日曜朝

pesce2007-07-22

明日であるけど、父親が還暦。数年前は一緒に宮古・石垣までお付き合いした誕生日、B.S.A.C.のCライセンスを獲得したりしたころだったかしら。結局父のバディになってあげることはなく、スキューバ自体も入社以来行っていない現状ですが。夕食の合間に買ってきたミンサー織りのネクタイをあげたところ「学会……か、卒業式、に、つける、かな」と呟いてから「お父さんは物持ちが、いいんだぞ。大学の卒業式の時のスーツは、まだ着れる」と、動揺あらわに自慢を。って、いうか70年安保の頃のスーツ、着られても。母は母で「あなたがおなかにいる時に参加したデモで火炎瓶が頭上を抜けていってねぇ」というような。まあ、そんな両親の子どもでも彼らから見たら理解の範疇外の育ちをしているようでございます。15歳までは比較的なぞっていたようなのですけど。ともかく、父にはカードを送りつける事にする。
色々な人生があるなぁ、と途轍もなく当然のことを思いなおす。父に関しては何度か書いたように、朝5時に目覚め朝食を作り一人食べ、庭の餌台に野鳥用の餌を撒き、7時前に書斎に籠もり正午に出てきて昼食を作り食べ、また書斎に籠もり夕方5時になると市民プールに行き一時間泳いで夕食を買って帰宅し、食事をしてから養命酒を飲んで寝る。全ての食事のあとには30粒ほどの栄養補助剤を青汁または大麦若葉で飲み干すと言う儀式がついてくる。外食なら帰宅後すぐ。このほかに、大学の講義があるときは講義時間外を研究室で過ごし、事務用以外誰と話すことなく、大学の同窓会と学会以外で誰かと交流したらしい痕跡もなく、資料や学会で上京しても私と会う以外に伯父と会うことがあるかないか、という交友範囲の狭さである。これを30年ほど続けている。15年前から始めたスキューバが唯一趣味で、しかし基本は一人で沖縄離島に行くのみ。携帯電話ナシ、インターネットというよりPC使用ナシ。原稿は手書きで締め切りは守るけど、自分の生活死守なので平気でぶっちぎることもある(この人の担当編集になるのだけは絶対にイヤだ)。ファクシミリすら使わず、原稿を郵送している様子。通信手段は自宅電話、郵便物、時に大学の電話。母親についてはアクティブな事柄が多いので伏せるが朝は5時起きは同じで6時には出勤している。どちらも教員で、ともかく会社員生活については疎い。彼らの両親や親族も結局「先生」と呼ばれる種類の人ばかりで宮仕えが少ないということもある(大叔母は某新聞初の女性記者で戦後フェミニズム運動黄金期の人だけど、今では先生。ほぼ唯一のマスコミ同士と言うことで気にかけていただいていた)。本命校受験日にインフルエンザに罹り、滑り止めであった都の西北に行った母方の叔父がお堅めの会社員だが、転勤とかある世界に目を丸くしているほどだ。
フリーランス生活を終えて会社員になりましたと連絡したら、お祝いに二週間ほど島に行こうと誘うのが父である。ここは日本なんですよ、お父様。取れないというと、なぜと言うので月刊誌だし産休以外でそんな前例ナシというと、自分が前例になればいいじゃないかという。判例じゃないのですから。
そんなこんなで、久々に休んだ土曜日が過ぎ日曜の朝。昨夜は青森へ転勤辞令の出た渋谷の放送局の友人送別会などにいく。一次会で抜け、自宅の花がなかったので近所を歩いて花泥棒をしてくる、空き地にはみ出した草花を摘む。歩いたことがなかった裏手の道に幾つかのカフェや有名なパン屋を見つける。
前述人生色々、を思う切欠となる親しい人間の現在進行形な脱線事故系の事件と自分との関わりも考えている日々。まだ彼はこの空の下にいるのだということは救いでもありやるせなく悲しいことでもある。窓から外を見るだろうか。このパターンだと経験上は、いなくなってしまうことばかりだったので、せめてもの希望と共に初めての試みばかりの日々。
服を買ったが夏物は購入時期を数ヶ月前に逃して(プレスセールを使わない、基本が展示会段階購入なのでいま買えるのは冬物しかない)完全に放棄しており一般セールでせめて衛生上問題ない程度に数を揃える。時間がなくポールスミスコスチュームナショナルのみ。AWにかけます。自宅のダンボール開梱やエアコン取り付けなどは例の脱線事故関係で二ヶ月ほどストップしていたのでそれも再開。そんな2007年サマージャム開始。