第19回 粒々塾 講義内容

第19回の塾のテーマは、
「自然に意志はあるのか〜日本人の自然観と宗教観〜」
というものでした。今回の記録担当は菊池亮介塾生。
以下、講義内容にのっとった彼の感想、考えを今回の議事録とします。


核兵器に怯えていた時代は「終わり」を告げ、皮肉なことに人々の生活に
欠かせない電気を生み出す原子力発電の事故によって放射線という未知の
領域に怯える時代の「始まり」を我々は経験している。
震災直後、メディアの一斉報道があり、全国民がココロを一つに
通わせようとした時は、すでに過去のことであったような気がする。
人々の関心の終わりを象徴sるかのように、最近では「風化」という
言葉さえ使われるようになった。しかし、被災地では未だ様々な問題が山積し、
人々は不安を持ちつつも、“希望”という光を掴むために、事実をありのままに
受け止め、前に進む決意を固めている。

「人の心の中には龍が住んでいる・・・。人格と言う龍が。
年をとって経験を積むとその龍も大きく、強くなっていく。
・・・それを大きく強く育てなさい、自分の龍を養いなさい」
ブータンワンチュク国王が被災地を訪問し、子供達に投げかけた
このメッセージは、きっと子供たちの、今後の人生観を変えるほどの力強い言葉
だったにちがいない。幸福指標は、物欲の度合いではなく、
心の満たされ度合いである。

大震災直後、ヒトは極度の緊張状態に陥り、物資の買い溜めに専念する者、
即座に県外に脱出する者、緊迫時にボランティアに精をだす者、
助け合いの精神をみせる者など、
まさに人間の心に宿る「人間力」という名の多種多様の龍を、
人々は目の当たりにした、歴史的一コマであったのではないだろうか。

長渕剛氏の詩『復興』は、海の男達が悲壮感に打ちひしがれ、
ぶつけようのない憤りのココロを持ちつつも、自然の厳しさを受け入れる
強靭な心の持ち主であることを詠っている。
彼は一見自然を罵倒するコトバを投げかけているようだが、
そこにあるメッセージはまさにカレラと同じ目線に立った心の内を表現している。
自然と共に生き、繰り返されてきた災害から何度も立ち上がってきた
先人達の長い歴史があるからこそ、「大切なモノ」を失ったという現実を受けとめ、
それを背負い前に進んでいこうという強いメッセージが込められているように感じる。
「生かされた者の責任」として、自然の厳しさを理解し、
愛する地で生きる「覚悟」を決めた人々に向けた、彼独自のエールと読み取れる。

「憎くても 怖くても 許せなくても 
   それでも 私たちは あの場所を 
     この国を 愛してやまないのだから」

この最終節に彼の想いが集約されている。

日本は、国土の7割以上が山地で、人口が密集している都市のほとんどは
軟弱な地盤の沖積平野である。海に囲まれた南北にのびる日本列島は、
地域によって気候が異なり、生物の多様性にも富んでいる。
さらに、地球表層部を構成する4枚のプレートがかかわる特異な場所に位置するため、
世界でも稀な火山・地震列島である。
このような環境下のなか、日本では昔から様々な自然災害が多発し、
その度に多くの人々が、住居や土地を失い、悲しみに包まれつつも、
そこから立ち上がり、助け合いの中で復興するという歴史を繰り返してきた。

「無常」という宗教観は、人間が「自然をコントロールすることは出来ない」
ということを十分理解したうえで、それでもなお日本人が自然と向き合い、
この地で生きていくために身につけた諦めの精神であったと塾長は言う。
諦めは明らめ、明らかにするということに通じると。

「またやって来たからと言って春を恨んだりしない・・・わかってる
 わたしがいくら悲しくても そのせいで緑が萌えるのが止まったりしないと」
 (引用:ヴィスワヴァ・シンボルスカの詩「眺めと別れ」から)

自然は人類に無関心である、確かにその通りであろう。
ヒトの感情に関わらず、四季は毎年繰り返されるもので、そこに自然の意志はない。
自然災害もまた同じである。
「自然と対立するのではなく、受け流して再び築くという姿勢」が日本人の
国民性として定着していた。しかし、ヒトは自然には意志が存在するものだと願い、
心のどこかで自然と対話し、対等の時間を持とうとしてきた。

テクノロジーの進化で、人類は地球上で強力な権力を手に入れ、
人々の快適な暮らしを追求するがために、アニミズムからヒューマニズムへと
考え方は移ろい、ヒトが自然を超越する存在であるかのように錯覚してしまった。
人類は未だ地球上の自然の一部であり、ソノ存在は何ら特別なものではない。
先進技術を過信し、それ無しでは生きられないという非常に弱い生物でしかないのに。

地球が、海水温の上昇やコンクリートジャングルと化した都心で発熱をおこしても、
熱を冷やすために巨大なハリケーンを発生させ大量の水を降らせても、
寒さや暑さを凌ぐための森林が伐採され山肌が崩れようとも、
そしてレアメタルや石炭等地球の骨格を削り取られたとしても、
地球は何も言葉を発することはない。

人々が自然をコントロールしようとする知恵と技術の結晶で災害防止を図る中で、
自然はあるがままに行動する。人々が快適な生活を欲するがために継続される
人間中心主義の活動から派生する自然災害は、全てにおいてその活動の
副産物でしかない。

今、コノ時代に我々が体験した惨事で、ヒトは何を感じ、何に気づくのだろうか?

大量生産・大量消費というライフスタイルから、本格的にサステイナブルな時代へ
方向転換する時期がすでに訪れているのかもしれないと強く感じる。

(菊池 記)