ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

130 40

 今日は連れ合いの誕生日。これで二人で合計130歳となった。昨年末で結婚後満40年となった。節目というのはどこにあるのか知らないが、子どもも二人とも30歳を超えるわけで、これでどうやら節目のひとつと思っても良いのではないかという気がする。
 私たちの世代ではごくごく当たり前だったように、わが家は私がある程度会社を生活の基盤とし、家の中のことはすべて連れ合いに委ねてきた。つまり連れ合いは専業主婦だった。といいながら、実家の仕事を手伝ったりしていたけれど、子育ての中ではそれも辞めて家庭に専念してきた。つまり私は家庭を顧みない夫だった。言い訳をする訳じゃないけれど、それが当たり前の会社生活であった。子どもの生活のために会社を休む、なんてことがあるような社会でなかったことは事実だけれど、それに紛れて好き勝手な生活をしてきたという面も否めない。
 その辺を今となったら責められてももう取り返しが付かないので、重罪を犯して刑務所に長いこと入って後悔したってそうは許されないというのと同じかも知れないが、娘はまだ許していないらしい。介護が必要になったら自分で勝手にどこかの施設に入れといっているが、その時点ではもう自分では探すなんて余裕はきっとないだろう。だから、そうなる前にいっちまわないと困ることになるんだろうなぁと思った夜だった。

暖かい月曜日

 先週の水曜日に医者にいったらそりゃもう待合室が一杯で、ようやく順番が回ってきたら血圧を測り(127-90)、採血をして終わりで、いつものコレステロールの薬と「咳が出て止まらない」用にツムラの「清肺湯」の処方箋を貰って帰った。
 ずっと咳が退治できなくてもう夜中に喉まで痛くて目が醒め、腹筋まで痛くなって参った。で、今朝また病院に行った。天気の良い月曜日だから朝一番で行くと、間違いなく待合室がワンワンしていそうだったから10時頃いったら、待合室にいるのはたった二人だ。えっ!どういうこと?一体何があったんだろう?
 で、先週持ってくるのを忘れた私のデーターファイルを受け付けに出しながら、「咳がやっぱり止まらないから先生に見て欲しい」といった。すると、看護婦さんが体温計を挟んで、ずっと向こうの椅子に座っていてくれという。目の前の椅子が空いているのに、だ。わけがわからない。そこへ、やっぱり私と同じようにマスクをしてひょろんと女性が受付前に立った。「熱が下がらないんです」といっているのは聞こえた。やっぱり体温計を渡されている。すると、看護婦さんが私にまた席を移れという。一体何だよ、と思ったのだけれど、ここでようやくわかった。
 私がマスクをして「咳が!」といったところで、彼女は私のインフルエンザを心配したのだ。しかし、熱が36.2℃しかないところに、その女性が来たので今度はあっちの方が遙かにインフルエンザ疑惑が高いから、私は免除されて、彼女が一番離れたところに誘導されたということだ。
 で、先生に名前を呼ばれて入り、「先週薬を貰ったのだけれど、咳が全然止まらない」と訴える。自動的に血圧を測る(127-88)。医者は肺炎をまず心配したらしく先週の検査の時に撮ったはずの胸の写真をコンピューター中のファイルから探す。ない。「えっ!?」といっている。そりゃそうだ、先週の検査の時に胸の写真と心電図はやっていないからだ。
 「先生、先週は写真撮ってませんよ」「えっ!そうかい?」つまりその両方をやるのを先生も看護婦さんも忘れていたということだ。私はやらないのは理解していたのだけれど、それで良いのかと思っていた。で、結局胸の写真を撮影してみたが肺炎を起こしている心配もないし、聴診器の内診でも雑音はないということだった。
 「ちょっとのどをみせてごらん」てんで口を開ける。「エ〜ッといって!」「エ〜〜」「うわ、凄い腫れだなぁ〜!」
 実は私は昔から扁桃腺肥大症といわれている。それにしてもといって医者は驚いている。そうそう、昨日から喉が貼り付くような痛みがあるといったら「貼り付いている」といわれた。
 先生慌てて注射をおうちになる。処方箋を貰って調剤薬局に持って行くと、5種類の薬が出ていた。デパ地下に鮨を買いに行った。

憲法の改変

 ご承知のように自民党日本国憲法を改変しようと提案していて、その条文を発表している。何しろ前文を全部書き換えて、天皇を日本の「象徴」という立場から「元首」に変えようという発想から大幅に憲法を変えてしまおうというスタンスに立っている。ひとつひとつに論評をしていきたいけれど、取りあえず現憲法第9章第96条、自民党提案第10章、第100条について考えた。

現行憲法
第96条
 この憲法の改正は各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票または国会の定める選挙の際行われる投票において、その過半数の賛成を必要とする。

自民党
第100条
 改正は、衆議院又は参議院の議員の発議により、両議院のそれぞれの総議員の過半数の賛成で国会が議決し、国民に提案してその承認を得なければならない。この承認には、法律の定めるところにより行われる国民の投票において有効投票の過半数の賛成を必要とする。

 まずこの憲法が何を規定しようとしているのか、ということが重要なのだけれど、これは国民の行動を規定しようとしてるものではないことを明確にしておかなくてはならない。これは国民に対して日本国政府が何をしなくてはいけないか、何をしてはいけないか、そしてそれはどんな思想に基づいているのかということを規定している。
 だから、この憲法をそう無闇矢鱈に改変してはならないのだということを肝に銘じておかなくてはならない。私たちはこの憲法を手に入れるために靖国に祀られている人たちを初め、祀られてはいないけれど、その背景で多大な犠牲を払うことになってしまった多くの国民、および当時は国民とされていた人たちの命という代償を払って手に入れたものだということを忘れてはいけないという点については自民党諸君も同意することだろう。
 そして、この憲法を改変するに当たってのまず第一の関門を低く設定し直すと何が起きるのかというと、時の権力となったグループもしくは個人の思惑のままに憲法を彼らにとって得となるかたちにどんどん変更することができる危険性が増すということだという点を大きく自らの胸に抱えておかなくてはならない。
そんなことが起きるわけがないという反論が簡単に飛んできそうだ。三分の二を半分に置き換えると、今度はその半分を四半分に置き換えようという動きに必ずや繋がる危険性が起きる。
 いや、逆のことも起きることが考えられるという点も認識しておかなくてはならない。それはどういうことかというと、「反自民的」な考えに立った集団にこの国の政府が乗っ取られないとも限らないということだ。他国の例を見ても良くわかる。
 つい最近でもエジプトの首相が自分の権力の拡大のために憲法をいじろうとしている。
 ビルマの軍事政権は正に憲法を変えてしまって、国会のメンバーには軍からの一定数の議員を確保しなくてはならないとしてしまった。
 権力は自らの保身のために往々にして憲法を変えようと動く。
 今の自民党がやろうとしていることは正にここに該当する。
 人間が作ったものだから、時代の流れとともにそれに対応して変化していくことがなぜいけないのか、ということになるだろうが、それであればわれわれはこの日本国憲法ができてからこの方、政府の暴走(戦争へひた走ること)を許すことがなかったという点でこの憲法はその前に私たちが政府に対して持っていた大日本国憲法に比べると数段その結果として優っていたことがわかる。
 権力を持ったものが「憲法を変える」といった時、それは国民を縛る方向に動くことは間違いがなく、それは憲法というものを誤ってみているということだ。

2013年03月31日のツイート