環境問題にはなぜリアリティがないのか

デイ・アフター・トゥモロー


映画デイ・アフター・トゥモロー*1を見た。世界が凍り付くCGの迫力は圧巻だ。竜巻が荒れ狂い、大津波が押し寄せ、世界が凍っていく。だかそれがすべてだった。後半のヒューマンドラマはB級だし、最後の環境問題への言及によって、このSFと現実とを結び、リアリティを確保しようとする振りは、むしろ興ざめである。(おそらく、最後の言及は、制作側にとっても、メッセージでなく、儀礼だと思うけど・・・)

最近の「ハリウッドジェットコースター」はすごい。この迫力を支えているものが、人の「正しさ」の正確な記述である。CGという視覚映像が忠実にわれわれの視覚的な「正しさ」を捉えているが故に、その「正しさ」が破壊されるときに、「狂気」をともないリアリティが現れるのである。だからデイ・アフター・トゥモローの迫力は、あくまで視覚的なスペクタクルとしてのものであり、それは環境問題として語ることは、逆に嘘くさい陳腐なものとしか感じられないのである。



シニフィアンの暴走

人は、遺伝子、あるいは脳の大きさという物理的な変化以上に他の動物と違いと特別であると言われる。その違いをもたらしたものは言語であると言われる。しかし人口増加、エネルギー消費量など、地球規模で人間が突出したのは産業革命以降、大衆が出現し、消費社会に突入してからだろう。

消費とはシニフィアンの暴走と呼べるかもしれない。かつては、溢れる余剰は「神」というシニフィアンに回収されていた。そのタガがはずれたとき、余剰を回収するシニフィアンが、氾濫しだした。シニフィアンとは、記号コミュニティへのパスポートである。記号コミュニティとは、捏造された他者である。他者から、「あなたはあなたである」という承認をもらうために、人はシニフィアンを欲望するのである。

神という究極的な他者=シニフィアンによる承認をもらうことができなくなった主体は、承認を求めて、つぎつぎとシニフィアンを代えながら徘徊することになった。すなわち、シニフィアンを消費しては、次のシニフィアンへ向かうという終わりなき徘徊である。

そしてこのようなシニフィアンの暴走を促しているのが、現代では視覚メディアの影響が大きいだろう。それは単にシニフィアンへの欲望を満たしているだけでなく、加速させているのである。



身体的同一性/コミュニティ同一性/自己同一性

人の世界と、自然界の生産と消費の均等バランスとどのように違うのだろうか。生命は、個体の身体的秩序を保とうとする「身体的同一性」と個体の属する集団および環境的秩序を保とうとする「コミュニティ同一性」を持っている。身体的同一性とは個体による秩序で完結し、生を維持する特性であり、コミュニティ同一性とは、コミュニティおよび環境の秩序によって、生を維持しようとする特性である。たとえばアリは身体の形態がコミュニティの秩序を保つために、コミュニティに一部としての機能を持つ。この両義的な傾向のバランスの上に生命は成り立ているのである。すなわち、個体として維持しながら、コミュニティも維持しようという機能をもった存在である。



人にとっても身体的同一性とコミュニティ同一性のバランスは重要であるが、さらに重要視されるのが、「自己同一性」である。自己同一性は身体的同一性とはことなる。身体的な同一性は、「生き続ける」という個体の生理的な秩序を保とうとするものであるが、自己同一性は、「私であり続ける」という「自己の意味」を保とうとするものである。そして私が私であるということ、意味とは、必ずコミュニティの意味である。私が私であるとは、コミュニティにとっての私が私であるということである。自己同一性とはコミュニティにとっての個体の意味という、むしろコミュニティ同一性を表すものといえるが、また身体的同一性に根ざしているものである。それは個体とコミュニティとのコミュニケーション上に現れるものといえる。

人への進化過程は、身体的同一性を高める方向に向かっていると言えるのではないだろうか。人の特徴は、コミュニティや環境への依存が少ないことである。生命は環境に適応することによって、身体的な同一性を保っているが、人は環境そのものを変えていくことが出来るようになっている。自己同一性というコミュニケーションは、身体的同一性が高まる中で、コミュニティ同一性とのバランスを保つための一つのコミュニケーション機能と言えるかもしれない。「私とはなに?」と問うことによって、人は個体としてコミュニティとのバランスをとるのである。



自己同一性のために不可欠なのが言語である。自己同一性というコミュニケーションは言語によって行われる。しかし先天的なコミュニティ同一性では、生命はただそのように振る舞うのであるが、意味を共有する自己同一性では、必ず言語化できず、共有されない余剰が生まれつづける。

かつてはそのような余剰は、「神」というシニフィアンへ回収することによって、余剰が共有されたように振る舞われ、そして自己同一性は保たれていた。しかし現代、「神」というシニフィアンが機能しなくなっているのである。それにかわり、消費という余剰を回収するためにシニフィアンが暴走している。そして自己同一性をもとめて、消費は世界を食い尽くそうとしている。



環境問題のリアリティ

では、消費は世界を食い尽くしてしまい、人類は滅亡してしまうのだろうか。それが現在の資本制システムへの批判となっている。しかし消費というシニフィアンの次元と物質的次元にはズレが存在する。われわれの身体的同一性をが保つためには、物質的世界も必要とされるが、現代の人類の物質的な限界の危機を回避し、消費しつづけることは、原理的には可能ではないだろうか。現にわれわれはハードからソフトへと、物質的世界から象徴的世界を指向している。

環境問題さえひとつのシニフィアンである。環境問題のポイントはいかに資源を節約するかにあるのでなく、いかに人々が「環境問題」というシニフィアンを欲望するか、にあるのではないだろうか。資源を大切にすることを目的化するのではなく、「環境問題」そのものを目的化するということである。

CO2の増加が地球温暖化の原因であることが必ずしも証明されていなくとも、世界的に「環境問題」についての機運が高まっているのは、シニフィアンへ欲望として良い傾向だろう。しかしそれでももっと生活レベルで、環境問題に「正しさ」を感じ、リアルを感じるような神話が必要である。「デイ・アフター・トゥモロー」程度の神話ではだめだし、地球温暖化で南の辺鄙な島が沈むという物語では足りない。

さらには、現在の環境問題は、もしかすると核心をさけているからかもしれない。オゾン破壊へのフロン規制は成功した例であるし、地球温暖化問題も世界的な方向性を示しえている。しかしもっとも本質的な問題は、人口の増加にあるのではないだろうか。環境問題は、弊害が国を越えた地球規模に見いだせる故にシニフィアンとして統一されたともいえるが、人口問題は本質的に国に閉じている。アフリカで大量難民がでようがそれはその国、その民族の問題であり、他の国が介入することの難しさがあり、地球規模の統一したシニフィアンとすることが難しい。

それぞれの国、民族にはそれぞれの神話がある。それ故に環境問題という統一され、リアリティをもった神話へ集約させ、世界的な神話として語ることの難しさがあるのかもしれない。環境問題はもっとうまく神性を捏造する必要があるだろう。はたして現在の神話を先導するハリウッドは環境問題をリアルに描くことができるだろうか。それが「視覚的なスペクタクル」では捉えられないリアリティであるなら、だれがそれを語ることができるのだろうか。

ボクですか?ゴミ箱分けてゴミ分別してますが、ゴミ箱が場所とって大変です・・・