラマの帰結の曖昧な作品が持てはやされることに繋がるというわけです。
あんよさんは、作品への愛から過剰な読み込みをすることによって、作品の新しい魅力を引き出そうとしてるわけですが、果たしてその作品に関わってる時間全体のどこかに、推理小説の謎が解けるときの爽快感のような、寅さんの失恋がわかったときに感じる深い同情心のような物を感じられるカタルシスの瞬間があるか? 考えるべき問題だと思います。

最後に、繰返しますがこれはあんよさんの解釈を否定するものでは全くありません。作品の楽しみ方の可能性はあらゆる方向に開かれているべきだと思います。ただ、こっちの領域に踏み込んでこないでくれ、ということです。

さて、たまったアニメを消化せねば・・・

しまった!!! ですます調で書いてしまった! まあいっか。

くるぶしあんよ氏への返答

上の記事に対する反応への返答です。

うーん、こちらにも誤解はあったように思いますが、こちらの言いたいことは完全には伝わっていないように思います。

なぜ僕が「一般人」にこだわるかというと、結局見方は人それぞれ、というような馴れ合いの結論で終わってしまうのが嫌だからです。それはある種の科学的精神で、物語と人間の普遍的な関係を理解したい、という欲望に基づいています。だから、僕は自分の印象を飽くまで一般的なものではないか? という問いかけを続けます。あくまで「問いかけ」です。別に自分が正しいとか言いたいわけじゃないんです。自分が自分の知らない色眼鏡をかけていないなんてことはもちろん言い切れません。その一般性の理解はひどく難しいように思います。しかし、これは恐らく同意してくれると思いますが、今回のプリキュアの制作者の方々はどのような技法がどのような印象を一般的に与えるか、ということに精通していると思われます。僕はそこに近づきたいんです。

僕や「『演出』が細かければ素晴らしい作品といえるか?」という命題」(以下、「『演出』が細かければ」)が語っていることは、作品の脚本や演出などの手法と、それから受ける印象の関係が中心です。しかし、あんよさんは、作品の印象から、さらに「解釈」したものを中心に語ります。印象には強弱があり、それを語ることが出来ますが、解釈には強弱がありません。故に面白い作品とつまらない作品の両方で同じ解釈が可能ということが起こります。ある解釈が可能であることは作品の面白さの証拠にはなりません。


まだ最初のほうの話しか観ていないので、後半はぼくも観ていて不備が気になるようになるのかもしれませんが、現段階ではやはり、きちんと解釈できるいい作品です。
という文章からは解釈できるから良い作品であるという考えを感じるのですがどうなんでしょうか。とはいえ、これはあんよさんのスタイルから必然的に来る欠陥であり、その代わりに多くの魅力もあるわけだから、否定すべきものではありません。
もちろん、これが以下の情熱から表れたものであることも忘れてはなりません。

なのにその感動を視聴時に感じられなかったので否定する人がいるから、ぼくはあえてああいう言葉に組み替えて説明しているのです。この言語化自体は視聴後に手間をかけてなされているとしても、このような表現によってしかぼくの感動は説得的に伝えられないのです。
僕の場合はそういう説得はあきらめて、同じように感じた人に同意してもらえればいい、と「おもしろい」とか「つまんない」しか書かないわけです。というのも、例え一生懸命説得した上で相手が「ならおもしろい」と納得したとしても、自分と同じ密度を持った感動を味わうわけではないからです。しかし僕のはニヒリズムです。「超面白かった」と直接の感動を言えば感動の量を表せるけれど説得力がない、説得力をもたせるために解釈を語れば、説得力は増すけれど感動の量を表せない、そういったジレンマは、感動を伝える時に必然的に付きまとうものだと思います。

作品の手法と印象について語ることと、解釈について語ることの立ち位置のこういった違いを「領域」の違いと僕は呼んだのだと思います。そして僕と同じ立場である「『演出』が細かければ」に対して、違った領域から批判を加えたことが侵犯であるように感じたのだと思います。しかしよく考えてみれば、あんよさんがそれを行ったことは「侵犯」ではなく正当なものでした。人の意見に違った視点からスポットを当てることが間違っているわけはありません。それを理解しないで批判的になってしまったのは僕の誤りでした。ごめんなさい。

しかしこの領域の違いをお互いに認めないことには、いくら議論してもすれ違うばかりだと思います。どちらが優れているというわけではないですが、どちらかを選んだら同時にもう片方を選ぶことは出来ないものです。僕はあんよさんと違って解釈を伝えることによって他人に面白さが伝わるとは信じていないので、面白さを伝えたい時はのシーンや演出や構成などの要素とそれから受ける一般的な印象を積みかさねる、という方法を多くの場合取ります。そもそも議論のベースが違うのです。僕はあんよさんの徹底して作品世界の独立性を認めて解釈する見方には感銘を受けたこと付け加えておきます。よく考えれば、むしろあんよさんの見方のほうが普通ですが、オタク的常識に毒された僕はそのことに気付いていませんでした。

僕はあんよさんが作品に過剰な意味を読み込む同人的な楽しみをしているのだと思ったのですが、そうではないのですね。そう思ったのは、あんよさんがシスプリ考察を「一種の創造」と言っていたのが一つ。あと、ハルヒの考察をバーっと読んだのですが、作品の解釈があまりに自然すぎて、勢いがつきすぎて想像の流れに任せて原作から必然的に導き出せないことまで書いてしまっているような印象を受けたからです。批判的な文章に創造があるのは矛盾で、それを自覚した上で楽しんでいるのではないか、と思ったのですが、違ったようです。失礼しました。

もしそういった同人的な読み方で作品の客観的な評価を語られたらたまったもんじゃない、というのが僕が前の記事を書いた動機でしたので、作品から必然的に導き出せることのみを元に解釈をしてるのであれば安心です。

他人より自分の理解力や感受性が優れているとか劣っていると言う話は、相手の理解を得ることが難しいばかりか、相手を傷つけるのであまりしたくありません。感受性が劣ってることがわかったところでそれを治す薬があるわけでもありません。無益で人を傷つける議論は避けるべきだと思います。

それから、こういうことを言うと本人は否定するだろうけど、『日々ノ日キ』の中の人は「普通」には見えません。文章の端々から尋常ならぬエネルギーが溢れてるのを僕は感じます。むしろこの徹底的な特殊性が、誰もが持っているけれど気付かない一般性の発見に繋がるのではないか、と期待しています。

あんよさんがまなびを楽しんでるのはわりと不思議な感じで見ています。僕にとってはこれは問答無用でつまらない作品でしかなかったので。でも記憶の中ではまなび達は結構生き生きしてたりするんですよね。


それはともかくも、『まなびストレート』と『プリキュア5』を比べれば、やはり後者のほうがしっかり出来ているし好ましいのですけど、前者に見出した感動がそれ固有のものであることも、ぼくは否定しません。

恐らくこの「しっかり出来ているし好まし」くない部分が引っかかってしょうがなかったんじゃないかと思います。アニメ見すぎで頭の中に普通の構成のパターンが焼きついていて、少し外れると気持ち悪く感じてしまうと言うことかもしれません。もしそうなら今回のプリキュアはそれにぴったりだったということです。

あまりネット上での議論にはなれていないので、自分の書いたことに責任は持ちますが、何か失礼なことがあったらごめんなさい。僕にとってはあんよさんの考察のスタイルが見たことがないものだったので、驚きながらもその正体を探っている次第です。