志賀直哉 クローディアスの日記

なんかシェイクスピア研究は深く研究され尽くしてるから、やり易いかな?⇒でもキツイゼ…

短編「クローディアスの日記」(1912)は、帝国劇場における坪内逍遙の『ハムレット』公演(1911)を契機に生まれた。
ハムレットの英国への追放に至る経緯を、無罪のクローディアスの視点から日記形式に綴りあげる。志賀の日記や書簡が示すように、彼の本作執筆の目的は、自己の文学の糧として『ハムレット』を摂取・利用することより、むしろ世間の『ハムレット』批評に一石を投じることにあったと思われる。多元文化主義の流行する昨今、本作を「異文化圏のシェイクスピア」の系譜に位置づけ、その文脈で論じる研究も増えてきた。
発表では「創作余談」や書簡なども参照しながら、本作の体現する志賀『ハムレット』批評の特質や意義、限界について考察したい。

志賀直哉の「ハムレット・ゲーム」 大矢玲子
明治45年9月、雑誌『白樺』に発表された志賀直哉の「クローディアスの日記」は、クローディアスの視点から『ハムレット』を読み直し、彼のいわゆる兄殺しはハムレットの病的な想像力の産物に過ぎず、冤罪である、という解釈を打ち出した。
 ハムレットが「情緒の道化」であるのと同じ意味で、志賀の小説の主人公たちは「気分の道化」であり、内部感情の過剰な彼らには「外部の事情」はもはや問題ではない、というのは野島秀勝の優れた洞察である。だが、病んだエゴを小説として表現するときに、いわばその「客観的相関物」として、志賀が繰り返し立ち返ったのは「家族の不和」という状況設定であり、そこにも『ハムレット』が大きな影響を与えているのだ。
 この論考では、実母の死去によって生じた家族の軋轢(「何が悪いといつて、死むだお母ッさんが一番悪い」)をとおして自我の問題を描く志賀の小説技法上の試みを「ハムレット・ゲーム」と仮に名づけ、『暗夜行路』にいたる私小説群を『ハムレット』翻案作品との関わりから読解することを目標としている。また「クローディアスの日記」で、シェイクスピアの「狂言を攻撃」しつつ「自分を云い表」した志賀の手法を、「兄弟」という観点から再検討し、クローディアスの罪の本質を解明したい。

『―家父長制における男性たちの葛藤』『この「誤解」と「真実」のぶれ』―多義的な「真実」・・・強い倫理観、鋭い感受性、強靱な自我にささえられた作風
もやしもん?こうじ菌水谷尚子反日解剖;中央大

その2 11・28

★研究作品成立の背景」と「ハムレット」の関連

後すじ>企みを見破ったハムレットは無事デンマークへ戻る。一方、ハムレットに父を殺されて傷心したオフィーリアは発狂し、川に溺死。彼女の死を知らないハムレットは、たまたま墓地を通り、それが愛するオフィーリアの埋葬のための墓穴と知るや、途端・驚愕と深悲に暮れる。
 父ポローニアスの仇を討つレアティーズは早くもハムレットと争い、御前試合を行うことに展開する。しかしその裏には、ハムレット謀殺のためのクローディアスの奸計が。――惨劇である。誤って、毒杯を飲む后ガートルード、毒刃に倒れるハムレットとレアティーズ。そして瀕死のレアティーズから真相聞かされたハムは、最期の力で父の仇クローディアスを刺し殺す。

成立の背景>文芸協会の「ハムレット」の劇において、彼が土肥春曙の演ずるハムレットの軽薄さに反感を覚え、逆に東儀鉄笛のクローディアスに好感を覚えたことから
クローディアスは道徳心から苛まれているに過ぎない。

ハムレットへの共感を得ない⇔クローディアスへの同情と好意
・劇での王の態度以外は幽霊の言葉のみがクローディアスの兄王殺しの証拠であり、確かめたのもハムレット一人。
ハムレットは父の死に固執する割りに、自分が殺したポローニアスの死に関しては、その息子と娘への配慮がなさ過ぎる。


英文学からの視点>ドーバーウィルソン:「ハムレットは、劇中世界に死をもたらす。生たるクローディアスやガートルードに対して、彼は死たる方向へ向かわせる。」
※致命的な読み落としがある※
→亡霊の告白と劇中劇のクローディアスの態度からのみハムレットが、クローディアスが父王を殺したと確信を得るのは、客観的証拠がまるで存在しないことと志賀は考え、この狂言を攻撃してやろうとした。が、これは間違い。確かに、作中、ハムレットは知りえないことであるが、クローディアスが独白の場で兄王殺害のことについて述べているので、「ハムレット」の読者なり観衆は、クローディアスが兄王を殺したことを客観的に見つめ、理解しているはずである。


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