飛翔

日々の随想です

『昔日の客』を読んで

昔日の客
関口 良雄
夏葉社

『昔日の客』は東京大森の古本屋の店主関口良雄氏による遺稿集の復刻版である。
多くの小説家(尾崎士郎尾崎一雄上林暁野呂邦暢など)や文人たちに愛されたこの古本屋「山王書房」。
店主の関口氏の古本への愛情や作家たちとの交流はなみなみならぬものがある。
本が好きとは言え、自前で『上林暁文学書目』『尾崎一雄文学書目』を作るのだから本好きも年季が入っている。

 時代が変わってしまった。と言ってしまえばそれまでである。
 大正生まれのこの店主が店を出していた頃と今では比べようもない。それは出版業界の変化もあれば、現代人の価値観の変動というものもある。インターネットの普及もある。

 しかし、確かにいえることはこの著者が遺稿集の中で言っているように

古い本には、作者の命と共に、その本の生まれた時代の感情といったものがこもっているように思われる。人の手から人の手へ、古本の運命も生きている人間同様、数奇の運命を宿している。 
私は棚から志賀直哉著『夜の光』を抜いてきた。この「夜の光」の見返しには、達筆のペン書きでこう書いてある。
 『何故私はこの本を売ったのだろう。キリストを大衆の前に売りつけたユダの心にも勝って醜いことだと私は思った。私は醜い事をしてしまった。再び買ひ取った私の心は幾分か心易い感じがしたけれど、やはり過去の気弱であった自分をあはれ者と意識せずにはおかなかった。僅かばかりの欲望にかられた私は春雨のそぼ降る四月の或る朝、古本屋に十五銭でこの本を売りつけたのだった。今更の様に哀愁がわく』
この章は作家の沢木耕太郎も愛した文である。
古本と前の持ち主の本への愛惜の情をこれほど物語っているものはない。
愛してやまなかった本とそれを手放さねばならなかった者の気持ち。
これらは古本を愛するものにいつでも錯綜する気持ちだ。

 著者は古本を売る店主としてその売り手の愛惜の情を最もよく知っていた人に違いない。そして貧しい買い手の情もである。
 だからかつて野呂邦暢が郷里に帰る日、旅費と支払うべき部屋代を考えると本代が千円しかなかった。しかし欲しい本『ブルデルの彫刻集』は千五百円である。そんな事情を知った関口氏は「千円で結構です」と言ったという。

 貧しい青年であった野呂はその後芥川賞を取った。この店主との思い出を終生忘れなかった野呂邦暢が授賞式にこの店主を招待する章はこの遺稿集の最後から二つ目を飾り、最も印象的な場面でありこの「山王書房」が客にとってどんな存在であり、店主がどんな人物であったかを深い感動を持って知ることができる。

 古本屋はあまたあるが、このように本を愛し作家を敬愛し、客を思い、人との交流をあたたかく、時に茶目っ気たっぷりに生きてきた飄逸な人生を私は知らない。
そんな古本屋人生を滋味あふれる達意な文で書かれた遺稿集を読むことが出来たことは望外な喜びである。
23年ぶりにこれを復刻した夏葉社の心意気に乾杯である。 
 本を愛する滋味にあふれた名著を多くの人と分かち合いたいものである。