ヲタ芸再考:補足

1.ヲタ芸の発生 の補足
さて、まずは上記のエントリの補足をしなければいけない。タイムリーな話題とは言え、こんなりブクマがつくとは思わなかった。ここまでヲタと関係のない外部の方が読むとなると、もっと厳密に言葉を選ばなければいけないし、慎重に語る必要がある。
さてまず上記のエントリはだいぶはしょって語っている。まず、前田有紀ヲタ芸の起源だと言う気はないのでそこは誤解のないよう。あくまでヲタ芸発生の要因の象徴的事例として挙げたということです。
トラックバックもいただいて、極めてもっともな批判をいただいています。ハロープロジェクトの合同コンサートにおける前田有紀の曲でヲタ芸を打つことがなぜ「最悪の応対ではない」のか。これ、実際にハロヲタとして共通体験をしている人にとってはおそらくある程度理解してもらえることだと思っている。ところが外部の視点から見ると、圧倒的に納得がいかないことになりそうである。
まずおそらく会場にいる99%の人間は、前田有紀のファンではない。そして、なぜだか知らないけどアイドル集団の中に含みこまれている演歌歌手の前田有紀にヲタは戸惑う。ヲタは前田有紀のファンなんて会場にいないだろうという前提で曲を聞き始めている。我々に一体どうせよというのか、という感覚。もちろん多くのヲタは大人しくしている。だけど、その中でせっかくだから盛り上がろうとヲタ芸をするヲタが現れた。2003年の前田の曲「東京きりぎりす」におけるヲタ芸の職人技は尋常でない(動画サイトでいくらでも視聴可能)。
で、はっきり言って、これは結局、やっぱり、侮辱である。侮辱であることを、多分ヲタ芸をしている人は否定しないだろう。重要なことは、アイドルを取り巻く空間において、無関心よりは侮辱のほうがよっぽどましだということだ(そもそも前田有紀がアイドルかどうかというのも問題だが、我々としてはアイドルと同じライブ空間にいる以上そう扱うより他ないのである)。
改めて言うが、確かにヲタ芸はろくでもないものである。そんなことは分かっている。ただ、ヲタ芸は積極的に肯定できるようなものではないにせよ、それなりの理由をもって生まれた。それをアイドルヲタの視点からしっかり追っていきたい気はしている。(書くと長くなるけど、対アイドル関係というのは「肯定性」と「否定性」のないまぜなところに生じている。この認識がないと、ヲタ芸が十把一絡げに絶対悪という議論になりそうで、僕はちょっとつまらないと思うのだ)
一方アイドルヲタではない外部視点からは、ヲタ芸は「どうしようもないもの」という評価が多分正しい。
けれど、まあ話を続けたいと思います。



もう一つ今の段階での印象。
僕なりに一生懸命書いたけれども、多分多くの人が、上記のエントリ内での「前田有紀を侮辱してヲタ芸をする」ことと、「ヲタがダブルユーの曲でロビーに出ること」の倫理的差異が理解できないのではないかと思う。で、一方僕は前者には寛容になれて、後者には決定的な嫌悪を抱くのだが、この僕の立場は極めて恣意的なように思われると思う。僕もこの差異をうまく説明できない。ただこれは先日のエントリで語った「場のルール」ということと関係しているように思う。確かに僕には、前者は「場のルール」としてOKで、後者はダメだという確信があるのだ。だがそれが一体どこから来るのか、全く言語化できないもどかしさを感じている。

ヲタ芸再考

前回のエントリを引き継いで、ヲタ芸について考える。過去2年くらいで書いてきたこともふまえて。
ちょっと仕事まで時間がないから途中まで書きます。

1.ヲタ芸の発生
ヲタ芸は広義のものとしてはPPPHも含むとは思うが、批判の対象になるヲタ芸はOAD・ロマンス・マワリ・MIX等になってくると思う。それらが一体どのように発生したのか。おそらく(2000〜2003あたりの)ハロ紺の存在が大きかったのだと考える。
OAD・ロマンス・マワリを現在の形態に完成させた・普及させたのはハロヲタだろうと思う。言うまでもなく、これらのヲタ芸はステージの演者を見ない志向性がある。ヲタ芸をする者はそれに自覚的である。では、なぜわざわざコンサートに来てヲタ芸をするのか、それは不毛ではないのか。そうではない。なぜなら、ハロ紺(ハロープロジェクト総出演のライブ)では、特に好きでもないメンバーが多数出演するため、正直言えばステージを見る気がしない時間というのが存在するからだ。
こうした話題の時に過去必ず例に挙げているのが演歌歌手の前田有紀である。前田有紀ハロープロジェクトのコンサートに、我々からは不可解な事情で毎年出演している演歌歌手である。別にアイドル性のある歌手でもなく、普通に演歌を歌っている。ヲタは、それを見に行くわけではない。でも、必ずライブ中に彼女の曲があるのだ。ここで、ヲタはそれに対して無視を決め込むことも出来たはずだった。ただ、せっかくライブに来ているヲタはそこで類稀な創造性を発揮し、演歌調の曲に合わせて体を動かし、それさえも盛り上げてしまう術を考えた、それがヲタ芸だった。これは、演者に対しての侮辱だっただろうか?少なくとも最悪の応対ではなかった。可能性としては、その演歌に対して無視することもできたし、その時間をトイレタイムにすることもできた。それは演者の存在価値を認めないことだ。負の例として、ダブルユーBerryz工房が合同で行ったコンサートで、初期のベリヲタダブルユーの曲になった途端に、前の方にいたヲタさえロビーにはけて曲を鑑賞しなかったという事例を挙げることができる。これは演者にとって(僕の印象ではヲタ芸よりもはるかに)*1侮辱的な行為*2だった。初期のベリヲタにはこうした排他性によってベリへの信仰を証明し強化していく志向性のあるヲタが一定数いた。それに比べれば、前田有紀に対してヲタ芸を炸裂させたヲタは彼女の存在をしっかりと認め、彼女をライブの中にしっかりと定位させてあげたのだ。そこには自分が楽しむためになんでも盛り上げてしまおうというエゴイズムだけでなく、自分が関心がないものでも最低限その存在を認めてあげようとする愛情もかけらくらいはあったように思うのだ。
以上のように、初期のヲタ芸の発生要因としては、特に好きではない演者が出てきた時に、ライブを盛り下げずにテンションを保つ方法として編み出されたということと共に、演者の存在価値を最低限認めるものだった。だからヲタ芸にはもともと、見たくない演者の時にやる、という、「見ない」という志向性が始めから含まれている。これは僕が4年前に書いた卒論のためのインタビューでもはっきりしていた。自分の推しが近くにいる時にヲタ芸をするヲタはいなかったのだ。
だから、「ヲタ芸を打ちにライブに行く」ということは始めは考えられることではなかった。あくまで推しではない演者のところでするものだった。今回の榊原ゆいの例のように、初めからヲタ芸を打ちに行くヲタが増えていると考えられるような事例というのは、ヲタ芸から内実が失われ、形式だけが広まってしまったことを如実に示しているのだと思う。

続く

*1:カッコ内は夜の更新で追加した部分です

*2:ここで侮辱という言葉を使うのは語弊があった。ロビーに出た時点で対アイドル関係は断ち切られている。そこでの「関係性を完全に断ち切る侮辱」と、「あくまでライブ空間内での対アイドル関係としての侮辱」(ヲタ芸)というのは決定的な差異があると僕は思っている