忘却の9.11

9.11から5年、あるいは33年が経った。2001年9月11日のニューヨーク――ハイジャックされた旅客機が米国の中枢を攻撃し、2973名が死亡した。米国は、報復措置としてアフガニスタンイラクに戦争を仕掛け、2006年9月3日現在までに9.11の死者数を超える2974人以上の米国人が戦死している(暗いニュースリンク)。

1973年9月11日、チリのサンティアゴ――米国の支援を受けたピノチェト将軍が、選挙によって誕生した初の社会主義政権であるアジェンデ政権をクーデターによって転覆した。以後17年間にわたる軍事独裁政権のもとで犠牲になった人々は、死者と行方不明者、拷問による被害者、現在なお精神治療を必要とする人々を合わせ、100万人をはるかに超える(チリ厚生省調べ)。2つの9.11は、どちらも同じ火曜日だった。


ラテンアメリカの人々が記憶に刻む「もうひとつの9.11」に関しては、東京大学の山崎カヲルさんや、P-nave infoの文章、あるいは益岡賢さんによる翻訳文をぜひ読んで、知っていただきたいと思う。9.11が米国の悲劇としての占有物ではないことを。

・・・チェチェンの話をしよう。ロシアのプーチン大統領は、就任直前のインタビューで「自分が目指すのはチリのピノチェト政権のようなスタイル」というような発言をしている。

ピノチェト時代のチリは「市場経済強制収容所政策とが分かちがたく結びついている」ことで有名な国だった。「テロ防止」の名のもとに、すさまじい数の市民や芸術家、ジャーナリストが処刑され、強制収容所に送られた。開発独裁といわれた経済発展の「成功」は、その裏側で極度の貧困を生み出すことになる。チリの全人口に占める貧困層の割合は、ピノチェトが権力を握る前の1970年には20%だったが、ピノチェトが米国に捨てられる形で政権を去った1990年には倍の40%になっていた。

ピノチェトへの崇拝を表明したプーチン大統領は、今から考えればひどく正直だったと思う。プーチン政権の推進してきた「テロとの戦い」や経済政策からは、人権という概念は見事に忘れ去られている。

2001年9月11日――それは貧困という暴力によって世界で2万8800人の子どもが殺された日でもある。2万8800人という数は正確なものではない。「ほっとけない 世界のまずしさ」というサイトに、「3秒にひとり、貧困のために子どもが命を落としています」とあったので、それを1日分に計算し直してみただけの数字である。だから百以下の数についてはわからない。もしかすると、千単位の数さえ、違うのかもしれない。

死んでなお、数値としてさえ扱われない子どもたちの命。それは人間の尊厳に対する喩えようもない冒涜だ。けれど、この件に関して各国の指導者たちは沈黙を保っていた。というより、そもそも子どもたちの死がひとつの事件としてメディアに取り上げられることはなかった。もちろん、彼らの死に対する責任追及や、報復、あるいは追悼が行われることもなかった。

9.11を米国の悲劇としての占有物と捉え、もうひとつ、あるいはそれ以上の9.11を忘れてしまう(あるいは知ろうとしない)のは、もうやめよう。モスクワやベスランの事件をロシアの悲劇としてのみ思い起こすのも、もうやめよう。そうしなければ、日本にいる私たちとチェチェン、そして世界の人々とをつなぐ、想像力という細い道さえ失われてしまうから。