玄田有史先生の「創造的安息(Creative Rest)」(3)

またしても思い切り間が空いてしまいましたが、1月に開催された社研のシンポジウムのご紹介の最終回を。その前になにせ間が空いたので前2回のご紹介のリンクをはっておきます。
玄田有史先生の「創造的安息(Creative Rest)」
http://d.hatena.ne.jp/roumuya/20130415#p1
玄田有史先生の「創造的安息(Creative Rest)」(2)
http://d.hatena.ne.jp/roumuya/20130419#p1
1回めが第1部の玄田先生の基調講演とhamachan先生のコメント、2回めが第2部の豪華メンバーによるパネルのご紹介で、今回はそれに続く第3部、全体討論をご紹介していきたいと思います。まず司会の玄田先生から、

玄田 わかりました。さあ、あと残り時間は30分ちょっとになりました。冒頭でお約束した通り、できれば皆さんとディスカッションしながらと思っておりますので、ご意見をいただきたいと思います。…
「創造的安息」自体については、大変厳しいご意見とか、。「内容はいいんじゃないか」と言われつつも、「どうか」とか、「新聞記事には絶対しちゃいけない」とかいろいろありましたすけれども──ならないと思いますが(笑)。、「これは多分自分だけではなくて、みんなモヤッとしているんじゃないか」とか、「これは是非みんな聞きたいんじゃないか」ということを思いつく方があれば、とくに優先的に。「いや、それはそうじゃなくて、自分は聞きたいことがある」という方でももちろん構いませんが、いかがでしょうか。
(玄田編前掲書、p.94)

という導入があり、玄田先生としては「創造的休息」について議論したかったらしいのですが、最初に立たれた方のご質問は「企業の利益と、個々人を強くしていくという変化とを、どう整合的に進めていけばよいのか…さっきの思考停止にならない余裕を持つというのはすごく大事だと思うんですが、会社としてはいまの状況のまま思考停止にして、どんどん働いてもらったほうがよいという考え方も、なくはない。」というもので、これを起点にいろいろ議論が展開しました。

玄田 それは多分、私への質問じゃないかと思います。そこでまず僕から答えて、もし追加とかご意見があればお願いします。
 さっき無駄という話がありましたけれども、私はね、「これって本当に無駄なのかね」とか、「必要なのかね」と話しあうことから始まるような気がします。つまり、いまではもうあたりまえになりましたが思うけど、一時ISO14001への対応が急がれた時期がありました。 でも当初はとかありましたでしょう。会社のなかで「環境問題に取り組む」なんてことを言うと、「そんな、無理だよ」とか、「そんなことして俺の給料が上がるのか」とか、「また雑用が増えて嫌だよ」なんて、そういう状況でした。けれど「工場からゴミを出さなくてもてできるんじゃないの?」とかって話していたら、「あ、できるね」「あ、できちゃったよ」「やればできるじゃん」なんてなって、経営効率がアップして、みんながハッピーになったという。それは別に、環境への取り組みだけではない気がします。多くの個人が創造的安息の機会を手にするということにも、同じようなことがあるように思います。
 もう一つの事例は、…実は僕のなかでの「創造的安息」と関係しているんです(笑)。それは、どこかで何度となく話をしているんです、やっぱり。それは会社なのか、飲み会なのかわからない。でもし、それこそトップと部下とかの立場を超えて、話し合っているんです。いま、そういう会社がどれだけ減っているのかわかりませんが、「そういうのを話しあってもうのは無駄だね」というのは、みたいなことは、どうなのかなと思うわけです。雇用システムを変える壁は、つねに「面倒くさい」ということです。なぜ問題があっても変わらないかといえば、結局は「面倒くさい」んです。雇用問題の敵は「面倒くさい」なんです。
 そうすると、また濱口さんから何か言われる声が聞こえてくるんだけど(笑)、だけど面倒くさいけどやらなきゃいけないこともあって、それをなんとか上手にやっていると、創造的安息が生まれると、私は思っています。クリエイティブレストという……。どうでしょうか。

濱口 …こういう場だから言うんですが、なんか日本でちょっとマスコミなんかでもてはやされているところで、社長がかっこいいことを言っているところって、すごくクリエイティブなんだけど、そのクリエイティブって、「社長が自分の考える、「僕の考えたクリエイティビティーを下っ端にみんな押しつけている、そういうクリエイティブなんじゃないの?」という感じがすごくしているんです。いて、「それが、この余裕のなさの元なんじゃないの?」というのが、じつはさっきから申し上げていることなんです。この間に(注:玄田との間)、ものすごい断崖絶壁を感じるんですけど。
玄田 そんなことないんじゃない。
濱口 つまり裏から言うと、そういうのでない本当のクリエイティブって、それは私はあるだろうと、私は思っています。…ただ、それがいまの日本の文脈、「グローバル化だから、もっと競争が厳しいから、もっとやんなきゃいけない、もっとやんなきゃいけない」と、毎日のように『日経新聞』で繰り返し書かれているようなことのなかにそれを置くと、それってクリエイティブという名の、むしろ奴隷根性につながっているんじゃないのかな。…だとすると、わざと「クリエイティブなんてやめようよ」と言ったほうが、もっと人間は、クリエイティブになるんじゃないのかな。
玄田 皆さん、どうぞ。
白波瀬 質問があるんです。クリエイティブの話もいいんですけど、ちょっとクリエイティブから地味なほうに移っていいですか。中村先生に質問なんですけどね。「自発的に働き過ぎて続けているみたいだ」というんだけど、そこのところでは「働かない」という選択がしにくいから、働かないなり、仕事をここで切り上げるという選択肢を制度的につくってあげるという、そういうふうに解釈をしてもいいですかという、確認の話です。
 あと、働き過ぎるというところは、「働き過ぎるのがだめだ」ということを判定するための基準値となる働き方というのは、じゃあどこにあるんですかということを、誰かが決めればいいんていいんでしょうかすかね。つまり今いまの議論のままだと、どんどん個人、個人、個人……になってくると。、じゃ、誰がそれを決めるんだということになっちゃうんですけど、その二つについて教えてください。
中村 多分、前者はその通りだと思います。後者は濱口さんじゃないけど、労働基準法は週法定労働時間40時間なんです。…それが33条と、三六協定を結んだときに命ずることができるようになるんですが、…いまはどんどん、どんどん増えていく。…
 これを僕は「働かされている」とは思わないんです。やっぱり自発的に働いちゃうので、そこを強力に労使できちっと枠をはめたほうがいいと思う。それは、家族にとってもいいし、その人の人生にとってもいいし、それこそ“ゆとり”にとってもいいということです。
水町 どこで線を引くかというレベルが三つあって、真ん中にあるのが法律なんですよ。…まず第1段階が労使協定で、…その上で、「じゃあ法律で決めているんだからいいよね」というのが第2段階です。ただし、法律をで国会で多数で決めても、…「生命とか身体を傷つけるようなことまで自分で選択できることは、よくないことだ。憲法的価値で、法律で決めてもだめですよ」という第3レベルの問題があります。…そういう三段階ぐらいのレベルがあって、いずれにしてもその三段階、どこでも話しあって決めるしかないんですよ。
 同じような考え方とか価値観を持つ人たちが、労使のレベルであれば労使でレベルを引くし、国会ので選挙で選んだ過半数の人たちが選ぶというので法律で決まるし、多数でみんなを殺すまで働かせていいかというと、「それはだめだよね」というときは「少数者であっても働き過ぎるのはよくないよ」という、線をどこで引くかというのは、最終的には議論をして、討議をして、話しあいで決めるしかないというレベルの問題だと思います。
玄田 話しあう力。はい、(佐藤)博樹さん。
佐藤 圭介さんの「、自発的に働いている」ということについて。僕は、やっぱり少し分けなきゃいけないかなと思っています。とくにホワイトカラーを考えれば、一番目はよく濱口さんもの言われている、日本はジョブ型キャリアをやはり目指す必要があって、そうでないと今後もやはりマネージャー的に働いてしまうというのが、一つあると思います。
 2番目は、会社の人事制度の評価がそうなっていなくても、現場のマネージャーからすると部下の働きぶりを評価する場合でも、かけた時間がすごく考慮される。……つまり、アウトプットの差はほんのちょっとで、かけた時間の割にはを見れば大したことではなくても、やはりアウトプットでさっきの「無駄だ」というところまでを見てしまう。無駄なんだけど、それはきちっと綺麗な出来ばえで出来たほうを評価してしまうという、やはり評価の仕組みというのは考えなきゃいけないかなというのが2番目です。
 あと三つ目は1と2の重なりなんだけど、仕事以外でやることのないという人が、たくさんいることですよね。…5時半に帰ってもやることがない。結婚していて家に帰っても。つまり、働き方と同時に生活のあり方全体を見直すという、早く帰って何かやりたいということがないと、早く帰ろうと思わないいのね。やっぱり三つの要素があって、なかなか帰るのが難しいということになるんです。
(玄田編前掲書、pp.94-98)

ということで質問者の意図からは相当に外れていっているわけですが(笑)、前半の玄田先生のお話はなかなか面白くて、つまり仕事でいえばISO14001に取り組むようなこと、労使ともに即座には必要性や利益が認められないことに取り組むことを通じて創造的成果(とまとめていいと思うのですが)が出てくることがあるわけで、休息にもそういう効果が期待できる、それが創造的休息だと言うことでしょう。トップ、幹部、部下のいわゆるノミニュケーションにも同じような効果があって創造的休息(こちらは休息でしょうか)となりうる。要はISO14001とか呑み会とか面倒くさいけどやることで創造的休息につながっていくのだというわけです。
でまあhamachan先生はまた同じことを繰り返されたわけですが、当時はそうも思わなかったのですが今書いていて思い当たるフシがあるわけで、お察しがつくと思いますがユニクロです。これは先日の日経ビジネスやら先週の朝日新聞やらで同社の名物経営者柳井正氏がジャンジャン吹き上がっておられるのでまた近いうちに書きます。そういうのを見ると(省略しましたが)hamachan先生も「戦略的に」とおっしゃっておられたように、脱クリエイティブ、というのもありうる作戦かもしれません。
その後玄田先生には残念ながら(笑)白波瀬先生が「クリエイティブの話もいいんですけど」と方向転換をされ、長時間労働と働きすぎの話になったわけですが、続く議論がどうも白波瀬先生のおっしゃられる「働かないなり、仕事をここで切り上げるという選択肢を制度的につくってあげる」、労働時間の上限や休息時間の下限を法律で規制するという方向に流れる雰囲気があって困ったことだと思いました。このあたりはこのあと自分でしゃべりましたのでまた書きますが、この議論で面白かったのは佐藤先生が最後に指摘されている「仕事を終わって早く帰ってもやることがない」という問題で、これもずいぶん古い昔から指摘されていることですが、これこそまさに玄田先生のいわれる「面倒くさい」そのものではないかと思いました。要するに、早く帰ってなにかやるというのが、実は面倒くさいので、結局職場に残ってしまう。そうではなくて、まあ大学院に行けばそれがいちばんいいのかもしれませんがそんなカネはないという声が聞こえてきそうなのでそこまでは欲張らないとしても、それこそ図書館に行くなりジョギングをやるなりして、面倒がらずになにかをやれば創造的安息に近づくだろうということで、これにはhamachan先生も反対はされないでしょう。ただ、それと職場であれこれ仕事周りのことを勉強するのとなにが違うのさという感はあり、まあ佐藤先生が言われるとおり今現在の仕事を離れるという気分の違いが実は重要なのかなあ。このあたりはよくわかりません。
さて上記の佐藤先生がご発言されているとき、社研の高橋陽子さんが私のところに来られて「次あたりますのでよろしく」とマイクを押し付けたのでありました。正直もうとっくに人事担当者ではなくなっている私としては思うところはありつつもそこで申し上げるつもりはなかったので相当にうろたえましたが、まあせっかくの玄田先生のご指名ということでいくつか申し上げました。
具体的になにをしゃべったかは報告書をごらんいただければと思いますが、まずは玄田先生ご指名ということで創造的安息について意見を述べなければいけないだろうということで、やや逆説的ですが、みなさん休むことの重要性、それも「安心して休む」ことの重要性を強調されますが、働くことなくして休むこともないでしょうということを申し上げました。「安心して働ける」からこそ「安心して休む」ことができるわけで、これは実は表裏一体ではないのか。
その関連で、議論が長時間労働から発展してあたかも「働くことは悪いこと」という雰囲気が流れていたように感じたので、働くことがそんなに悪いですか、ということを申し上げました。

 二つ目はそれに関連しますが、さっきちょっと“ゆとり”教育の失敗という話が出ました。僕は教育は全然知りませんので、とってもとんちんかんなことを言うと思いますが、“ゆとり”教育でいちばんまずかったかなと思うのは、なんとなく「勉強することが悪いことだ」みたいな風潮ができちゃった。もうちょっと言えば、「勉強のなかで競争することが悪いことだ」みたいなのが出来てしまったというのが、じつは大変によろしくない。意見はいろいろあると思いますが、私はそんなふうに思っているんです。大変失礼ながら先生方の議論を拝聴していまして、とても思ったのは、「働くことって、そんなに悪いことなんですか」という印象を受けたんですね。もちろんいいんです。休みにくいとか帰りにくいとかいうことは労使で話しあってルールを決めて、「このぐらいにしておきましょうよ」というのは当然あっていいことだと思うし、むしろ望ましいことだと思います。でも何かそこに、「でも自由にさせてください」というのがあってほしいなと。失礼ながら、中村先生が私のところに来られて、「…働き過ぎですね」と言われたら、否定するつもりはないです。「でも、先生に迷惑かかってないでしょう」と言いたいわけです(会場笑)。そこのところですね。…病気になるような働き方は無理やりに止めなくてはいけないと思いますが、そうでないんだったら自由に働かせるという道もあっていいんじゃないか。やっぱりルールを決めるのも労使の自主的な話しあいで決めるのであって、政府が決めるのははっきり言って、よけいなお世話だと私は思います。
(玄田編前掲書、pp.98-99)

うーんしかし読んでみるとちょっと何言ってるかわからないですね。その場で聞いた人にはかなり伝わりにくかったのではないかと反省です。何を言いたかったかというと、まず競争を否定するのはやはりよろしくないのではないか。職場においても、キャリアをめぐる競争があれば当然自主的に働く(働きすぎる)ということが出てくるわけですが、そこで競争そのものを制約することはまずいだろうし働く人も望んでいないのではないかと思うわけです。もちろん、無際限な競争になってもまずいわけで、労使で話し合って自主的なルールを決めてそれを守ることはとても大事なことで大いにやればいいわけですが、しかしまともな企業で本当に労使が対等の立場でしっかり議論をしてルールを決めれば、中村先生の言われるような「自発的に働いちゃうので、そこを強力に労使できちっと枠をはめ」るようなルールにはならないのではないか。やはり回りに迷惑かけないなら一定の範囲で「自由にさせてください」と言えるようなルールになるのではないかと思うわけです。ということでまことに失礼にも中村先生に喧嘩を売るような発言になってしまい申し訳ありませんでした。最終的に言いたかったのは最後の「政府が決めるのは余計なお世話」です。
さてこのあたりではけっこう発言が長くなっていて、しかも上記のとおりわかりにくく、かつ創造的安息からは離れてきておりましたので、司会の玄田先生から早く終われテレパシーが強力に送られてきておりましたが、あえてもう一点、無駄について無駄なことを言ってみました。なにかというと上記のそれと職場であれこれ仕事周りのことを勉強するのとなにが違うのさという話で、ひとつは10個のプロジェクトのうち1個当たれば御の字だというような投資というのもあるわけで、その時に残りの9個は無駄だった、そんなことやらなければいっぱい休めたのにねとか、無駄なプロジェクトなのに長時間労働してそれこそ無駄でしたねとか、そんなことはさすがに言わないでしょうと。同じように、ていねいに仕事をやることで見えてくること、身につくことというのもあるのではないか。もっと直接的に、やはりていねいであることによって周囲のストレスを軽減して全体の生産性が上がることもあるのではないか。そういう点にも注意が必要ではないかと、これは無駄に関する無駄な発言でしたが、しかし創造的安息にもけっこう関わってくるのではないかとも思ったのであえて申し上げたのでした。
さて小職のこの生意気な発言に対して、先生方からはていねいにリプライをいただきましたのでご紹介と若干の感想を。とはいえ水町先生からは特段のコメントはなく(まあ私も先生のご発言には触れませんでしたので当然ですが)まず中村先生からはこんなコメントを頂戴しました。

中村…僕の調査したドイツのある企業ではは、サッカーのマンチェスター・ユナイテッドが町にやって来ると。そこに自分たちの持っているサッカーチームがある。それを自分の町で、UEFAチャンピオンズリーグでやると。そのときに「操業をやめてくれないか」というのが、事業所委員会の大きな主張でした。いろいろ交渉して、結局は金曜日のシフトを一つやめました。僕はそれを聞いて、同じように名古屋グランパスエイトマンチェスター・ユナイテッドを迎えるというようなことが出てくるかどうか。これは価値観の違いだと思うんだけど、やっぱりそっちのほうが人間的かなと思うんですよ、僕は。そのほうがいいかなと思って。多分、違うと思うけど。
(玄田編前掲書、p.101)

いや違うどころかまったく同じだと思います。まあ名古屋は大都市過ぎるのでそうばならないとは思いますが、仮にマンUが来日して平日に鹿嶋市アントラーズとクラブW杯をやるとなったらたぶん新日鉄住金鹿島は休みになると思います。住金さんを信頼しすぎかなあ。でも現に過去にも自分の工場のチームが都市対抗野球の決勝戦に進んだから操業を止めて応援に行きましたとかいう話はありますし、実際都市対抗野球では平日の試合でも君たち仕事はどうしましたかというくらいの大応援団になることがあります。もちろん日本では休日の追加ではなく代替出勤日が設定されるだろうとか、そもそもマンU対鹿島は日曜日に組まれるだろうとかいう話はありますが、日本の労使もそれほど捨てたもんではないと思います。
さて佐藤先生からも私の発言に対するコメントは特になく、次に白波瀬先生からは、これは私の発言だけに向けたものではないと思いますが、こんなコメントがありました。

白波瀬 一律ルールということが出ましたが、「個人的には働きたいのに、でも働くことはもしかしたら悪かもしれない。どうなの?」という意見、まさしくその通りだと思います。ただ、個人としての選択と、社会という一つの塊のなかでの制度をどうつくるかというのは、区別をして考えなくてはいけない。ここで課題として挙げられているのは、制度としての働き方であり、それにリンクした休み方をどのように設計するかという話だと思います。個人の選択が剥奪されること自体は問題だと思いますが、選択できる強い立場である場合ににおいては、ある意味で制度としての優先順位は低くなるのではないか。言い換えれば、いろいろな事情で選択できない人をどうするのかという制度を、優先的に考える必要があると思います。
(玄田編前掲書、p.102)

もちろんご指摘のとおりで、私もいろいろな事情で選択できない人をどうするのかという制度を、優先的に考える必要があるとは思います。ただ、それがどういう制度かというと、やはり休めない、休みにくい人が休めるように、休みたくない人まで含めた全員を無理矢理に休ませるという制度ではないのではないか。あとで書きますがたぶん白波瀬先生もそれは望んでおられないでしょうし、繰り返しになりますが少なくともまともな労使がしっかり議論してルールを作ればそういうものにはならないだろうと思います。
続いてhamachan先生のコメントですが、

濱口 …世界的にどこだって管理的な仕事とか、あるいは研究職などの仕事にギチギチ一律の規制をしようなんてばかなことはしていません。そういう普通のスタンダードからすると、日本の特色は「そんなに自由に働いてないよね」という人が結構いる。…じつは世界的には必ずしもそういう人たちじゃないような人でも、そういう人たちみたいに思って働いている。…
 ただ、本当にそれが維持されているのか?ちょっと話が二重、三重になりますが、じつはそれで閉じた世界と、外との関係があって一種の外部不経済をもたらしているのではないかという話が一つあるのと、「一見閉じているように見えても、本当にみんなそうなの?」という話と、それから先ほどの私のコメントで申しあげたのは、世界的には必ずしもそんな自由な働き方をしてない人たちが共同主観的にみんな自由に働いて、上は「よしよし、さあ、みんな頑張れ」と言って、それでワッとやっていたのが今でもそうかというと、多分そうでもないだろう。そうすると、本当は自由な働き方じゃないんだけど、しかし自由に働いているはずが、「そんなに自由に働くな」という変なダブルマインドみたいな状態が、じつはいま起こっているんじゃないか。それをどう考えるのか。多分、答えは2方向あると思います。どちらか一義的に正しいと、私はここで言う気持ちは──個人的にはありますが──ありません。ただ、そこにそういう問題があるということは認識しないといけないんじゃないか…
(玄田編前掲書、pp.103)

これはhamachan先生が常々主張されている内容で、先生のブログでも繰り返し言及されていますが、要するに欧米では社会的に限られた一部のエリートだけに認められている働き方が日本では大企業ホワイトカラーを中心にかなり広がっていて、それは日本経済が一定の成長を実現している間はうまく機能していたけれど、最近では長時間労働、非正規労働の背景になっていたり、倒産や整理解雇で雇用の安定が綻びてきていたり、さらには働き方だけエリート並を「自由に」(?)求められるだけで労働条件は低次元ですという、これはかつてアニメ製作などで指摘されていた類型と単なるブラック企業と2類型ありそうですが、そんな実態もある。ところがそこで働く人は自由にやっているつもりで、そこに自由にやるなと言う必要性も出てきている…という話でしょう。詳しくは先生のブログをご参照ください。
でまあ繰り返しになりますがリベラルな私は好きにさせてやれよ他人に迷惑かけないならと思うのに対してソシアルなhamachan先生は限られたエリート以外はジョブ型正社員に押し込めて無理矢理にもワークライフバランスさせてノンエリートに甘んじせしめよと主張されるわけで、まあ2方向だよなとは私も思います。あとは出自や学歴で限られたエリートが選抜されがちな欧米型の社会(まあ特に米国ではその学歴を獲得するために相当の努力をするわけですが)と、そうはいっても才能と努力次第でエリートへの道が開けているかに少なくともみえる社会とどちらを好むかという問題なのですが、競争が嫌いな人たちは前者が好きかもしれないというのも何度も書いてきた話ですね。
最後に黒田先生のコメントをご紹介します。

黒田 …「働くことはそんなに悪いことか、自由にさせてください。圭介先生には迷惑をかけてない」というようなご発言があったかと思います。確かに圭介先生には迷惑をかけてないかもしれませんが、どうでしょう。周りの……。
玄田 部下に迷惑をかけているんですか(会場笑)。
黒田 「本当は帰りたいのに帰れないな」みたいな感じの、それは経済学的には「負の外部性」と言ったりしますけれども(会場笑)、そういうことがあるからこそ、個々人の完全に自由な選択に委ねていると一つの長時間均衡に行ってしまうのではないかというのが、私の一つの考え方です。それから、結果として無駄だったものと、本当に無駄なものを識別すべきとおっしゃったのも、もちろんそれはおっしゃる通りで、結果として無駄だったものというのは別に無駄ではなくて、私は投資なんじゃないかなと考えております。
(玄田編前掲書、pp.103-104)

当日は自分がきちんと発言できてないから仕方ないのだとは思いつつもこうまとめられると困るなあと思いながら聞いていたのですが、まあ私としても「個々人の完全に自由な選択に委ね」ることまで考えているわけではありません。
ただ、「本当は帰りたいのに帰れないな」みたいな感じの「負の外部性」に関しては、それこそ労使の努力でルールを作るなりなんなりの取り組みが適切であり、法的な規制は余計なお世話というか、行き過ぎだろうと思います。これに関しては実はシンポジウム後のレセプションで複数の労組の幹部の方から「そういうのは私たちずいぶんなくしてきましたよねえ」というお話をいただき、実際そうだと思いますし、だからここでも「労使でまともに議論したらそういう一律のルールにはならない」と強気に出ているわけです。
脱線しますがもう三年くらい前になりますが大竹文雄先生、水町勇一郎先生、松浦民恵先生とニッセイ基礎研のシンポジウムのパネルに出させていただいたことがあり(http://d.hatena.ne.jp/roumuya/20101022#p1)そこでも同じような議論になったのですが、その中で松浦先生がこんな発言をされていて、

 大竹先生は、本人が好きで働いていて周りにマイナスの外部性を及ぼしていなければ、長時間労働でもよいのではないかというご意見をお持ちかと理解しましたが、実際職場で特定の方がマイナスの外部性を及ぼしているかどうかについて、認識を共有するのは難しいのではないかと思います。どこの企業にもある例かもしれませんが、「僕は接待で毎日6時に会社を出なくてはいけない。だからなかなか時間が取れないけれども、毎朝早起きして7時に会社に来るから、何か質問がある場合にはその時間に遠慮なくしてくれたまえ」という管理職がいる職場は、大概全員7時に出社しているのではないでしょうか。
http://www.nli-research.co.jp/publicity/event/2010_panel_d.pdf

その場ではこれ以上の議論にはならなかったのですが、その後にパネリストで呑んだ際にはさすがにそんな職場はもはやめったにないでしょうという話になったことを記憶しています。いや卑近な例で申し訳ありませんが私自身職場に向かって毎朝8時45分には出社しますと言っているわけですがそのとおり出社すると職場にいるのは私だけという日が往々にしてあるわけでして(笑)。ほぼ毎日6時には職場にいないというのも同じだな私(笑)。
ということで、「認識を共有するのは難しい」というのはそのとおりなのですが、しかし比較的共有しやすい個別労使のレベルでは共有の努力が続けられていて、それこそ「7時には出社しなさい」とか言う管理職にはおいちょっと待てよとやっているわけです。そもそも、これは佐藤先生が正しく指摘されたとおりで、「会社の人事制度の評価がそうなっていなくても、現場のマネージャーからすると部下の働きぶりを評価する場合でも、かけた時間がすごく考慮される」。まあ「すごく」考慮されるかどうは別としても、常時仕事に時間をかけることができるということが、それができないこととの比較上、一定程度評価されることはある意味自然なことだろうと思います。その時、評価のルールとその運用についてなにを適切としていかにそれを実現するかという話は、しょせん国や政府が口出しできる領域ではなく、個別労使でやっていくしかないし、それをやっている労使というのもあるわけです。
もちろん上司が帰らないから帰りにくいという職場もまだまだあるのが現実だろうとは思いますし、往々にしてそういう職場ではそれを解決できるだけの労使関係ができていないことも多かろうとは思うのですが、だからといってまじめに自主的に取り組んでいる労使にまで一律な規制の網をかけるのは依然として余計なお世話だろうと私は思います。
さて私が申し上げたことに関してはこんな感じだったのですが、フロアとの議論の中でもう一つ面白い話題がありましたのでもう一回続きます。