第1回 私の英語学習歴 (@ns596)


 [twitter:@anfieldroad2]さん発案の『英語教育ブログ』みんなで書けば怖くない!企画に合わせて書こうと思います。

 私も企画の第1回目テーマを決める会議に参加したので、個人的に思い入れも強くこの企画がドンドン広がっていけばいいなぁなんて思っております。

 「英語学習歴」を振り返ると、「衝撃的な参考書との出会い」でも「人生がひっくり返るほどの影響を与えてくれた人物との出会い」もない。さらに、 学習塾・予備校に頼った記憶がないので「〇〇式英語攻略術」なんて無縁であった。だから「英語学習歴=日常の小さな出来事の履歴」になっていて、受験とは無縁で本当に「なんとな〜く」英語を勉強してきたなぁと再認識した。別に英語は得意じゃないけど、ゆっくりでも歩いてきたのは誇れることかもしれないな。
 一応、学習の転機(太字にしてます)に焦点を当ててまとめてみた。

  • 中学校 
    • 英語なんてアルファベットの羅列でしょ の巻
  • 高校
    • 1年生 劣等感の逆襲 の巻
    • 2年生 ALTと香水 の巻
    • 3年生 「S V Oストラテジー」 の巻
    • 3年生夏休み 予備校に行かない孤独と強運  の巻
  • 大学
    • 1年生 蒔かれた反骨精神が開花する の巻
    • 2年生 初めての留学(駅前だけどね!!!) の巻
    • 2〜3年生 初めての海外留学(駅前留学校斡旋だけどね!!!) の巻
    • 3年生 ワーキングホリデーから大学院留学へシフトチェンジ  の巻
    • 3年生〜4年生 IELTSの襲来と、装備としての「英英辞書」 の巻
    • 4年生夏休み 能動的海外語学研修の結果はIELTS speaking5.0(英検2級レベル) の巻
    • 4年生後半から卒業まで 大学院合格しても残る不安 の巻
  • 英国大学院
    • 大学院準備コース  英英辞書+英語で書かれた英文法書 の巻
    • 英国大学院にて  how to learnからwhat to learn の巻
    • 大学院修了して 「ナントナク英語」からの脱却 の巻
  • まとめ
  • 中学校
    • 英語なんてアルファベットの羅列でしょ の巻

 まずは当時の学力を紹介しよう。
 公立中学校で部活に励む毎日で定期テストは5教科平均70点の学力。英語は70点〜80点を行ったり来たりで3年生の時に入った学習塾でも4クラス中下から2番目のクラスだった。部活の同級生は合計12人いたのだがそのうち8人は区内のトップの公立高校に行ったので、割合的に仲間内で私は劣等生の部類に属した。
 中学校時代は英語を人並み(70点取れるくらいに)に勉強した。学校は個性的な(変な)英語教師ばかりで1年の時は「教科書全文を立って音読」をさせられ、2年生の時は「I like baseball(野球のジェスチャー付き)」という先生のモノマネをよくしていた。3年生になると塾に通い始めたおかげで点数は伸び始めたが「詰め込み教育」というより「点数取らないとどーなるかわかってるよな?」という「追い込み教育」であって常に点数を取ることばかり熱く熱く語られてウンザリした。
 中学1年生にアルファベットをペンマンシップで練習した際に「英語なんてアルファベットならべるだけ」と強く思った記憶がある。文法や規則を理解するというより、とにかく単語力で勝負したし、それで実際に70点くらい取れた。
 結局、友人とは1ランク下の中堅私立高校に専願で入学。

  • 高校
  • 1年生
    • 劣等感の逆襲 の巻

 当時の我が母校には下から標準コース、国際コース、英数コースとあり、私は標準コース専願で無事に合格した。中学時代の劣等感を引きずって、高校入学したので「高校では勉強しなきゃ」という情熱1割、「中学の同級生を見返してやる」という反骨心9割が勉強のモチベーションだった。
 1年生の時は本気で勉強した。とにかく暗記暗記暗記暗記暗記。英語に関しては「単語を暗記しまくって並んでいる文章読めば、だいたいの意味はわかるストラテジーを継続した。そんなわけで定期テストはどんな科目も暗記だけで乗り切った。おかげで学年で標準コース内1位をゲット。通年で5位以内を維持したおかげで2年生からは標準コースから英数コースにランクアップできた。

  • 2年生
    • ALTと香水 の巻

 2年生は英数コースにクラスチェンジしたわけだが、標準コース学年上位の自尊心は「上には上がもっといる」という英数コースの現実のおかげで、見事に出る杭は打たれたわけである。コース名でわかるように英語と数学に力を入れるわけだが、私は数学が大の苦手で2年生からはいつも赤点か、赤点ギリギリばっかりになった。一方、英語は単語テストなど小テストを真面目にこなしておけば試験前に勉強しなくてもそれなりに点数が取れたのだ。つまり1年生で培ったストラテジーに加えて「教科書の内容を理解」すれば問題なく点数が取れたわけだ。
 2年生の時に初めてALTというガイコクジンのもとで授業があった。リスニングの授業がメインだったが、ハッキリ言って何を言っているのかチンプンカンプン。当時の授業で覚えてることと言えば「ALTの先生の香水がキツイ」ことくらい。その当時、音声として英語に接するのは洋楽を聴くくらい。ニルヴァーナを子守唄代わりに聴いていた私は特に音と世界観にのめり込んだ。歌詞を理解するというのも英語学習の入口だったのだが、音楽の歌詞はまだ単語暗記ストラテジーが幸いにも通用したのだ。そして、ALTの生の英語はハッキリ言って難しすぎて「英語を聞く、話す=難しい」の方程式は確固たるものとなった。

  • 3年生
    • 「S V Oストラテジー」 の巻

 3年生になって自覚したことは「英語は得意じゃないけど、他教科に比べてマシな点数が取れる」ということだった。そんななか英数コースは徐々に大学受験まっしぐらモードにシフトチェンジしていった。私は2年生の時に〇〇塾の模試において数学で全国で最下位より1つ上(大阪弁でベベツー)を見事に取ったので、大学は数学受験のない私立大学1本に絞った。
 私が入学する1年前に国際コース(半年or一年の留学必須)が新設され、学校全体が英語に力を入れ始めていた。そんなわけで交換留学制度も導入されたのだが、3年生が始まってすぐに私は友人に誘われてその交換留学へ申し込んだ。誘った友人をよそに最終試験まで進んだのだが、あえなく撃沈。その当時そこまで海外に行きたかったのか今でも不明だが、「試験に落ちた」というのは悔しいもので、そこで芽生えた気持ちは「いつか絶対に海外に行ってやる」という得意の反骨心だった。
 さて、3年に入ったら「志望校」と「志望学科」というものを決めなくてはいけない。私はいたって簡単に決めた。「志望校=関関同立」「志望学科=英語科」以上。関関同立は関西では有名な私立大学だから。英語学科は一番マシな教科が英語だから。
 その当時は学校指定の教科書と問題集しか使ったことがなかった。単語はターゲット、熟語はネクステージ、文法は基礎英文法問題精講の3点セット。学校の英語の先生は「この3点セットをやってれば入試は余裕」と言っていたのでこれらを集中的に頑張った。加えて当時の私にとって転機になったのが超英文法マニュアルという本。(今読むとあんまり感心しない)この本を簡潔に言うと英語を「S V O」と「S V C」だけで説明するというものだが、当時の私は悟ったわけです。
「そうか英語はS V OorC で構成されて、さらに足し算のように後から説明を加えてるだけなんだ!」

  • 3年生夏休み
    • 予備校に行かない孤独と強運  の巻

 受験で一番大切な3年生の夏休み到来。同級生が予備校に通い始めているなか、私は予備校という仕組みと雰囲気が大っっっっっっっっっ嫌いだったので意地でも通塾せずに受験してやるというひねくれ者だったのです。英語に関してはほとんどこの「SVOストラテジー」で問題に挑みました。夏休みは自宅学習に勤しんだわけだが、結果的に夏休み明けの模試では英語しか点数が伸びていないという始末。自己分析するまでもないのだが、自習だと自分が一番苦痛と感じない科目しかしないってのは当然の結果だった。
 ○会で自習したわけだが、当時(高3の夏)の私の平均偏差値は○会いわく33くらいだった。予備校に通っていない私は世間の受験ムードをいっさい感じず、我が道をひたすら歩んでいたのだが、秋ごろに一通の吉報が入る。いろいろあって自分が指定校推薦の枠に該当することになり、アレヨアレヨ(ここは複雑なので割愛)と東京の某私大に合格しちゃったわけです。


  • 大学
  • 1年生 
    • 蒔かれた反骨精神が開花する の巻

 そんなこんなで英米文学科に所属しちゃったわけだが、なんせ本来の自分の偏差値より3ランクくらい上の大学に入っちゃったわけだから周りは英語が出来る猛者達だらけ。特に一番ショックだったのは最初の必修科目のクラス分けだった。うちの大学は必修科目でReading, Listening, Speaking, Writing全てが独立した科目として組み込まれており、いま思えば非常に体系的なモジュールだった。
 当然私は4技能全部一番下からスタートしたわけだが、英語がデキル生徒(特に帰国子女)は飛び級のように上のクラスからスタートできて必然的に必修科目が終わるのが一足早くなるのだ。もちろん外国人が教えるのがほとんどで、例えばWritingの宿題はBook reviewやJournal writing(毎週3ページ以上交換日記書く)などやる気のある生徒はグングンと力をつけていった。一方、テキトーに入学した私は東京弁すら話せないという劣等感で押しつぶされそうになりながら嫌々与えられた課題をこなす日々。その時に高校生の時に芽生えた反骨心がとうとう花開いたのだ。
 「あいつらに追いつくには留学しかないんや!!」

  • 2年生 
    • 初めての留学(駅前だけどね!!!) の巻

 教職課程科目の関係もあり1年〜2年生と選択科目として生成文法や音声学など、いわゆる英語学概論を(嫌々)勉強した。今まで英語を5分以上話したことのない私にとってこれらの理論をもとにした英語教育は今振り返るとは非常にありがたく感じている。文法に関しては「SVOストラテジー」で乗り越えてきた自分に樹形図など概要だけでも勉強できたのは新鮮だった。さらに、音声に関しても自己流で開発する前にIPAや英語の音声面の特徴を(当時は嫌々だったが)勉強できたのは後に留学して発音に関してはあまり指導されなかった要因の1つだろうと思う。
 さて、2年生の夏ごろに父親に頼み込んで海外へ行きたい想いをぶつけた。そしてまずは駅前留学して力をつけたいという安易な大学生。最初はアメリカに住んでいたという日本人のレッスンだったが、今まで「ナントナク英語」で生きてきた私は話したいことが英語で出てこないという一つ目の壁にぶち当たった。行き先を尋ねられたら目的地を英語で説明するというタスクも全然できない。そんなレッスンが続いて決断!
 「やっぱり海外に行くしかないんや!!」

  • 2〜3年生 
    • 初めての海外留学駅前留学校斡旋だけどね!!!) の巻

 駅前留学を続けるとだんだん海外に行きたくなってきた。そこで両親に頼み込んで2年生と3年生の間の休みに1ヶ月間オーストラリアのブリスベンに語学留学させてもらった。といっても駅前留学校が全面サポートなので日本人が20人くらいパックで組み込まれており、言ってしまえばツアー旅行みたいなものだった。当時は「日本人とずっといると英語使う機会ないよー」なんて知らなかったし、なによりパッキング研修なのでエクスカージョンも充実しており、コアラやら遊園地やらビーチやら楽しいことだらけだった 。
 それでも英語学習の動機は薄れていなかった。向こうで知り合った韓国人と焼肉したり、ホームステイ先が恵まれていたりと英語ができないながらも生の英語に接する機会は格段に増えた。そんななか、一番印象に残っているのが現地で知り合ったワーキングホリデー中の日本人だった。その人と仲良くなってから「自分もワーキングホリデーしたい。」って思うようになった。今振り返ると、あの中途半端な1ヶ月の語学研修が、次への大きなステップに拍車をかけたのだろう。

  • 3年生 
    • ワーキングホリデーから大学院留学へシフトチェンジ  の巻

 ハッキリ言って不完全燃焼のままオーストラリアから帰国した。これがよかったのかしれない。くすぶっていた想いは未完成な若者に「将来の目標」を育むキッカケを与えてくれた。卒業したらワーホリでブラブラしたいという気持ちを具体的にするため関東で開催された「留学斡旋会社のカウンセリング」や「海外留学フォーラム」に積極的に参加するようになる。

とあるイベントで

私「ワーキングホリデーに行きたいんですけど…」
カウンセラー「君はまだ3年生?まだ時間あるんだから大学院留学しちゃいなよ。」
私「いやぁ、無理っすよ…」
カウンセラー「無理なことないよ。本気でやれば絶対行けるよ。大学院行ったらそこで取った修士学位が一生ついてくるんだよ!!
私「(身体に稲妻走る)そっか!!」
カウンセラー「つきましては御社の〇〇というサービスがありましt…」
私「やってみます!!あざーした!(逃亡)」

 さて大学院行くためにはIELTSなる語学試験をしなければならないようだ。その当時の私の語学力は

    1. TOEIC650点(本当に英文科の生徒か!?)
    2. 英語必修科目を落として東京と神奈川を往復する(キャンパスが2つあるからマジで遠い)

TOEICは何もしなくても650点取れて安心した(←安心すんな!)からそれ以降受けてない。そんなことより正体不明のIELTSに焦点を当てる!こんな語学力の自分でも営業トークに乗っかって色んな留学斡旋会社を調べまくって、とある会社のもとネイティブとIELTS対策レッスンを開始する。

  • 3年生〜4年生
    • IELTSの襲来と、装備としての「英英辞書」 の巻

 3年生のゴールデンウィーク後に本格的に大学院留学に向けて勉強開始!生まれて初めて能動的な英語学習が始まった。当時の私の語学力はIELTS5.5(TOEFL-I, 61)と(自社調べだが)診断されたのだが、大学院入学には最低IELTS6.5が必要なので猛勉強の必要がある。今でも印象に残ってることは初めてネイティブとレッスンして言われた
「あんた!英英辞書買いなさい!で、毎回レッスンに持ってきなさい!」
そこで買ったのがOxford Advanced Learners Dictionaryである。2000ページ程の本を毎回持ってきて、まともに話せない私がレッスンでやらされたことは「英単語を英語で説明する」ことの一点のみ。

例えば前述の目的地を答えるタスクだと

私「……so, you can get to the station on the left side.」と答える
先生「Umm…What is station?」
私「station!? (ステーションは駅のことだよ、バカヤロウ!)Well…」
先生「Hey. Dictionary!」
私「(レッスンそっちのけで辞書をひく)station is… a place where trains stop so that passengers can get on and off」
先生「Thank you. So, what is passenger?」
私「(パッセンジャーは乗客のことだよ、バカヤロウ!けど英語で説明できねぇ)OK. Passenger is…」
この繰り返し∞ループ。
私が英語学習に本気になったのはこの英英辞書を持つようになってからである。
そしてこのトレーニングは極めて合理的で、後の英語学習の土台となった。

  • 4年生夏休み 
    • 能動的海外語学研修の結果はIELTS speaking5.0(英検2級レベル) の巻

 さて、この後IELTS対策のためレッスン先を転々と変える。ネイティブの先生にはスピーキングとライティングの添削をメインに受講した。いわゆる試験に勝つためのノウハウを鍛えられた。それと同時に日常的にBBC Learning EnglishからBBC World Serviceまで英語のラジオ番組をpodcastで聴きまくった。この頃はネイティブからのフィードバックが怖くてレッスンに行くのが本当に苦痛で仕方なかった。毎回フルボッコされに行くのは強い精神力がいるのだ。世はまだ売り手市場ワッショイワッショイだったので、自分だけ留学というマイノリティな道を選んだのも精神的にしんどかった。
 4年生の夏休みに留学に備えて下見がてら1ヶ月ほどイギリスのボーンマスに語学研修に行った。語学学校ではIELTS対策も兼ねており帰国してすぐにIELTSを受験する段取りでいざ修行に向かった。語学学校でも特に真新しい勉強はしていない。ただ単身で渡英したことは精神的に強くなったし、英語はやっぱただの道具だって再確認した。しかし、ここに思わぬ罠が潜んでいた。
 帰国して9月にIELTSを受験した。そう何回も受験できる受験料(¥24,150)でもないので一発勝負に賭けていた。IELTSは各4技能の点数の平均(overall)がもとになる。まぁ、間違いなくIELTS overall6.0は取れたからpre-sessional大学院準備コースには滑り込めるだろうという手応えはあった。結果としてIELTS 6.0は取れました。が!!!!!なんとspeakingの点数が5.0という始末!これって資料によるとTOEIC650点、英検では2級レベルみたいですね…
 さすがにこの点数はショックでした。もうIELTSを受験する体力はなかったので再受験せずになんとか大学院準備コースには滑り込めましたが自分が今まで避けてきたことを可視化した瞬間だった。きっと試験では文法ムチャクチャでマシンガンのように質問と無関係なこと話したのが原因だったのだろう。
 ここからスピーキングとの闘いが始まった。スピーキングはやっぱり話す相手とアウトプットが必要だ。今まではフィードバックで凹んでたけど、このフィードバックは全部肥やしになるって思い始め、この頃にはフィードバックに打たれ強くなっていた。この頃も特筆すべき勉強はしていない。とにかく英語で考える習慣は忘れずに過ごしたくらいである。後にこのフィードバックという分野が修士論文のテーマになるとは…

  • 4年生後半から卒業まで 
    • 大学院合格しても残る不安 の巻

 大学院の専攻は英語教授法なのだが、学部時代の私は英語教育学や言語学なんて全く興味なく、英文学、日本文学など文学畑にドップリで、ゼミはシェイクスピアなどの舞台芸術論を専攻した。だから英語に関しては大学院に行くための切符程度のスタンスで、卒業論文ハムレットについて英語で書き上げたが、それも院のためのトレーニングとしてやり切った。4年生の時は本当に図書館に引きこもって自学自習ばかりしていたが、飽きっぽい自分はシャドーイングとかそういうテクニックにこだわらず、ひたすら英英辞書をひきまくる作業を続けた。それが一番自分に合っていたから。


  • 英国大学院
  • 大学院準備コース 
    • 英英辞書+英語で書かれた英文法書 の巻

 課題をクリアすれば大学院に入学できるという大学院準備コースでは主にアカデミックに4技能を鍛えた。ディスカッションやプレゼンやライティングは授業で鍛えられたので、それを吸収すれば自ずと力がついていった。そこで力を注いだのがやはり苦手分野のスピーキングとライティングであった。特にライティング課題の添削されたフィードバックを自己分析して、自分に合う参考書で「なぜ間違ったか、どう間違ったか」を理解するようにした。この頃から英英辞書+英語で書かれた英文法書を手にすることになる。

  • 英国大学院にて 
    • how to learnからwhat to learn の巻

 何度も言っていることだが、海外で勉強するってことは「英語を」勉強する場所でなく、「英語で」勉強する場所なのだ。英語が生活の一部だったので変に意識して英語を勉強した記憶がない。ただ知らないことを英語で調べる、言いたいことを英語でリハーサルするってことを無意識で習慣付けていたと思う。言い換えると「how to learn」より「what to learn」への変化とも言える。つまり、ディクテーションなどのテクニックが先行するより、「自分に今何が足りないか分析」すれば自ずと「何をすべきか」は淘汰されて自分に合ったものが出てくるというもの。私にとってそれは「フィードバックからの気づき」と「英英辞書での練習」だったわけだ。

  • 大学院修了して 
    • 「ナントナク英語」からの脱却 の巻

 さて、この駄文を読んでくださった読者のかたはもう気づいているだろう。私は「受験英文法」を意識して英語を勉強したことがないのだ。リーディングもIELTS対策のスキミングとスキャニングの練習ばっかりしたから、英語構文なんて気にして読んだことない。私はテキトーな人間なので「tolerance of ambiguity(曖昧さに対する寛容性)」をもの凄く持ち合わせている学習者なのだ。だから今でも「英語なんてSVOと単語の組合せ」だと言い聞かせている。
 そんな自分も今度は英語を教える立場になる。きちんと体系的に教える知識と技術がないといけないと帰国してから焦っている。これからは英語の知識を商売道具にするわけだから大西先生の♡シリーズ、ミントン先生の日本人の英文法シリーズ、久野・高見先生の謎解き英文法シリーズに加えて、ロイヤル英文法などの文法書を計4万円相当をまとめ買いした。これも全部体系的に教えるため。
こうやって「英語学習歴」を振り返ると、本当に「なんとな〜く」英語を勉強してきたなぁと再認識した。というのも本気で英語に取り組み始めたのは大学3年生(20歳を過ぎてから英語を学ぼうと決めた)からなぁ。それでも全部無駄じゃないと信じてる。
 だって全ての歴史が今の自分を形成するために必要不可欠だったから。


  • まとめ

 [twitter:@anfieldroad2]さんと企画会議の時に盛り上がったのだが、英語学習歴を振り返って各々が「どういったことに重きを置いているのか」浮き彫りになったら楽しいねって話をした。
そう考えると、結局私にとっての英語学習歴は「〇〇勉強法」や「恩師との出会い」でもなく単なる「キッカケ」の履歴だった。
 具体的な勉強法は皆無の英語学習歴で、強いて一点挙げるなら「英英辞書を使って英語を英語で理解する」くらいで、これが本気で英語に取り組みようになった決意の表れだったのだと思う。


 英語学習は体力と精神力がいるなーと実感。 私の場合、ある出来事をキッカケに自分なりに考えて自分の方法(Learning Style)を模索して、ぶち当たった壁を乗り越えれるかどうか…ってこれってどの教科の学習にも通じるわな。
 だからどんな学習でも「遅かれ早かれ歩くことを止めない限り発達していく」と思うんだ。 実際IELTS speaking5.0は今でも負の勲章だけど「こんな自分でもできたんだぜ」って伝えたい。消去法で残った英語だけど、今はこいつが大好きだから今度は英語が嫌いな生徒に「英語もそこまで悪いやつじゃないでしょ?」ってことを伝えていきたい。