日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

義経 第23回「九郎と義仲」その2

昨日*1の続きです。

木曽軍の乱暴狼藉

上洛から2ヶ月ということで、治承二年(1183)9月後半だろう。2ヶ月どころか上洛直後の7月末には公卿の邸宅にまで群盗の横行が及んでいた様子*2
「義仲様には抑える術が御座いませんでした。」とナレーションが入りましたが、それが何故なのかの説明がないとサッパリ?なんじゃないでしょうか。基本的に主要因は、義仲軍が寄せ集めであること*3と、前年の大飢饉で兵糧不足であったことが挙げられるんじゃないかと思います。

木曽義仲義経、密かに対面

木曽義仲は9月20日に平家追討のため出陣しているので、上↑の設定と合わせるとその数日前あたりということになろうか。どうでもいいっちゃどうでもいいですな。
頼朝とは「情と理」で討論を交わしましたが、今度もまた身内の「情」をもって説く義経。しかし義仲の父義賢は、甥の悪源太義平に大蔵合戦で討たれており*4、それが通用しません。が、頼朝のもとでディベート技術を学んだ(?)義経はここで清水義高の話をすかさず持ち出す。するとどうでしょう!義仲は狼狽ぶりを隠せません。結局丸め込むことは出来ませんでしたが、義経の成長ぶりを垣間見せてくれました。(たぶん)
つーか、清水義高の遊び相手となる設定はこのためだったのね・・・。

前関白松殿基房の件

再登場した松殿基房について、昨日は「戻ってくるの早すぎない?」と疑問を投げかけましたが、『綾川亭日乗』さんのところで皇嗣選定の際に後白河院が招集したメンバーの1人であったことを知る。どうやら『玉葉』8月18日条のようです。よくよく考えてみれば、備前から戻ってくるのに半月あれば充分ですね。

*1:義経 第23回「九郎と義仲」 - 日本史日誌

*2:『吉記』7月30日条

*3:それゆえ、落ち目になると兵力はあっという間に激減。

*4:源義朝の上洛後、入れ替わるように北関東に下向して勢力を扶植し、それが鎌倉で留守を預かる義朝の長子義平との対立を招き、武蔵大蔵館(嵐山町)で義平の奇襲を受けて殺害された。