「なんにも用事がないけれど、汽車に乗つて小倉へ行つて来ようと思ふ」

 おこがましくも、百鬼園先生に捧ぐ、名付けて「新幹線阿房列車」。

 東京圏ではその姿を見かけなくなって久しき「新幹線0系車両」が現在運行してる西日本の路線からも遂に退くという。長く、日本の鉄道のシンボルで有り続けたこの車両は、高度経済成長期と言う全国民が思考停止をしていても何ら被害を被ることがなかった幸せな時代に誕生、指折り数えて40年という長きに渡って日本の最も有名な足なり得た本車両は、うまれた時の世情の脳天気さとは対照的に、真面目に日本の技術の粋を集めて製造された名車両と言って差し支えない。先年機械遺産にも登録され、名を成し功を遂げ後は引退するばかりとなった本車両がとうとう姿を消すという。せっかくだから、その動いている姿を目に焼き付けておいて、更にせっかくだから、目に焼き付けてくるだけでなく乗ってしまおうというわけである。

 せっかくついでに、ただ乗って帰ってくるのも面白くないので、ここは内田百間先生の『阿房列車』に習おうと思う。すなわち「なんにも用事がないけれど」に準じて・・・。とは言うものの「ある特定の車両に乗る」というだけで計画は破綻しているような気もしないではないが、百歩譲ってここは「車両に乗る」事のみを目的というこで、道中他の目的は果たさず、途中下車して観光など以ての外、という目的を今回の旅に課そうと思う。
 そう決めたは良いが、そうすることで具合の悪いことが一つ。私も人の子、鬼ではなし。普段縁のない土地を見てみたいと思うのは至極真っ当な人情である。今回、「せっかくなので」名古屋で降りて、死ぬ前に一度で良いから行ってみたいと思っていた大須演芸場に足を運ぼうと密かに考えていた。が、そうなると件の目的が果たせず非常に具合の悪いこととなる。どちらかを諦めれば良いではないかとそうすればそれまでなのだが、私も人の子、目の前にぶら下がった餌はどれも味見してみたいと思うのが人情というもの。これは困った。
 と言うわけで、「名古屋を鉄道の出発地」とすることで、名古屋での観光は御免としてもらうことにする。東京からの電車に依らず、名古屋からの電車を選ぶことで、時間に幾分余裕が持てそうであるし、朝早く名古屋に着けば宿を探す煩わしさもない。これはなかなか良い考えかもしれない。名古屋駅近くの駐輪場を探すのに少々苦労したことと、箱根から先の寒さが大層堪えたことを除けば、割合計画通り無事名古屋には着く。
 時間もあるし、切符の出発地が「名古屋市内」だったので、一駅二駅歩いて電車に乗ろうと思ったが、何故か太股が痺れて歩くのに少し往生、歩くのは一駅で諦め大人しく切符に鋏を入れてもらう。

 お目当ての電車は西日本所属のため、とりあえずはここから更に新大阪以西に行かなくてはならない。ここまでは件の電車が来ないためお世話になるのは最新車両の「のぞみ」号。用事があろうと無かろうと、この電車に乗る機会は今後もあるであろう、特に何の感慨も抱かずただ目的地までの足代わりに最新車両の「のぞみ」の道中は殆ど寝て過ごす。将来これが引退するときもやはり何らかの感慨が起こるであろうか、その時自分はどうなっているであろうか、車中そんな感慨の思い浮かぶことは無くただひたすら眠る。ところで名古屋駅ホームのきしめん屋にニシン入りきしめんが置いてあるのはちょっとやり過ぎではないか?
 寝てる内に新大阪は過ぎる、新神戸に近づくとトンネルに突っ込む度の気圧の変化が目覚ましの替わりとなり、大抵はここで少し目を覚ます。姫路を過ぎて車窓の看板に「びぜん」の文字が目立ち、すぐ岡山に着く。寝ていたのであっという間である。新幹線で200キロの速度を出そうが在来線で100キロ満たない速度を出そうが、道中寝ていればいずれもあっという間であるので速度にあまり意味がない。ドイツだかアメリカだかの偉い学者の論だそうである。イスラエルだったか・・・。
 
 岡山駅は文字通り岡山県の玄関口であるが、そんなことは今日はあまり関係がない。関係があるのは岡山駅に一日一本博多行き0系「こだま」の始発設定があると言うことである。指定席が取れなかったので、早めに自由席の列に並ぼうと思って発車時刻より2時間ほど早く岡山に着くが、件の列車目当てとおぼしき人の姿はまだ見えず、辺りは2本早い「こだま」を待つ人々、駅に冠婚葬祭客の列車を待つ様は絵になる。たぶん過去に見た映画のワンシーンに同様のカットがあったことで勝手に思っているのであろう。待つ人の特に婦人の着る喪服、これが和服でなければ同様の思いを描いたか。そんなホームに2本先の「こだま」が静かに入る。

 てっきり、2時間前には既に黒山の人集り、自由席を並ぶことはおろかホームに近付くことさえもできないことを覚悟の上で来たモノの、1時間前になってもそれらしき人の姿はまばら、些か拍子抜けの感もないではないが、それはそれ、こうなったら腰を落ち着け待ってみることに。少し余裕が出たおかげで、目当てのホーム以外の様子が良く解るようになる。解るようになるとホームを通る電車の様子がよく解るようになる。とは言ってもここは新幹線のホームなので新幹線しか通らない。つまらないので待合室でぼーっとしていることにする。するといつの間にかパラパラと人の列、まだ大分時間はあるが、次に来るのは件の列車しか考えられないので、恐らくここに現れる人々は件の目的を同一とする人であろう事予想して私もその列に混じることにする。列中の順番は悪くないモノの、丁度列が曲がる角に並ぶことになり、前を向いても横を向いても人が立ちこれでは列車が入ってきたとき具合が悪い。かといっていざ列車の中に入れば間違いなく席を取ることのできる順番のこの位置も捨て難く、後のことは列車が入ってきたときのことと開き直ってこのままでいる。辺りには、カメラを持った子供とそれに連れ回される大人・カメラを持った大人とそれに連れ回される子供。
 そうこうしている内に入線の時間がやってくる。静かにともガタゴトとも言い難い音と共に丸みを帯びた弾丸型の頭が突き刺さってくる。カメラを持った子供とカメラを持った大人が不用意に近づかないように目配せする駅員の余計な仕事はこれからもしばらく続く。私はと言えば、入線の気配を前に既に思い切って場所を移動、駅員に注意もされず、人頭も妨げずなかなか良い位置にて入線を待つ。が、後からその良い位置を見つけた人頭が次から次へと目の前を覆うようになるにそう時間はかからず、周りすぐに黒山の人集りとなる。
 指定席が取れなかったので、自由席に座る。人集りの割には車内に入る人は割合多くなかったらしく思ったより楽に席を確保できる。確保した席に荷物さえ置いておけばもう用は済んだようなモノ、後は安心して発車までの時間を自由に過ごせるわけでありこれ即ち後顧の憂いを絶つという奴である。せっかく入った車内を一度失敬して外に出て、先程の弾丸型を持つ電車を眺めることにする。

 今や少なき、丸みを帯びた愛らしい横顔にしばらく見とれていたが、すぐに飽きたので車内に戻る。車内の戻ると、常の旅とは違う空気が流れているのを感じる。好まざる旅があるのも世の常、そこが今日のこのときこの場所に集う老若男女、全てが好む旅を為す、目的も同じくする、修学旅行でもなければこのような空気が車内に流れる事はあるまい。これは素直に好ましい光景である。やがて時間が来たので電車は動く。先程と同じように列車に近づく人々をあしらう駅員の様子が見える。
 物心付き、初めてこの電車に乗ったとき、目にも止まらぬ速さで過ぎていく風景に反して、常日頃乗る電車とは全く異なる振動のなさに驚いたものだ。東京から名古屋まで停まらないというのもまた曲者で、静かに目にも停まらず外の景色が過ぎ去っていくのを見ていれば、それを追う目玉が疲れていつの間にか瞼に納まる。目が覚めるのは大抵京都で、途中喉が渇いて当時あったビッフェにでも行かない限り、流石に泰然盤石と見える富士山も見逃してしまう。ところが今日乗るこの車両、先程乗った最新型の車両と比べて随分と喧しいこと、これも乗ってみて初めて気が付く。そうこうしている内に新倉敷に着く。新倉敷で三分の一の乗客が降りる。ホームには相変わらずカメラを構える人がいる。新倉敷の次は福山に停まる。福山の次は三原に停まる。これ以上乗客が様子はないが増える様子もない。
 東広島と広島で若干乗客が増えるが私の方はそろそろ乗ってることに飽きてくる。電車にただ座っていることはそんなに苦痛なことではないが、超高速でこまめに停まる不思議な感覚に苦痛でない妙な心持ちになり、少し余裕が無くなる。余裕が無くなるとどうでも良いことが思い出されてくるもので、今ここにいるために池袋の新文芸坐で上映される『鴛鴦歌合戦』を見逃してしまう事が非常に悔やまれだんだん腹も立ってくる。好きで電車に乗っている癖に勝手に腹を立ててこれはイケナイというので、少しだけ空気を吸うため途中適当な駅で降りることにする。よって次に停まる駅は徳山だったことと次の駅で降りることに全く関係はない。

 徳山で一旦降りたが、意味は分からないがとりあえず切符は小倉までの行き先になっているので、ホームから離れることはない。下に降りる階段の一段たりとも降りることはしない。徳山駅はの南側はすぐ海で港で沢山の船が見えるが駅の外には出ないので関係ない。気持ちも落ち着いたので次に来たさっきのとに比べたら先のひしゃげた電車に乗って西へ向かう。日暮れて、本州最西のトンネルを抜けて小倉に着く。

 小倉からはせっかくなので、これも近い内に無くなる東京行きの寝台列車に乗って帰る。旅らしくB寝台の下段に席を取ったは良いが、下段は実は不便である。再び九州最東のトンネルを抜けて下関に着く。最盛期の過ぎて、利用しようもない無駄にホームの多い駅は最高である。ホームの形まで古い。客車の窓を通して見えるホームは大分緑青がかって見える。もう寝ろとばかりに以降車内放送が途絶えたのでさっさと寝る。