2018/04/22 久地散歩 02 堰の渡し/東名高速道路多摩川橋/東名堰公園/オペラシアターこんにゃく座/新明国上教会

一度多摩川に出る。
その後は南側を流れる二ケ領用水まで歩く。



◆堰の渡し




 堰と対岸の喜多見を結び、1907(明治40)年ごろ始まった。作場渡しのほか、近在の往来や東京への出荷、肥ひきに利用された。1935(昭和10)年に廃止。




東名高速道路多摩川橋

ごついね・・・(w




◆東名堰公園

東名高速の高架下がかなり大きな公園になっていた。




オペラシアターこんにゃく座

なんかの工場なのかと思っていたが、オペラなど上演しているみたいだね。
公式のHPがあった。
http://www.konnyakuza.com/




◆不動第一踏切











◆新明国上教会



お寺でもないみたいだし・・・・。
どんな宗教なのかがよくわかりません。



ちょうど「こども縁日」をやっていた。



続く。

2018/04/22 久地散歩 03 稲荷橋/稲荷神社/中宿地蔵尊/徒然草百十五段石碑/尋常第三稲田小学校建立の地/上宿地蔵尊

二ケ領用水沿いに宿河原駅方面に歩く。
ちょっと行ったり来たりしちゃった・・・・。





◆稲荷橋






◆稲荷神社



境内社




なんだろう?






◆中宿地蔵尊








徒然草百十五段石碑




 宿河原といふ所にて、ぼろぼろ多く集まりて、九品の念仏を申しけるに、外より入り来たるぼろぼろの、「もしこの御中に、いろをし房と申すぼろやおはします」と尋ねければ、その中より、「いろをし、ここに候ふ。かくのたまふは、誰そ」と答ふれば、「しら梵字と申す者なり。己れが師、なにがしと申しし人、東国にて、いろをしと申すぼろに殺されけりと承りしかば、その人に逢ひ奉りて、恨み申さばやと思ひて、尋ね申すなり」と言ふ。いろをし、「ゆゆしくも尋ねおはしたり。さる事侍りき。こゝにて対面し奉らば、道場を汚し侍るべし。前の河原へ参りあはん。あなかしこ、わきざしたち、いづ方をもみつぎ給ふな。あまたのわづらひにならば、仏事の妨げに侍るべし」と言ひ定めて、二人、河原へ出であひて、心行くばかりに貫き合ひて、共に死ににけり。




 この石碑に刻まれている物語は、我が国古典の代表的な随筆作品といわれる『徒然草』の第百十五段である。「宿河原といふ所にて…」という書き出しではじまるこの物語では、ぼろぼろと称される遁世者が、自分の師の敵討ちをする話である。さて冒頭の「宿河原」の地名であるが、一説では川崎市多摩区宿河原の地とされる。中世において「宿」は河川の渡河地点など交通の要衝地に発生し、市が開かれ人々が集住するなど都市的な景観を呈していた。さらに「宿」は宗教者たちが道場や寺院を建て、教線を拡大する拠点でもあった。この話の中でも、ぼろぼろが集まって極楽往生のために念仏を唱えている様子が語られている。
 さてここ宿河原には、現在は下綱会館となっている地に阿弥陀堂があったといわれる。また元は長尾山の中腹にあったものを移築したとも伝えられている。そして会館には、阿弥陀如来像が安置され念仏供養が行なわれている。
 この石碑は、宿河原の地名を記したと考えられる最古の書物である『徒然草』の物語を刻み、また古くからあった念仏供養の姿を後世に伝えるため、宿河原町会によって建立された。土地の歴史の一つとして、末来にわたって伝えられていくことを願う次第である。




◆尋常第三稲田小学校建立の地




 明治25年、宿河原学校は尋常第三稲田稲田小学校と改称され、同年小学校修業年限1年生の小学校として発足した。当時生徒数97名で長福寺内の教室では手狭となり、翌明治26年4月7日、この碑の東側宿河原6丁目12、25番地小川氏邸内移転した。敷地は353平方米(107坪)、2階建木造校舎延132平方米(10坪)であった。初代校長には大伴次郎氏で当時この学校を宿之島学校とも呼んだ。この後者は大正2年2月まで存続し後に現在の稲田小学校の所に移転した。
 この新道の建設に当たり、稲田小学校の発展経過の一端をとどめるためこの碑を建てたものである。





◆上宿地蔵尊





続く。

2018/04/22 久地散歩 04 川崎市緑化センター/五ケ村堀と八幡下の堰/八幡下込樋/八幡下橋/宿河原八幡宮神社/名前のわからない橋

まだ二ケ領用水に沿って宿河原駅の方に向かって歩く。



川崎市緑化センター










 当地は、昭和11年に神奈川県農業試験場東部園芸指導地として設置されました。その後、昭和24年に川崎市に移管され、川崎市園芸技術普及農場として発足しました。さらに、昭和54年には、名称を川崎市緑化センターとし、現在に至っています。
 この間、果樹栽培試験に関する業務がフルーツパークに移管されるまで、ナシやモモなどの果樹栽培の技術の普及、家畜伝染病の予防、農業用機械に関する技術講習の場として活用されたほか、土壌診断や野菜及び花きに関する試験栽培の実施等、様々な業務を通じて、市内の農業者に係る農業技術等の工場字大きく貢献してきました。
 この度、これらの業務の移管に伴い、都市緑化植物園として新たに発足したものです。




◆五ケ村堀と八幡下の堰



五ケ村堀はこの地点で本用水と立体交差をし、堰方面の田畑を潤す。近くにある八幡下の堰は、白秋の多摩川音頭で有名な「堰の長池」から多摩川に通じ、排水路の役割を果たした。




◆八幡下込樋


八幡下込樋(はちまんしもいりひ)について

 八幡下込樋とは、この二ケ領用水の水を堰止め調整したものである。当時の工事請負人関山五郎右衛門という人により明治四十三年四月に完成した。
 其の昔(年号不明)、現在の宿河原二丁目二十四番地(宿河原幼稚園)附近を起点に東は高津区字奈根まで多摩川の旧堤防が築かれていたが、洪水により下流の洪水を防ぐためにここに入堀より多摩川に放流して水を調整したものである。
 最近この込樋が逆に堰となり、洪水の度に近隣の住宅に水害を起こすことにより取り壊されたのである。




<二ケ領用水>
 「土木学会選奨土木遺産」は、社団法人土木学会が、日本国内の歴史的建造物のうち土木構造物について、これの保存に資すすることを目的として構造物群を「土木遺産」に認定して顕彰する制度、及びこれにより顕彰された土木構造物群のことです。2000年より認定を開始しています。
 この二ケ領用水は、当時江戸時代以前の1597年(慶長2年)開削に着手し、現在の多摩区から川崎区に渡る灌漑用の水路として、14年の歳月をかけて1611年(慶長16年)に造られたものです。当時の川崎領と稲毛領の二つの領に水を引いたことが名前の由来とされています。
 本用水は、当時と姿を変えていますが、多摩川流域では最古で最大の農業用水であり、現在にその機能を残す貴重な土木遺産として後世に保存するべく評価を得て、平成24年度に土木学会より認定されました。


<二ケ領用水竣工400年記念>
 二ケ領用水は、2011年(平成23)年3月に竣工400年を迎えました。農民たちの大変な苦労や努力があってこそ完成した二ケ領用水は、コメの収穫量を大幅に伸ばし、人々の生活を豊かにしました。また、今では豊かな緑と水の散歩道として市民の憩いの場にもなっています。川崎の発展を支えてきた二ケ領用水を、再び見つめなおし、その価値を後世に継承していきたいと、市民による様々な記念事業が実施されました。これらさまざまな取り組みをふまえ、「二ケ領用水のこれから」を見据え、多摩区と二ケ領用水の未来を発展させていくことを願い、この記念看板を建立しました。






◆八幡下橋







◆宿河原八幡宮神社







◆名前のわからない橋








橋の上にバス停があった。





続く。

2018/04/22 久地散歩 05 長尾の天然氷/長尾の里めぐり/長尾台遺跡/妙楽寺/長尾神社/五所塚第一公園

この日記の所から急に勾配がきつくなる。
坂や階段が増えて、歩きづらくなる・・・・。



◆長尾の天然氷

陽のあたらない山裾に溜め池をつくり、二ケ領用水を利用した天然氷がつくられていた。氷倉(こおりぐら)に入れて夏まで貯蔵し、東京方面に出荷したもので、大正初期まで続いた。


前の日記で「名前のわからない橋」の場所のすぐ近くにあった。




◆長尾の里めぐり








こんな山登りになってしまうとは・・・・・・。





◆長尾台遺跡




 長尾台遺跡は、縄文・弥生・古墳時代の三時期に渡る集落址で、昭和四十四・四十五年の調査で発掘された竪穴式住居址が保存されています。
 この大地で最初に集落を営んだのは、主に狩猟や植物食などの採取生活をしていた縄文人でした(紀元前四千年頃)。彼らの住居は、地面を掘り、なかに炉を設けた半地下式の竪穴住居でした。
 縄文人が去った後、再びこの大地で集落を営んだのは、ここに稲作農耕の技術を体得していた弥生人(二世紀)であり、その後に続く古墳時代の人々(四〜七世紀)でした。彼らの住居も、縄文人と同じ竪穴住居でした。
 眺望優れたこの大地は、古代人の生活環境としても格好だったのでしょう。






妙楽寺









◆長尾神社







◆五所塚第一公園




五所塚と権現台遺跡

 五所塚は、直径四メートル・高さ二メートル前後の五つの塚が南北に並んでいることから、地元では古くから、こう呼ばれてきました。外観は古墳時代の円墳に似ていますが、実際は、中・近世に村境や尾根筋に築かれた十三塚などと同様の、民俗信仰に基づく塚であると考えられています。
 この五所塚から長尾神社境内につづく舌状台地上の平坦部は、権現台遺跡と呼ばれる縄文時代中・後期の集落跡です。昭和三十三年(一九五八)に実施された発掘調査では、竪穴住居四軒、炉跡二基、配石遺構一基が発見されました。なかでも、平面形が五角形という特異な形状をした縄文中期の竪穴住居跡や、男根を模した二本の石棒が据えられ、狩猟にまつわる祭りを行ったと思われる縄文後期の配石遺構は重要な発見でした。
 ここ五所塚第一公園には、地上に中・近世の信仰塚が、地下には狩猟祭祀をした縄文時代のムラの跡が重複しているのです。








続く。

2018/04/22 久地散歩 06 労働安全衛生研究所

今回の一番のお目当てはコチラ研究所の一般公開。




公開時間が13時30からと遅く、おわりも17時までだった。
最初に体組成を計ってもらう。

上半身が筋肉がなくて太っているらしい・・・・。
なんとかせねば。



パネル展示を一通り見た後講演へ!
「働く人の健康支援 メタボ対策 体力評価」


労働人口が減って高齢者が働くようになると、元気に働けることへのニーズが増している。
元気に働くためには心肺持久力が必要で、心臓・肺の機能が高い方が望まれるとのこと。
心肺機能が低いと、高血圧・糖尿病・ガンになりやすいとの研究結果が出ているとのこと。


宇宙飛行士は無重力空間で生活すると身体機能が落ちてくるので、2時間ぐらい毎日運動しているが、その時間がもったいないということで短くで効果的な運動ができないか、現在模索している段階とのこと。
しかし、これは忙しく働いている人にも効果があるはずだとのこと。
職場でほんの短い時間で効果的な運動ができるならそのほうがいい。


だいたいこんなところかな?
頭が良い方ではないのでこの程度にしかまとめることができないうえに間違ってるかもしれません。
間違いがあったらご指摘ください。
ペコリ(o_ _)o))




最後に低音を発生させる部屋をのぞかせてもらった。

車のアイドリングに近い音がするって言ったら、その成分が多いとのこと。
僕はかなり低い音まで聞こえた上に、頭まで痛くなってきた。
でも、一緒に入った人の中にはマッタク聞こえない人も居た。

労働環境の中には低音が響く環境があるとのことで、人体に対する影響を調べるとのこと。
たとえば船のエンジンルームなどがあるとのことだった。




過労死に関するパネルを見たら、僕は完全に過労死レベルを超えていた。
長時間労働」「不規則」「睡眠不足」の人が危険とのことだが・・・・。
なんとかしないとだね!!

2018/04/22 久地散歩 07 下原石仏群/高根橋/東高根森林公園/東高根遺跡/緑ヶ丘霊園内遺跡第2地点

この日記の地点はほぼ山の上。
その山と山の間を東名高速が走っていた。
史跡が多い。



◆下原石仏群





◆高根橋






東高根森林公園








◆東高根遺跡

上記の「東高根森林公園」内にある。




 古代芝生広場には弥生時代後期(3世紀頃)から古墳時代後期(6世紀頃)にかけて営まれた集落が埋蔵されています。この遺跡は昭和40年代の住宅地の開発によって発見されました。その後の調査では約60軒の竪穴住居跡が確認され、広場全域では約100〜150軒の竪穴住居跡があると推定されています。
 神奈川県はこの貴重な遺跡とその周囲に広がるシラカシ林を保護するために、昭和46年12月、東高根遺跡を神奈川県指定史跡に、東高根のシラカシ林を県指定天然記念物に指定しました。




弥生時代の人々の生活>
 紀元前三世紀〜四世紀、弥生時代になると、大陸の影響を受けた新しい文化がおこり、稲を栽培し、土器・石器のほかに銅や鉄で作った道具を利用する生活が始まりました。
 弥生時代の人々はこの台地(古代芝生広場)に竪穴住居を構え、集落を形成していました。周囲の谷(湿生植物園付近)では湧水を利用して稲を栽培し、台地の周囲に広がるシラカシ林では農業に必要な鋤、鍬の柄や木製品の材料の採集、あるいはドングリなど食料となる木の実の採集が行われていたと考えられています。
 このように東高根森林公園には弥生時代の一集落が生活する上で必要な住居跡、農耕の場所、採集の場所が保存されており、古代の人々の生活を知るうえで、重要な公園となっています。




◆緑ヶ丘霊園内遺跡第2地点

google mapに載っていたのできてみたが・・・・。
説明板など何もなかった。
写真にあるような遺跡っぽい石がゴロゴロしていた。










続く。

2018/04/22 久地散歩 08 赤松稲荷大明神(下作延稲荷塚古墳)/下網の地蔵菩薩像/享保年の地蔵菩薩像/久地踏切

一気に山を降り、ゴールの久地駅へ。
下るのは楽だね(w



◆赤松稲荷大明神(下作延稲荷塚古墳)







たしかに古墳っぽいが、説明板などは全くなかった。
WEBで調べてみると、6世紀後半のものと推定されるとのこと。




◆下網の地蔵菩薩





享保年の地蔵菩薩





◆久地踏切




すぐ脇に久地駅がある。




久地駅でゴール。
多摩川の反対側にも古墳があることは知っていたが、神奈川県側にもあったとは思わなかった。
そしてこんな山道を登る羽目になるとは全く思っていなかった(w
二ケ領用水は今度じっくり歩いてみよう思う。

2018/04/22 久地散歩 01 鷹匠橋/久地歩道橋/保谷稲荷/二ケ領踏切/宝永年の地蔵菩薩/堰稲荷

24時間勤務アケで、久地散歩。
南武線久地駅から南武線宿河原まで歩き、そのあと労働安全衛生研究所まで行って、久地駅に戻ってきた。
地図で見ると大したことがない距離なんだけど、高低差があってなかなか思うようにいかなかった(汗



最初にスタートの久地駅




鷹匠






江戸時代、川崎にも将軍家の御鷹場があり、この近くに鷹匠を泊める名主の家があった。そこには常に御鷹部屋という特別の部屋が設けられ、鷹や鷹匠は大変手厚くもてなされたという。







◆久地歩道橋







保谷稲荷神社











◆二ケ領踏切





◆宝永年の地蔵菩薩

上記の二ケ領踏切のすぐ近くにあった。




◆堰稲荷神社



境内社



境内社


鳥居




続く。