電気グルーヴ/Vitamin ASIN:B00005G5WG

 1990年代初頭、千葉県の片田舎に住む当時中学生だった僕の好きだったミュージシャンはX、BUCK-TICK米米CLUBTM NETWORK。定期購読していた音楽雑誌はワッツインとパチパチ・ロックンロール。聴いていたAMラジオは伊集院光Oh!デカナイト

 電気グルーヴの存在を初めて知ったのは、TM NETWORK改めTMNの1991年のシングル“RHYTHM RED BEAT BLACK”のc/w曲“RHYTHM RED BEAT BLACK(Version 300000000000)”のリミキサーとして。友達が買ったCDからテープにダビングさせてもらったのを聴いた。「ふーん、お笑いかー」と思った。その頃放映されていたTBSの深夜音楽番組“MTVジャパン”(司会は萩原健太と光岡ディオン。邦楽のPVを沢山観ることができる番組だった)にゲストで電気の3人が出たことがあった。デビューアルバム『Flash Papa』からの曲“We Are”のPVが放送された。セクシーモデル系のお姉さんのお尻が大写しになるカットが印象的で、ピエール瀧がビデオ合成で増殖して“フエール瀧”というテロップが出て、石野卓球が早口言葉をまくしたてていて、ヒップホップのリズムで、テンポが遅い曲だった。「ふーん、お笑いかー」と思った。

 2ndアルバム『UFO』からのシングルカット曲“Mud Ebis”はAMラジオで初めて聴いた。テクノポップ調のアレンジで、“We Are”より全然好きだった。でも歌詞が相変わらずふざけていて、Xの“Week End”の方が好きだった。友達が千葉テレビのPV垂れ流し番組“テレジオ5”でのこの曲のPVの目撃談を僕に話してくれた。「ピエール瀧が少年ジャンプを持って映ってるんだけど、そのジャンプって先週出たばっかのやつなんだよ。表紙でわかったんだけど。だからあのPVも最近撮影されたばっかのやつなんだよ。すげーよ」

 当時の僕はスーパーファミコンばっかりやっていて、ファミ通も毎週買っていた。たまに電気の3人も載っていた(ミュージシャンなのに、ゲーム雑誌に)。卓球のストIIでの使用キャラはブランカで、瀧がエドモンド本田。まりんは憶えていない。そして何度目かの電気の掲載記事の近況報告に“ニューアルバム『KARATEKA』近日発売!”と書いてあった。同誌の読者投稿ページ“ゲーム帝国”が好きだった僕にKARATEKAというアルバムタイトルはあまりにもキャッチーだった。テレビ番組“浅草橋ヤング洋品店”のテーマソングにこのアルバムからの先行シングル“スネークフィンガー”が起用されていたのを僕は既に聴いていて、“Mud Ebis”より更に好きだった。シングルとアルバムは1992年10月21日に同時発売され、僕は発売日に2枚とも買った。

 電気グルーヴのオールナイトニッポンを聴き始めたのもこの頃。単行本“俺のカラダの筋肉はどれをとっても機械だぜ”“電気グルーヴKARATEKAマガジン”を購読して、野田努というライターを知り、井上三太岡崎京子天久聖一根本敬という漫画家を知り、人生を知りナゴムレコードを知った。電気の未購入のCDを買い揃えた。『662BPM By DG』の歌詞にびっくりした。

 1stアルバムのリメイク盤『Flash Papa Menthol』は1993年5月21日リリース。好きじゃなかった“We Are”が最高に恰好良いアレンジに生まれ変わっていた。1・3・8・10曲目(We Are・マイアミ天国・CATV・電気ビリビリ)が気に入って、その4曲ばっかり聴いていた。当時のオールナイトニッポンのリスナーからの葉書で「今までXのファンだったけど、この番組でかかったPRODIGYを聴いてそっちの方が好きになりました。目が覚めました」というのが読まれていて、これは僕のことだ、と思った。

 さてここまでが“はてなダイアリーが選ぶ名盤百選電気グルーヴ/Vitamin”の前振り。次の段落から本編が始まります。

 電気グルーヴ通算6枚目のアルバム『Vitamin』は1993年12月1日に発売された。この作品の、それまでのアルバムとの最大の相違点は、全10曲中約半数がインスト曲だということだ。なぜそうなったのか、幾つかの原因が考えられる。

 90年代前半の全世界的潮流であった、クラブ・ミュージックとしてのテクノ。歌詞やメロディーを必要としない、キックやレゾナンスなどのパーツのみで構成された世界観によって奏でられる機能美に貫かれた音楽。石野卓球がそのムーブメントにのめり込んでいく様子は、雑誌・ラジオ等での発言によって誰の目にも明らかだった。

 そして当時の電気グルーヴはといえば、芸能的活躍…スーパージョッキー熱湯コマーシャルスターボーリング・ダウンタウンのごっつええ感じなどのテレビ出演、オールナイトニッポンでの呼びかけに応じ、“ようこそ長嶋茂雄さん”のボード片手に千歳空港に集う数百人のファン、新譜リリース無しの時期にも減らない雑誌露出…に邁進していた印象が強い。

 デビュー当時の“お笑いもこなせるミュージシャン”というバランスが、生来のサービス精神もあってか、段々と芸能側の比重が強くなっていった時期で、それは真剣に音楽を追求したい卓球にとってはストレスにしかならなかっただろう。自身で蒔いた種とはいえ。

 そんな状況を図らずも象徴してしまった事件がこの頃起きた。1993年8月17日のライブ@神奈川県民ホールでの出来事。序盤の数曲に続く最初のMCパートで卓球と瀧が喋っていると、客席の一部から“(まりんにも喋らせて〜!まりんの声が聞きたい〜!という意味合いであっただろう)まりんコール”が起こった。このファンのリアクションに萎えた電気の3人は、以降の曲をMC一切無しでやりきる。「この時は本当に(電気を)やめようかと思った」と後に3人は述懐する。そして同年8月24日の千葉県文化会館及び31日の浦和市文化センターのライブでは、セットリストにインストの新曲が急遽追加された。おそらく一週間程で作られたであろうこれらの曲は『Vitamin』収録曲“Disco Union”“Stingray”“新幹線”“Snow And Dove”の原型である。

 それではここで『Vitamin』収録曲を順に追っていくことにする。

 1曲目“Happy Birthday”。「Happy Birthday/Happy Birthday/おめでとう自分」というサビの歌詞が従来の電気的センスを引き継いでいるが(<余談>AMラジオ番組でこの曲が宇宙初オンエアされた際、DJの伊集院光は「今からかける電気の新曲さ、歌詞が『おめでーとうー自分ー』だってさ。相変わらずバッカだよねえ〜」と発言していたっけ)、バックトラックはローランドのリズムマシンTB-303によるアシッドフレーズとTR-909の硬質なリズムが鳴り響く、このアルバムを通低するトーンであるジャーマントランス色で彩られており、電気グルーヴの新しい季節の到来を高らかに宣言している。

 次曲“Disco Union”も新機軸で、独自のセンスによる打ち込み(というかデトロイトか)によりまるでプラモデルみたいなファンク・ミュージックになってしまっている。

 “Hiking”はアナログシンセの音色が上品で、クラフトワーク好きなまりんの特質がよく出ている。

 “ニセモノ・フーリガン”は後の“誰だ!”に通ずる連想的歌詞が目立つが、曲的には前作までの延長線上という感じがする。ロック的な美意識に支えられているというか(そういう意味ではビッグ・ビートの先駆けといえないこともなくはない)。ちなみにこの曲はライブで披露されたことは一度も無い。

 “富士山”。アルバムに必ず1曲は入っているピエール瀧メインの曲だが、これはそれら瀧曲の中でも一番の完成度を誇っている(“あすなろサンシャイン”も同じぐらい良いけどね)。この曲もロック的美意識に支えられた曲といえるが、ここまで突き抜けていれば何の文句も無い。

 次曲“Stingray”からインスト曲4連続で、アナログ盤に例えるとここからがB面といった趣きだ。この曲もまりんらしさに溢れていて、水のはねる音やジェット機のエンジン音などのサンプリング・スティールパン・英語ナレーションなど、後のソロ作に通じる要素も多い。

 “Popcorn”は60年代のムーグシンセインスト曲をアシッド調にカバー。選曲アイデアは卓球だが打ち込みはまりん。

 アルバムのハイライトである“新幹線”。完全クラブ仕様のアシッドトランスチューン(正直言って、当時初めて聴いた時は何が良いのかさっぱりわからなかった。大音量で聴かないと意味が無い曲だと今でも思う)。

 そしてひたすら美しい“Snow And Dove”でチルアウト。本来ならここで終わるはずだったが、レコード会社の意向によりボーカル曲を追加させられる。

 だがそれがインディーズ時代の名曲“N.O.”だったものだから、なんらマイナス要素になっていない。嬉しいおまけみたいなもの。「話す言葉はとってもポジティヴ/思う脳みそほんとはネガティヴ/バカなヤングはとってもアクティヴ/それを横目で舌打ちひとつ」というフレーズの影響から僕は未だに脱し切れていない。(<余談>当時のロッキング・オン・ジャパン誌上では山崎洋一郎が「最後に“N.O.”が収録されているのがこのアルバムの限界」とかなんとか発言していた。あと鹿野淳がアルバムレビュー欄で批判していたっけ。後日撤回していたけど)

 このアルバムは、一言でいえば、当時流行のクラブ・ミュージックをJ-POPのフォーマットで消化した、というだけのことなんだけど、卓球がテクノへ傾倒したのは流行なんかじゃなくて愛ゆえだろうし(さもなくば、それまで順調だった路線を変更して半分歌無しのアルバムなんて作らないだろうし)、また、電気グルーヴとしてこの作品をリリースしたのも(つまり、J-POPのフィールドにテクノの因子をばら撒く状況にしたのも)ある程度の計算があってのことだろうし、それ以前に、ここには音韻と音響の幸福な融合が成立している。つまりエポックな、単純に恰好良いアルバムだということ。そして、何か新しくて面白いことが始まっている予感に満ちたアルバムだということ。

 1994年1月8日、東京ベイNKホール。『Vitamin』をひっさげて行われたライブツアーの最終日。僕が初めて観に行った電気グルーヴのライブであり、そしてこの日以降、関東で行われる電気のライブにほぼ欠かさず行くことになるきっかけのライブにもなった。当日は吉祥寺のSHOP33で買ったRISING HIGHの“HARD AS FUCK”と書かれたTシャツを着ていったら、WARPのロゴ入りバッグを背負っている人や、TB-303のケース(なぜあんな重いもの…)を持っている人をちらほら見かけた。もう少ししたらKEN ISHIIの“Extra”が出て、日本にも本格的にテクノブームが訪れることになる、そんな時期。会場に入ると、客入りのBGMがダブダブのアンビエント。スモークも焚かれている。この日のライブの模様はビデオ『ケンタウロス』に収録されています。客電が落ちる。“Snow And Dove”が流れる。上からスクリーンが降りてくる。CGの男根が屹立する。電気グルーヴのロゴが表示。男根がこちらに迫ってくると同時にスクリーンが昇って1曲目が始まり………。



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 はてなダイアリーが選ぶ名盤百選、次はid:miyaviさん、よろしくお願いします!



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※2003.11.24追記:id:tomcot:20031123#p2に指摘されて気付いたのですが、まりんコールが起こったライブは1993年8月17日@神奈川県民ホールではなく、1994年5月3日@浦和市文化センターの間違いでした(『The Last Supper』のブックレットにもそう書いてありました)。慎んで訂正いたします。あと“ニセモノ・フーリガン”は1993年12月2・3日@札幌ファクトリーホールでやったことがあるそうです(これも同ブックレットからの情報)。慎んで訂正いたします。記憶だけで書いちゃ駄目ですね。とほほ。