『ゼロ年代の想像力』を読んだ僕たちにできること、あるいはできないこと


遅ればせながらSFマガジン7月号に掲載された宇野常寛の『ゼロ年代の想像力』を読んだ。第1回ということであまり詳しい内容ではなかったけれど、この連載は「いつまでも東浩紀や、彼に影響を受けた言説に支配されているようではどうしようもない。もっと多様性に富んだ批評がなければ、ゼロ年代以降の想像力が衰弱してしまう」ということを主張したいのだろう、つまりそれが宇野常寛の危惧していることなんだろうと考えている。俺はこれを正しいと思っていて、つまりは新しい作品群にもっと光を当てなければ新しい想像力が認められないまま、それこそ失われてしまうのではないかとは感じる。

だからこそ、彼はあえて挑発的な言葉を使ってこちら側に語りかけてきているんだろう。宇野常寛は、読者が動くことを期待している。ムーヴ、ムーヴ、ムーヴ。もちろん『ゼロ年代の想像力』をそのまま肯定しても構わないのだろうけれど、彼の意図としては、この疑問の投げかけによって、あらゆるところで建設的な議論が巻き起こることを期待しているんじゃないだろうか。例の、決断主義やサヴァイヴ感うんぬんは抜きにしても。読んでいて、そんなことを思った。

個人的に気になっているのは、宇野常寛東浩紀が言及する作品群を90年代の想像力と称し、それを耐用年数がすぎて腐臭を放っていると評していたことだ。そして、宇野は『ゼロ年代の想像力』を「批評ではない」としているが、ならばこれは一体何だろうと考えたときにいちばん近いのはアジテーションではないかと思う。そう捉えたとき、『ゼロ年代の想像力』の構図はThe Sex Pistolsを脱退したジョン・ライドン(akaジョニー・ロットン)が「ロックは死んだ」とうそぶいたその瞬間に少しばかり似ている。

当時、ジョン・ライドンのその発言に対してニール・ヤングは"Hey Hey, My My"という曲を作り、「Rock n' roll can never die / ロックンロールは決して死なない」と歌うことで、ジョン・ライドンアジテーションに回答した。つまり、ニール・ヤングは人々を熱狂させるロックンロールを生み出し、それをもって「ロックは死んだ」という発言に反論をしたのだ。

ここで俺自身の宇野常寛と『ゼロ年代の想像力』に対するステイトメントを明確にしておく必要があるだろう。俺は、"ゼロ年代の想像力"に正しいスポットライトを当てたいと願う宇野は支持している。しかし、そのやり方は気に入らないし受け入れることができない。なぜなら、彼は90年代の想像力をゼロ年代の想像力と切断してしまっているからだ。俺は彼と違って、ゼロ年代の想像力は90年代の想像力と地続きの関係にあると考えている。

宇野に反対の立場をとる場合、やらなければならないことは、宇野を批評したり拒絶したりすることではない。批評の対象はあくまで"ゼロ年代の想像力を抱えた作品群"にするべきだ。そうでなければ、ニール・ヤングに倣って"ゼロ年代の想像力"に満ちた作品を宇野常寛とは異なる視点で創ることで、彼と議論するというスタイルになるだろう。

だとすれば俺は後者を採りたい。90年代の想像力と地続きなゼロ年代の物語を編み上げて彼に回答をしたい。もちろんその過程で、手法が前者になってしまうかもしれないけれど(俺のいつものやり方)、それでも構わないと思っている。いずれにせよ、宇野の言葉だけでは、その過程で失われてしまうものが多くなるだろうと俺は推測しているのだ。

ゼロ年代の想像力』では90年代の想像力としてセカイ系を、セカイ系の代表格として『エヴァンゲリオン』を引いているが、第1回だということを差し引いてもエヴァ以外への言及というのがほとんど見られないことが気になる(『最終兵器彼女』と『ほしのこえ』は名前だけ挙がっているが、具体的な宇野の言及はない)。そして90年代の想像力すべてをセカイ系というひと言に集約してしまっているのだが、これではあまりにも省略をしすぎではないだろうか?

ここで言う90年代の想像力とは、額面どおりの意味ではない。そこには当然、『AIR』や『EVER17』といった作品も含まれる。大雑把を承知で言うが、村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』以降の、その影響下にある作品群だと思ってもらってもいいだろう。

ゼロ年代の想像力』は、90年代の想像力をセカイ系として一蹴し退場させようとしているが、そのやり方はあまりにも粗いものだ。90年代の想像力とは、何もセカイ系に限ったものではない。これは俺の実体験に基づいたものになってしまうが、失われた10年の想像力は、そこまで貧弱ではなかった。宇野常寛は、冒頭で村上春樹を引用しているにも関わらず、そのことについてあまりに無頓着だ。

繰り返しになるが、俺はゼロ年代の想像力に正しく評価を与えようとしている宇野常寛は支持したい。しかし、その方法論にはぜんぜんまったく納得していない。だから俺は、いずれ俺のやり方でゼロ年代の想像力を語りたいと思う。これはそのステイトメントに他ならない。

最後の締めに移ろうと思う。

このエントリで引用したニール・ヤングの"Hey Hey, My My"にはもうひとつ、あまりにも有名な一節がある。「It's better to burn out than it is to rust / 錆びてしまうより燃え尽きたい」。このラインは、かのカート・コバーンの遺書に引用されている。「ロックは死なない」と歌ったニール・ヤングの言葉を引用しながら、"失われた10年"に失われてしまったカート・コバーンの命。また、これも有名なことだが、Nirvanaの『Nevermind』はジョン・ライドンがメンバーだったThe Sex Pistolsの『Never Mind The Bollocks』からの引用だ。

時代はそのようにして連綿と続いていく。想像力というものは、本来そのようにして受け継がれていくべきだろう。だから、どこかで途絶えさせてしまうべきではないのだ。90年代を真の意味での"失われた10年"にしないためにも。