(日本のどこかの)ネットレーベルの亡骸に愛をこめて(質問をしてみたい)

ネットレーベルの亡骸に愛をこめて
ネットレーベルの亡骸に愛をこめて - THOUGT LOG

 面白く読ませてもらった。
 そして、頷く部分と、頷けない部分がある。

 彼が主張するように、たしかにネットレーベルに向かう視線といえるものは、2010年前後頃と比べると明らかに減少したといえるだろう。ネットレーベル設立ブームに乗るかのように出現したnetlabel.jpはその立場も曖昧なまま消失し(ドメインは接収され)、R25のような雑誌で扱われることも一時期の流行のように過ぎ去り、そしてなによりも、music forestが消滅した(JASRACのあのデータベースは元気だが)。
 ネットレーベルがどうのこうの、という議論はもはや一部の好事家が話のネタにするような領域に入り込んでしまい、当時の雰囲気が持っていた「エッジな」ワードではなくなった。実際に音楽を作ったりバラまいたりしたい、という人にとっては、サンクラやbandcampのように編集しやすくシェア向きの(そういう意味でmyspaceとは状況が異なるような)無料サービスの方が使いやすい、便利だ。
 当時の日本のネットレーベルの状況にとって特徴的だったのは、彼が指摘したように、ひとつは音源リリースのシステムそれ自体の目新しさ、そしてもうひとつはSNSによる宣伝に依存することで情報のポジティブな循環を生み出してきたという点だ。そしてこれらは、「エッジな」ものとして紹介される時期を過ぎたこと、ネットレーベル自体が増えたことによる宣伝活動への参加行為の多発によって、要するに両者とも陳腐化してしまった。陳腐化し、それらはリスナーが見る景色の背景へと退いていった。日常的なもののひとつになってしまった。
 こうして、彼が主張するような「二度死んでいる」という状況が生まれたのであった。

 こういう風に書くと、たしかにネットレーベルは死んでしまい、さらにもう一度死んだようにも思える。
 だが、彼の主張を一読してぼくは違和感を覚える。それはつまるところ「お前が思うんならそうなんだろう、お前ん中ではな」と言えるのかもしれない。つまり、ぼくの認識自体が議論を招くところでもある。だが、以下の考えが違和感を誘うことを書き記しておきたい。

 たとえば海外の事例。
 歴史的な展開を追ってみると、いわゆる日本でいうところのネットレーベルという呼び名は、英語圏インターネッツ文化から持ってきたものだといえるだろう。それは北欧のハッカー文化が地ならしをし、BBSからインターネットへの流れの中で拡散され、DTMの歴史やMP3の歴史と出会いながら、現在のNetlabelsへと形態を収束させてきたものだ。Internet Archiveを見ればわかるように、世界各地で活動している驚くほど多くのネットレーベルが存在している。
 そして、現在でも驚くほど増え続けている。
 ここで言っている英語圏Netlabelsは日本のそれとは異なる文脈を持つし、ぼく個人としては日本のネタ的な、というか、同人音楽と隣接した文脈として、といった部分に関心があるのだが、一口にネットレーベルとは言っても日本以外のとてもとても広い領域が時空間的に存在しているのだ、ということは知っておいてよい。
 つまり、彼の主張には「日本の」という接頭語をつけた方が良さそうだ。

 さらに、国内のネットレーベルの事例。
 ご存知の通り、ネットレーベルとは運営を始めやすく、同時に運営を中止させやすい。しょっぱなにコンピをいくつか出して、そのまま更新されないまま消えていくドメインなどはネットレーベルを追っている人からすると、わりと普通の話だろう。それはそれでネットレーベルの魅力のひとつだ(参入障壁の低さと、離脱するコストの低さとして。いずれも失うものの少なさは、思いつきを形にするという意味で人を呼び込むだろう)。
 とはいえ、ずーっと、地道に、良いものを、今でもリリースし続けているネットレーベルは多いのではないか?
 分解系の最新リリースは今年の4月だし、マルチネが135番目のリリースをしたのは先々週だ。そして超老舗BumpFootはちょうど1週間前に新作を配布しだしている。TREKKIE TRAXの動きだって気になるはずだ。夏が近づいてきたことで、ネットレーベルの動きもウゴウゴしだしているように感じていたところではないのか。
 ふむ、彼は何をもって亡骸だというのだろうか?

 こうなると、彼の言う終わりの季節とは、彼にとっての終わりでしかないように聞こえてきてしまう(彼にとっての「デカイ一発」が機能不全だった、彼にとっての「工夫」はBandcampにすでにやられてしまった、そうして、彼にとってのネットレーベルは死んでしまった)。先に書いた陳腐化についても、むしろメディアの透明化が完遂した状況として、ネットレーベル的音楽実践が広まりつつある証左にすら見えてくる。なのにそれを、あたかもネットレーベル全体の終わりであるかのように語っている、というように見えるのが、ぼくの得た違和感の正体である。
 これは考え過ぎだろうか?
 ぼくにとってとても気になるのは、いまのタイミングで彼がこうした表明をしたことの意図だ。こうしてちょっとした文章を書いてしまったように、ぼくは彼の考えに非常に触発された。自分はネットレーベルという形式に対してなんらかの好みを感じているのだなぁ、と思い出させられた。なぜ彼はこのようなきっかけを作り出したのだろう?彼は『「0」「腐る」と「熟する」』と書いているが、その違いをどのように考えているのだろう?腐敗と発酵の違いとは、人間から見て利用可能かそうでないか、という点に依存している。ネットレーベルいついてのその違いを作り出す基準線は何だというのだろうか?

問題意識が希薄なのが問題

 卒論、という一つのフォーマットにおいて自分の考えていること全てを書けるなんて思っちゃいけないんだと思う。論文という形で考えを体系化していくためには、どこかで自分の興味やそれに対する考えにしっかり制限を加え、枠を設定する必要があるはず。そのためには、自分の興味の範疇を確認し、それの枠を具体的に把握し、その上で今回書ける部分、文字にすることのできる部分を順々と言語化していかなくてはならない。しかも言語化していく中では、具体的なデータや理論の収集と展開を行わなくてはならない。というか、その部分の作業が「卒論を書く」という行為か。
 んで、今の僕はいったいどのあたりまでできているのか。
 「枠を設定する」という作業未満で止まっているのが現状なのではないかと思う。悲惨だ。自分の向いている方向だけは、なんとなくわかる気がする。向いている方向に見える、表面の移り変わりは指差すことができる。作業としてその先にある、今回書くことの枠を設定するという部分の作業ができていない。使うべき理論や現象の収集ができていない。そう、問題提起がされていないのだ。

 以下ブレインストーミング的にメモ

 インターネットの普及とデジタルデバイスの普及によって、現代の人間は、今まで成立していた生活を一変させてしまうような時代に入ろうとしている。「文字」を開発した時、「印刷技術」を開発した時、それらと同程度のショックがインターネット以前と以後には存在するはずだ。それらを予見した考察として、アルビン・トフラーの「第三の波」という考え方や、音楽という切り口からそれを見た、ジャック・アタリの「作曲のレゾー」というものがあげられる。イヴァン・イリイチは学校や医療の制度を、資本主義的な管理システムを作動させるための制度だとして批判し、代わりうるような学習のあり方としてwebという概念をあげていた。インターネットの成立にはイリイチの思想が反映しているという。相互に関係しあう、というやり方での相互高め合いにとって、インターネットほど効率の良いメディアは今まで存在していなかった。また、環境問題や人道的な問題がここ近年よく問題にされている。人類はどこかの段階で今まで数十年やってきた資本主義的な方法をやめなくては滅びてしまう!多くを食って先に放り出すようなやり方をやめなければならない。どうするのか?世界的なネットワークによって省エネなライフスタイルが実現できるかもしれない。自由な。音楽業界や音楽を生産・消費する部分において、ここ数年、つまりインターネット普及以降の変化が著しい。その基礎的な部分での変化は、著作権問題を表面化させている。音楽に関する部分の「今までの常識の変化」は著しい。インターネットというメディアが僕らのライフスタイルを変更させている状況を確認するのに、この音楽の変化を切り口にして見ていくのはちょうど良い。

 あれ適当に書いているとやっぱダメだ。何がしたいのかわからん。

 下のエントリで書いたような、表層的な部分の今の音楽を取り巻く状況の変化、特にネットを使う、にフォーカスするんじゃなくて、卒論では、僕がそこに注目するにいたった理由を書こうと思った。つまり、インターネットが情報論的転回を引き起こしているということ。その背景にはイリイチの産業主義批判が横たわっていて、インターネットはそういうニュアンスを成立の意義からして持っているということ。だからインターネットによって、人間は新しい段階に入るのだということ。それはマクルーハンの言うような地球村的なものであって、原始共同体的な互助精神を持ちつつ、近代化によって人類がこうむってきた恩恵を手放すものではないというような。かなりポジティブ。
 それを今日、また違う教授に相談してみたら、その背景となる部分を「はじめに」として書く必要はがっつりあるが、中心となる部分は音楽周辺の変化についてにするべき。そして、その変化を叙述するやり方として、いま本を読んで得られるような二次的な情報じゃなくて、僕自身がフィールドに入っていって直接回収してきた一次情報を基に書くべき、と言われた。不完全な、まだ先行きの見えない論考にはなるかもしれないが、評価できるものんいなるはずだ、と。
 一次資料とな?!
 フィールドはどこなんだ??
 そう、自分が入るべきフィールドを決定できない時点で、最初に書いたように自分の範疇を決定できていないということがよくわかる。ふむ、では逆に、入る先のフィールドを決めてみよう。実際にするかはわからないけど、するつもりで範疇を決めよう。そうだ、そうしよう。

ふわふわ

 目次、とまでもいかない卒論の概要を教授に見せて話す。くっそみそに言われた。「そのまま書けばいいんじゃない?」と言われたら完全に見放されているだろうし、「がんばれ」ということなのだけれど、なにげに落ち込んでしまったし、そうやって、おちんこでている自分に驚いた!!
                 ぐはー。
 しかし、そんなこと言ってても何の意味も無いし、このアドバイスを適切に判断することも問答の一つであるので、以下反省しながら今後の展開を言語化してみよう。


 「まず、大きく分けて3つのブロックで構成するつもりだった。昨今の音楽界隈の変化、インターネットの持つ特性と思想、そしてそこにダイレクトに影響を与えた(と言われる)イヴァン・イリイチのコンヴィヴィアリティ概念について。

 イリイチは、産業社会の発達によって「より良く生きる」ことが強制されていることを指摘し、その観点に基づいて進歩史観的に進んでいこうとする現代の感性を批判しているように見える。彼がしばしば例に挙げるものである、学校・医療・交通という3つの要素は、産業社会の論理によってそのクオリティを上げながら、実は返って私たちの自主性のようなものを破壊している。専門的な知識の必要性が上げられていくことが、それ以外のあり方を否定する方向につながっているという。そして、すっごいヒエラルキー的な知識の階層が堂々と生じ、それ以外を迫害し、だが彼らもその構造論理に入っていてその構造を支持する役割を自ら担っているという。イデオロギーですかね。
 この産業社会的な道具のあり方をブッ倒すものとして、「コンヴィヴィアリティ」という概念を持ってきた。まだはっきり理解してはいないのだけれど、トップダウン型の情報伝達ではなくて、周辺の人々と学びあうといったものではないか。ここ重要。
 たとえばイリイチは、学校というものを、「学ぶ」ことを迫害し「教育」に転換して知識的なものの専有化、それ以外の人々の無意味化を構造化するとして批判し、これに対するものとして「Learning Web」という概念を提唱した(そうだ。『脱学校の社会』はまだ読んでません。)が、実はインターネットの成立にはこの考え方が反映されているという。 →『インターネットが変える世界』

 インターネットの現状、たとえば「Web2.0」と言われるような(そんなもん無いという批判をよく見ますが)ネットの使い方などは、このイリイチの思想に近しいものがあるのではないだろうか?というのは僕の勝手な感想なのでそれを如何に説得力もって展開するかが鍵だと思っていたのだが、方向性を述べるだけなのでここではまだ深くは考えない。
 たとえば、だけど、オープンソースの考え方とか、マスメディアに対するネットの議論の双方向性、なんてのはありがちだけど考えるべきポイントだと思う。

 そして、「書きたい」と考えていることの一つである「日本のポピュラー音楽界隈の変化」だが、これはインターネットの普及が大きく影響していると考えている。しばしば議論されているような、デジタル化ネットワーク化によって可能になった行動、産業のあり方、そしてそれらによって引き起こされている様々な問題、たとえば著作権問題であったりするようなものを論じたい。
 背景となる考え方として、「プロシューマー」や「作曲のレゾー」といった未来予言的な言説の具体化という、そんな切り口は面白いなと思う。

 結論の方向としては、これこれのことが生じてます、その具体的状況の裏側にはイリイチの思想が関連しています、彼は産業社会をブッ倒すものとしてコンヴィヴィアリティのための道具を捉えていましたが、状況の持つ方向性としてはむしろ、倒すというよりは、回避しながら楽しむことを目指しているのではないか。そうやって生き残る知恵を実践的に探すことにこそ意味があるのではないか。というようなことを言いたいです。」

 ということを話したら、それは「根本的な問題を考えていない」と一刀両断。過渡期的な状況の紹介に過ぎないのであればジャーナリズムでしかなく論文とはとうてい言えない。しかも音楽のことを扱いたいというのは僕個人の趣味であり、他の領域で語らない理由にならない。現状肯定では、「自由」を求めているような行動の紹介を通じて、「手のひらの上で踊っているような」状態を肯定するだけにしかならない。出直して来いやゴルァァァァ!という感じでございました。。。

          「根本的な問題」かーーーー

 というわけで一日考えたり現実逃避のために戦争映画観たりしていたんですが、ここで言う根本的な問題というのは、それこそ「資本主義的産業社会に対する批判」ということなのだろうか。
 僕の上のような物の見方というのは、イリイチの思想に立脚していながら、彼の行う産業社会批判についてはスルーしている形になる。インターネットの存在がイリイチの言うような、圧倒的な変革を人間の感性にもたらすものであれば、すでにそれが起こって産業社会は崩壊し私たちは幸せになっているはず。なのにそうなっていない。問題の所在は何も変わっていない?
 なのに、そこんとこを無視して、「だって仕方ないもん」と言って、「でもこんなにいろいろ起きてるよ面白いよ」と言うだけならば、それこそ便所の落書きで十分でありブログにでも書いてろよハゲ、ということか。というように考えている。

 たしかに、その部分は根幹を成すものでありながら、僕の論文では華麗にスルーするつもりであった。これでは意味が無いということなのだろうか。以前、アドルノの文化産業批判についてレポートを書いたことがあるのだが、その時に僕が至った結論というものも、アドルノの目線は非常に正しいし、現代でもその議論は有効で、だって資本主義に完全に飲み込まれてるもの僕ら、だけどそんなことばっか言ってても未来が暗く見えるだけで、見方を変えてこんなに楽しいことが起きている部分に目を向ければいいじゃん。重要な問題系は回避して、小さな面白さを追及して、それで満足できればそれでいいじゃん。むしろ、逆に、そういう部分に力点を置いて生きていく、というあり方の探索に集中しなければいけないはずだ。というものだった。今回の卒論で書こうと思ったことと基本的には同じだ。
 だが、教授の言う「根本的議論の欠落」というものは、やはりどう考えてもこの部分を指しているんじゃないだろうか。要するに逃げるなってことだ。僕の考え方は非常に消極的で、支配されている構図を再生産することには加担しても、その基盤となる構図をどうするかってことは「考えない」わけだからダメだ!と。ぐぬぬ

 僕は左翼的な意見については共感もするけれど、どうもなーという気がしている。でも、こうやって考えてみると、根っこの方にある問題を考えるには現状の批判しか方法は無いのだ。そして現状それの力になる思想基盤は左翼的だ。そこを考えないこと、表層的な物事を追うことも確かに面白い、だが、卒論だろ?ここで頑張らないとお前何したくて大学院行きたいとか言ってんだよって話か。。。。。
 
 というように理解した。
 こうなると、僕にいまできることとは、イリイチという思想軸をもっともっと理解することだ。インターネットが何かを変えるはずだと感じている。そこには彼の思想が根本的には影響している。でも変わってない。では何が問題で変わらないのか、どうしたら変えられるのか。表層的な面白さを追求することも良い、だがその前に、その部分の根幹を成す議論について考えろ。別に革命的な何かがあるとかいう古い考え方ではなくて。その基盤について考え、思想を持って、その上でインターネットを通じて生じている行動を見て何か変換への糸口を見つけろ。そういうことだ!!!
 ちくしょー再来週とかにはもう一度ブッ込んでやるぜ。

そろそろ卒論のテーマを限定しないといけないので、

 ぼんやりと、音楽を聴くこと、そしてそれがここ最近のネットの普及でどう変わってさらに楽しくて生産的なものになっているのか、というようなことを書きたいと思っていた。ぼんやりとしていたが、いつまでもそんなこと言ってらんない!

 というわけで、上のようなことをどうしたら説得力もって書けるかを考えていたところ、見田宗介の『現代社会の理論』という新書が、何かぼくに対してヒントのようなものを与えてくれた。彼は現代の資本主義社会がどのような特徴をもってまわっているシステムであるかを明らかにし、それがさらに「情報化・消費化」というタームに入ってどう変化しているのかをわかりやすくまとめてくれた。さらに、最後のほうでは、その「情報化」というヒントによって、現在地球規模で生じているような社会問題をクリアできるのではないか、という展望を書いていてくれた。
 うん、ぼくもそう思います!!資本主義社会が完成したものだなんて誰も思っていなくて(いや、新自由主義的に言うともしかしたら思っているのかもしれないけれど)、だけれども昔の左翼みたいなやり方はもう力が無いように見えるので、この世界を否定しないでどうにかより良く生きていけないか?という思いが根底にあって。そんなところに「ネット」はより楽しくより豊かな生活を成立させてくれるような感じがして。
 そのよーなぼんやり感を、しっかりと理論化することができるのかもしれないという予感・期待が生まれてきたのだ、この本によって。

 さて、ではどうするのか。
 キーワードとして「メディア」「プロシューマー」「コンヴィヴィアリティ」というものを今のところ考えている。メディアがデジタル化することで、今のような次の段階の便利で参入障壁の低いネットワーク社会が成立し、それが消費者と生産者という以前までの区分けを曖昧なものに変化させている。まずはこのネットワーク化とプロシューマーの成立を歴史的に追い、対象としてやはり昨今の音楽業界周辺を見る。そんで、これらの変化の基盤として存在するのがインターネットの普及によるネットワーク化であり、そして実はそのインターネット成立の初期にあったイヴァン・イリイチへの共感を、今のネットワークにおけるお楽しみ感覚としてコンヴィヴィアリティという観点からまとめて見られるのではないか。彼の思想的に言うと、そういった態度によって産業化する資本主義のネガティブな側面をクリアしようぜという方向なので、ネットワーク化によってそれが現実化し、ぼくらはそういった理想に近づけるかーもね、というようなお話。
 うへ、適当に書いたら適当すぎてひどい。しかし、ちょっとメモということで。うん、だいたいの骨子はこんな感じじゃないか?気になるもん。面白そうではない?もう誰かこんなこと書いてるのかな。
 
 とりあえず、こんなこと書きながらイリイチをちゃんと読んでないので読む。そしてちゃんと思想部分を理解してまとめる。

 どうなのかなぁー。。。。。

ほんとはRTSの実施について書こうとしたんだが、

 実践について考えるには思想部分が欠けてはならないということなんです。
 
 毛利嘉孝さんの「文化=政治」を読んで、あと友人と話して、学生やら生きてる人として文化なんかを考えることについて考えるなど。おおまかな感じとして、現行の資本主義や新自由主義的行き過ぎの影響で、グローバル的にいわゆる問題が生じていることについては異論は無い。ハイチでの生活があり得ないレベルになっている、日本でも派遣切りされた人がまじやばい。しかし、僕にとっては実感が無い。
 こうやって、今もインターネットにつながって全く生産的ではない作業を行っている。そろそろ昼だしご飯は何にしようかなーと考えている。頭のどこかではアフリカのエイズのことを考えながら。そして5年後の僕の生活について考えながら。実感が無い。
 「資本主義はやっぱりだめだ」という言説は、おそらく正しいのかもしれない。友人が言うように、西暦3000年には全てが破綻し、あの時ちゃんと考えていれば・・・という反省で人類はみんな鬱になるのかもしれない。破綻しきっていない今でさえ、僕たちは全く幸せじゃないのかもしれない。しかししかし、実感が無いな。

 僕にとって見えているのは、今の日本の社会と身の回りの人たちの将来像(ある程度想像できるくらいの)と明日のご飯と今夜のtwitterのTLへの期待くらいだ。非常に問題意識の低い、その日暮らし感覚の、知のかけらも無いような意見だろうか。そうだろう。危機的かも。
 だが、いわゆる先進国に暮らしている若者が、一方で物心ついた時には不況になっていた社会に住んでいる若者が、ハイチの泥団子クッキーについて「リアル」に考えることなんてできるのだろうか?明日のクラブのDJが誰か、の方が興味あるから無理じゃね?問題意識が高い人々もそう思って、同じく自信が無いからこそ、現地の状況を観に行って危機感を自己に反映させたりするのではないか。極端に凄惨な現場を見せようとする自治会的な言説はそんな類に見える。そしてそれは、まぁやってないんでわかんないんですが、ズレてないか?自分の暮らしに反映させられるのかな?

 僕にとって大事なのは、明日を楽しく生きることなのではないかな?

 みんなが高い理想のもとに問題意識を保ち、政治的に働きかけ、社会をより良い方向に進めていく、なんてことはできるのかな。ていうか今までできてねぇじゃん。それこそ進歩史観的な物事の見方なんじゃない。僕にとって重要なのは、動物的だと非難されるだろうけど、明日の「楽しみ」だ。
 つまらないんだよね。楽しくないと人は動かないと思う。特に、いまの日本のような、まだすぐ餓死する状況にないような社会では。5年後はどうなってるかわかんないけど。結局、この見方は根本的に破綻していて、内戦が起きないとわかんないとか飢餓が生じないとわかんないとか、問題を回避しようというものではないのかもしれない。自分の暮らしに直接関係してこないと動かないというような、まさに脊髄反射的でくだらないものなのかもしれない。だが、事実としてあるだろう。

 こう、自分の愚痴を書いていて、前述書にあげられるような「新しい『新しい社会運動』」というものは、既存の左翼的な社会を見る視点に対するアンチ以外のなにものでもないのかもしれないという気がむくむくと起こってきたが、現実として効果がある程度あるのだから、全く無意味というわけではないのだろうとも思う。根拠が弱いかなー。
 
 自分は、マトリックス的な「だまされて楽しい」世界でもかまわないのではないかと若干思う。幸せに生きるってなんなんだー!という問題になってしまうが、自由を求めた先が自由でない死であったりすると、それも一つのやり方だけれども、間違いだとも言える。
 
 本質的な(というものがあればの話だが)問題系に踏み込むとどうしても形而上学的すぎる感じがしてどうなんだろーと思う。僕が、そして多くの人が達成感を感じながらも行動できるのは、今日明日の問題解決なのだ。つまり「僕にとっての現在」という時制しか問題視することができないのだと思う。
 
 そうなってくると、「文化実践」という形で行われる社会運動は、僕の感覚に非常にマッチングしたものであるし、動物としての人間に適した行動なのじゃないかなと思う。

 急にSFの話になるけど、いや、そうでもないのか?ネットワーク化によって世界が一つの村になる→全てが僕になる、ということがもし本当に起きれば、全ての問題は「リアル」になり、行動によってすぐにでも解消すべきだというものになるのだろうか。すぐこうやって夢物語を語るからダメなんだ。実践が至上だと思う一方で、根拠が想像じゃー破綻しますわな。まだ幼いようだ。

コミュニケーションの内実は実は何も変わってないのではと言われた。

「ネットの普及がコミュニケーションにどのような変化をもたらしたのか」

という事柄に興味があり、卒論もそういった方向性で書こうと考えながらすでに5月になっているわけですが、実は上のような意見は、様々なところで吐かれてはいてもその検証自体はあまりされていない。ネットの普及がコミュニケーションに何らかの変化をもたらしている。と感じている人は多い。のに、ではそれは何?という問いに答えられる理論というものは、まだ体系だてられていないのかもしれない。

マクルーハン的であったり、第三の波的であったりするような「感覚の変化」というものが生じているのではないか、と僕はなんとなーく感じる。そして、そう思っている人は多いのに、「変化が生じている」という書き方をされたものが多い。どこに?とか、何に?とか、具体的な部分で示すしか説得力は無いが、具体的過ぎて理論と言えない段階の考察ばかり。僕が思いつくのも、そういった感覚の変化が状況の変化を引き起こしている、それがこれだよ!という文脈しかない。うーん。

僕はまず、「ネット」「コミュニケーション」「変化」それぞれの単語が何を指しているのかを明らかにしなければならない。特に、「コミュニケーション」がどう変化するのかを示すためにコミュニケーション論の歴史を知らなければならない。うん。

ネット上のトレンドを追いかけても理論にはならないが、トレンドを知らないとお話にもならない。やはり、切り口としては社会学的見地から若者文化を見ている人たちの論考を参考にするのが良いのでしょう。でも、もちょっとフィジカルな見方もしてみたい気もする。
よくわからん。

大学院にー

行きたい!と思って調べたり勉強してる3年生の冬、もうすぐ4年生の春、なんだけど、この時期になってもなお受験する大学を決定していないというのはどうなんでしょうか。行きたいところの教授に会ってみたりはしたんだが、その人の話を聞くとさらに混乱する。卒論指導の教授とは春休みになってから会っていないし、情報収集に関してすらこんなに遅れている。勉強に関してはなおさらだー。

とくに3月末というものは送別会やらなんやらのイベントが多いしね。時間もなかなかとれない。

自分が興味のあることを文章化するというのは非常に難しいが、たとえば上のような状況において教授に対して質問をする場合、まずは自分が何をしたいのかを説明しなくては、相手は何をアドバイスすればいいのかすら全くわからない。
というわけで、考えてはいるつもりだったが、もっとわかりやすくする作業をする。