著作権関係の本

http://d.hatena.ne.jp/okeydokey/20051230/1135940199で紹介した

ライブ・エンタテインメントの著作権 (エンタテインメントと著作権―初歩から実践まで 1)

ライブ・エンタテインメントの著作権 (エンタテインメントと著作権―初歩から実践まで 1)

が、発売になりました。興味ある方はぜひ。
http://page.freett.com/okeydokey/books/copyright.html

宗教者の発言と著作権

法王の言葉にも著作権…3―5%の印税徴収 商品化と批判も
 これまで自由に引用されてきたローマ法王の言葉や文章の著作権をはっきりさせ、印刷した本などに印税をかけるという法王庁の新方針が25日までのイタリアの報道で明らかになった。
 25日はベネディクト十六世が就任後初の信者向け書簡(回勅)を発表する日で、この内容も対象。バチカン周辺からは「法王の言葉の商品化」(ANSA通信)、「聖職者と金を連想させる悪い効果しか与えない」(作家メッソーリ氏)との批判や、「布教に協力してきたのに今さら…」と負担増を嘆く出版社の声が聞こえる。
 著作権の対象は、回勅、サンピエトロ広場での毎週日曜の祝福など法王の言葉と著作。印税額は本の価格の3―5%で、バチカン出版局が一元管理する。
 前法王ヨハネ・パウロ二世は自伝など数多くの本を出したが、法王に「収入」は認められていないため、出版社が寄付の形で金銭を渡していた。寄付の使途は、修道院の維持や教会の修復など、その都度決められ、著作権についての議論もこれまではなかったという。(共同)
(01/25 10:11)
http://www.sankei.co.jp/news/060125/kok030.htm

この記事を読んで究極の反論 - 企業法務戦士の雑感が思い浮かんだ。
ここんとこざーっとチェックすることしかできていないのだが、せっかっくの機会なので周辺を読み返してみた。
上記記事は

H17.12.26 東京地裁 平成17(ワ)11855 著作権 民事訴訟事件
http://courtdomino2.courts.go.jp/chizai.nsf/c617a99bb925a29449256795007fb7d1/625e13beec378e3d492570e400204dd9?OpenDocument

に関するものである。

被告側曰く、

「Bの講演記録は,世界の宝であり,一宗教法人が独断で封印すべきものではない。」

ということだが、
これが、「著作権は文化の発展に寄与するのか?」という
古くて新しい争点を踏まえてなされた主張なのだとしたら、
相当に奥深い問題提起であるといえよう。


残念ながら、裁判所は被告のこの主張に対し、
何ら応答することなく結論を導いている。
だが、そもそも宗教活動における“布教活動”の実質は、
“教祖”の講話の内容や執筆成果を世に広めていくことにあると考えられるから、
そこに「著作権」という網をかけることは、
そもそもの宗教活動の本質と矛盾するのではないか、
という問題意識は、どこかにあっても良いのではないかと思う*8。


*8 もし、被告が原告団体の一会員で、純粋に“創始者の教えを広める”目的で当該販売行為を行っていたのだとすれば、「黙示の許諾」等の構成で反論することも、一応は可能だったのではないかと思う。
(※引用文中の注の一部は省略させていただきました。)

法王の口から語られる神のことばに対して、法王庁がコントロールすることが許されるのか?
という宗教的な疑問も残りますが、そういうことを考慮しなければ、講演として著作物性は認められるでしょう。
その上で、宗教的講演について、広く利用を認めるべき、という価値観に立つとすれば、
確かに、上記判例事案については、*8のように、黙示の同意ということでクリアしえますが、
広く今回のバチカンの措置のようなことを考えると、少なくとも今後のベネディクト十六世の言葉については、
明示の不同意があるので、コントロール権が及んでしまう、ということになるでしょう。
まさに、

「真理の道」も金次第
 ローマ教皇庁が、ローマ教皇の言葉や著作について印税をかける方針を採用したとのニュースが世界中で話題になっています(産経新聞、TimesOnLine)。
 そんなときこそ、「世界の宝」の抗弁の出番かもしれません。
http://benli.cocolog-nifty.com/benli/2006/01/post_d828.html

とあるように、まさに著作権の本質論ともいえそうです。


ただ、宗教の世界で変に著作権を主張してしまうことは、その宗教の教義から許されるのか、ということにもなりますし、
(例えば財産権を認めない宗教で著作権を主張するのは、自己矛盾で、その宗教はデタラメということになる。)
そのような場合には権利濫用であるとか、(拡張的)fairuseであるとかいう考え方もできるのではないかと。
もっとも、そのような場合裁判所が教義に立ち入って司法審査できるのか、ということも問題となるわけで。
結局のところ、今回の件で言えば、法王に収入が認められていないことがどう意味なのかについて、
法王の言葉に著作権が発生すると考えるのは宗教的にどうなのか、ということは、個別にやってね、ということになるのではないかと。


俗世界で勝手に宗教的事項は「世界の宝」だから本質的に著作権の対象とならない、という考え方もありえますが、
では、「宗教」とは何か、ということになってしまい、結局は教義が「世界の宝」かどうか、ということになるでしょう。
筆者の価値観では、宗教といわれるものに、著作権がでてくることは不可解でなりませんが、
宗教というものは、外部からはよくわからない部分も多く、結局は教義との関係でどうなるのか、ということにつきるように思います。
本件で言えば、ベネディクト十六世が著作権があるといえば、それまでで、
ただ、そのことでベネディクト十六世の宗教的正当性がもしかしたら危うくなるかもしれませんが、それも宗教の問題。
ヨハネパウロ二世の著作権については、黙示の意志論でなんとかなるかもしれませんが、
そもそも財産権がどのように承継されているのか、ということも問題になるまもしれません。
後者については結局はバチカンの法で、バチカンに帰属していることにされてしまうのかもしれませんが…。