坂口安吾と

 前々回、黒眼鏡の作家が登場しましたが、野坂昭如先生のことです。代表的な著書の題名をそれとなく(でもないか)あげておいたので、すぐおわかりでしたでしょう。パソコンでインターネットをたのしんでる方は(無意味なことをいってますね。これをみてくださっている方は、インターネットしてるんだから)、野坂先生のホームページもおもしろいですよ。このところ、体調がいまひとつとおききしてますが、早くお元気になられて、またシャツつくってください。
 1970年前後に、坂口安吾のブームがあった(んじゃなかったかな)。冬樹社という出版社から「定本坂口安吾全集」」が刊行されはじめたとき、高校の先輩(彼の家は池田書店という出版社で、当時、謝国権というひとの「性生活の知恵」というハウツーものが大当たりしていた)に、購読しようかどうしようか相談したことがある。安吾の全集は今後出そうもないから買っといたら、といわれたが、よく考えたら安吾は1作も読んでいなくて、13巻もある本を背負いこむのは冒険におもえた。みなさんは、全集なんか買うとき、どうされていますか。ぼくは、まず、第1回配本はとびついて買っちゃいます。それから、たとえば井伏鱒二全集なんかだと、うーん、あと29冊、毎月毎月出るのかぁ、とちょっと溜息をついて、やめるならいまのうちだぞ、と自分にいいきかせます。そういうときは、やたらにほしい本が出るんですよね。ちぎっては投げ、ちぎっては投げしていると、すぐ翌月になって、また全集のつぎの巻が刊行されます。1巻だけで終わるのはしのびないので、2巻目も買います。すると、やおらよその出版社から、これもまえから出ればいいなとおもっていた作家の全集が出はじめたりします。なんでこんなときに、と唇をかみますが、血が出るだけでなんの解決にもなりません。友人の本棚に、どれも全集の第1回配本分(といっても、第1巻にかぎらない。第4巻から出る場合もあるし、その作家のめぼしい作品を収録した巻から配本されることが多いようです)の本がずらりと並んでいるのをみたとき、なんだか見本をあつめているようで、目が点になりました。
 それから何年かして、たしかおなじ冬樹社から「坂口安吾評論全集」が刊行されている。編者は野坂先生で、「時代にヤキを入れろ」というキャッチコピーがつけられて、安吾が見直されるきっかけになったようにおもう。もうぼくも、古い筑摩の日本文学全集かなんかに収められた安吾の作品を読んでいたはずで、どうせなら買いそこねた定本全集がほしかったけど、古本屋でも相当の値段がついていた。全作品かエッセンスか。うーん、迷うでしょ、こういうのって。ぼくの世代は、「見たあとも跳ばない」ことが多いんじゃあるまいか。
四谷三栄町の路地の奥の坂口家に、はじめておうかがいしたのは、1977年秋のことです。
 玄関わきの本棚に、例の「定本坂口安吾全集」がでーんと飾られているのをみて、ほんとにぼくは目をまるくした。それをしげしげと眺めていたら、いつのまにか、黒のタートルセーターに黒のスラックス姿で、片手をつっかえ棒のように柱につき、反対の手はかるくまげて指のあいだに吸いかけのタバコをはさんだ格好で、少女が挑むような眼差しで安吾の未亡人が立っていた。カメラにポーズをとっているようにもみえたが、身についたスタイルなんでしょうね。すそが外側にカールしたショートカットの髪型は、きっと安吾の生前からかわっていないのでしょう。いや、おそらく、この方のなかでは、安吾は生き続けているにちがいない。そうおもわせるものがありました。石川淳先生の犬がきまっていつも吠えたように、坂口三千代様は、いつでもこうして玄関にあらわれた。それは、銀座の店に寄られたり、バー・クラクラでみせる表情とはずいぶんちがって見えた。ぼくは、いつも、ぼんやりしてしてることがおおい。それでも、こういう光景は、けっして忘れない。機会があったら、安吾の作品をどれでもひとつ、読んでみてください。ぼく的には、「桜の森の満開の下」という短編がおすすめです。