「精神の病と音楽」(阪上正巳著)を読む

まだ途上だけれど、印象的な文章に出会う。音楽療法に関しての本であるが、記述は多岐に渡っていて、音楽療法のこと知ろうと思って、借りてみたが、予想外の世界に触れることができそうである。少し長いけれど一部引用

第3章異界としての音楽 ノンヒューマン環境論より
ハロルド・サールズというアメリカの精神科医がいる。(中略)人間精神の発達や統合失調症の治療を考えるとき、従来はもっぱら個人の発達と内面的事象、および対人関係が取り上げられてきたが、彼は著書「ノンヒューマン環境論」において、それをさらに拡大し、犬や馬、樹木などの動植物、家具や機械などの無生物、風景や環境など、つまりは人間以外のノンヒューマンなものまでを視野に入れた議論を展開した。彼によれば、統合失調症においては、そうしたノンヒューマンな環境との混乱がみられ、ノンヒューマンなもの(木や動物)になってしまうのではという不安や、逆にとてつもない不安定感に対する防衛として、ノンヒューマンなものになりたいと願ったりする現象(化身妄想など)がみられるという。(中略)サールズによれば、こうした体験は治療の進展プロセスにおける真の転回点となる。(中略)動植物や無機物にまで遡る系統発生的な退行という言葉から思い当ることはないだろうか。そう、私たちの病者の音楽もまたダイナミックな有機的構造を脱したいわば(もの)的次元に定位するものであった。(後略)

精神の病いと音楽―スキゾフレニア・生命・自然 (広済堂ライブラリー)

精神の病いと音楽―スキゾフレニア・生命・自然 (広済堂ライブラリー)

ノンヒューマン環境論―分裂病者の場合

ノンヒューマン環境論―分裂病者の場合

これだけの引用では難解な内容充分伝わらないので、著作をぜひ読んでいただきたいが、僕が最近、「蜂の巣」の事に関して考えていた時の心の有り様の一部は、適切に述べていただいているな、という感触がある。著者の阪上氏はそこにクリエイティブの源泉を観ているのかもしれないし、僕もそう感じる。音楽とノンヒューマンな環境への指向とは近いものがあるのかもしれない。最近観たNHKの「地球に乾杯」の蜜蜂に関わる人々のドキュメントにもよく似た感触があった。

NHK総合 地球に乾杯「パリの空の下 ミツバチが舞う」− もうひとつの“花の都” − を観る
何故か蜜蜂の事が気になる。茂木さんの掲示板での匿名さんの投稿がきっかけだけれど、気になる事に対しては、無意識が赴くままに、なるように動いてみようと、いつも思う。そこに予想外の素晴らしい出会いがあるかも知れない。
NHKの番組でも、パリの街中で養蜂している人々をドキュメントしていた。養蜂学校というのもあるらしい。15歳のチェロ好きな女の子が、蜂の飛ぶ音とチェロの音が似ているから好きだ、チェロから蜂が飛んだらどんなに素敵か?とイメージしたら、先生が具現化してくれた。チェロを蜂の巣箱にして、中が覗けるように裏側が透明プラスチックになっている。人との付き合い方の上手くいかない少女は蜂に語りかける。6年後再会して、先生も少女のことを自分と同じ感性と直観していたと告げる。
僕が蜂の巣に引かれ、その幾何学的性格に惹かれるのもまた、同じことと受け止める。人工的な都市の中で蜂と人間が花を介して共存している。美しい映像と共に記憶に残る番組であった。

春を迎えたパリ。日に日に暖かくなる日ざしにさまざまな花が咲き始め、文字通り“花の都”となる。長い冬を越え、この季節を待ちわびていたのはパリっ子だけではない。もっとも春の訪れを待っていたもの、それはミツバチ。パリにはアマチュアの養蜂家が100人以上いて、それぞれが何万匹ものハチを飼って、咲き乱れる花々の蜜を集めている。その味は高級食材店も認めるおいしさ。オペラ座のお土産物店にて、ひそかに人気を呼んでいるハチミツ。これはオペラ座の屋上で採れたもの。オペラ座の小道具係であった職人が、屋上に5つも養蜂箱を置いているのだ。
 あるいは、住宅街にある自宅のバルコニーでハチを飼い、年間250キロもハチミツを集める夫婦がいる。また、伝統的に引き継がれてきた修道院の庭にある養蜂箱。その世話を15年続けてきた老人もいる。
 パリは昔から養蜂が盛んで、大きな公園にはよく養蜂箱が置いてある。そこには、150年も続いている養蜂指導教室もあり、実はパリっ子にとっても知る人ぞ知る趣味なのだ。ミツバチたちは、街路樹のマロニエやアカシア、公園の花壇の花々、アパルトマンのバルコンの鉢植えなど、パリ中のあらゆる場所から蜜を集めてくる。その花の多様性が、パリのハチミツの独特なおいしさを生み出しているという。都会の真ん中で養蜂に魅せられた人々と、パリで採れるハチミツのおいしさの秘密を追いながら、“花の都パリ”の知られざる魅力を再発見していく。
NHK 番組解説より引用)http://www3.nhk.or.jp/omoban/main0207.html#05


「ノンヒューマン」というコンセプト面白いですね。スーパーフラット的な視点に近い感じもする。(哲学者の東浩紀氏のコメント 「存在論的、広告的、スーパフラット的」参照 http://www.hirokiazuma.com/texts/superflat.html
スーパーフラット論から4年経過してみれば、東浩紀氏も転回点を迎えているのか、彼のblogに超越的なものの必要性を肯定する記述がされている。

確かに超越的なものは必要です。しかし僕はそれは決して伝統や国家にも(形而上学)、ニヒリズムにも(否定神学)求めない。これは『存在論的、郵便的』以来の一貫したテーマです。http://www.hirokiazuma.com/blog/
東浩紀氏のblog 2004年02月02日より引用

物凄いストレートですね。では、彼の考える超越的なものとは何なのだろうか?興味ありますね。音楽のように逐次現れてくるような時間性を持った世界に抵抗するような、阪上氏の言うところの「ダイナミックな有機的構造を脱したいわば(もの)的次元に定位するもの」であれば面白いかもしれない。内部観測的な視点から自分自身を捉え、カウンセリングすることは可能なのだろうか?
PWSの患者家族というところに戻って考える時、最も不足しているのは、告知直後からの患者家族へのカウンセリングであると思う。