ひきこもりと罪悪感

瞬間沸騰!!!!!!及び今後の話について

アフリカでの惨事を救う何かいい手ない?
そして、いい手があったら、全力で何とかしてみない?

前回紹介した『ニセモノの良心』の孝好さんがアイディアを募ってる模様です。
でオレは寄付のような行動はまったくするつもりはなくそこのコメント欄でも

あとオレはなんせひきこもりなんでアフリカを救う為に全力でやるつもりはまったくないです。それとこういった運動が罪悪観を刺激した上で行われるのもどちらかというと反対。でホワイトバンドのように何かオシャレとかかっこいいからやる、というのもイマイチ・・・。
でオレがこういった事をする動機として唯一いいなと思ってるのはその行為自体が面白いから、というものです。・・・とこういうと多分怒られそうですけど、面白くてやってるなら見返りは当然必要ないし、感謝される必要もない。怒られるかもしれないし顰蹙を買うかもしれないですけどその代わり偽善にはならない。
全然具体的でなくて申し訳ないですけど動機の部分が非常に重要というか自分の興味でもあるので一先ずこれについてはどうでしょうか?

と書いた。
でもこれだけじゃうまく伝わらないというかこれについてもう少し詳しく突っ込んでみたくなったので、罪悪感をテーマにしてちょっと書いてみます。非モテについて書いた話とも繋がってるようにも思うので。
そこでまずひきこもりと罪悪感についてオレが考えてる事から。






【働かないことの罪悪感】
これがひきこもりの苦悩のうち、かなり大きなウエートと閉めていると考えられる問題。このことに関してかなり強い罪悪感やあるいは負い目を感じている。これが殆ど無い人はオレの定義上ひきこもりでなくニート。特にそれによって自分の将来がどうなるとか以前に現に今何もしていないその事自体から強い圧迫を感じているのだと思う。
少なくともオレは感じている、いや「いた」。
過去形なのは現在のオレはまたちょっと違うからなのだけど、ではこれについて今どう考えているかというと

  • ひきこもりにおける罪悪感は「正当」だが決して「正統」ではない

こう考えている。
今現在の、あるいは近代の思想、価値観の中でのそのまた日本と言う特定の地域において、そこに生まれ育ったものが「働いていないこと」に罪悪感や負い目を感じるのは至極まっとうで正当、な事なのだと思う。ひきこもりは自分でいうのもなんだが凄く「真面目」なのでこれをまともに受ける。がそれだけしかないのならそれは過度の罪悪感である、とも思っている。もう一つ歴史性という軸や別な価値観の系を踏まえるならば。
前に書いたように江戸時代において江戸町民の3割位は定職につかないフリーターだったようだ。こういう社会であったのなら定職に付かないことが罪悪感や負い目になっていたとは考えにくい。では働かないこと、金になることをしないこと、はどうか。
修行僧という存在があった。彼らのやっていることは社会的にはおそらくまったく何の役にも立っていない。当然金になるわけもない。ではなぜそれで生きていけてたのかと言えば「お布施」というシステムによって支えられていたからである。彼らは別に世界の平和を願って修行をしてたわけではない。個人的な苦悩があってそれを徹底的に突き詰めるために「山」に入って修行したのだろうと思う。その刹那的とも言える社会の価値観の系から逃れる為に。そしてそういった場や存在が許され支えられていたのはそれによって何らかの普遍にいたる、結果的に社会に何らかの利益をもたらす、そういう可能性についての了解があったから、じゃないかと考えられる。
とにかくそういうわけで、働かない生は歴史上ありえたし、あるいは今でも例えば東南アジアの男なんかは殆ど働かなかったりするらしいがそれでも社会は成立する。
つまり今のここ、だけでなくかつての(あるいは未来の)あそこという軸は常に存在するしこの二つは両立出来る。むしろどちらか一方にしか生きていないのならそしてその影響しか受けていないのならその認識は浅いとも言える。
そしてどちらに重きを置くかというのも最終的には個人の決断としてあるのだと思っているが、後者が軽んじられる社会は貧しい、と個人的には思う。どこかの時点でおそらく行き詰る。(更にもっと突っ込んでいうと歴史の変わり目においてより重要だと見なされるのは後者の方である、とも考えているのだけどこれについてはまたどっかで書きたいです。)




とにかくそういうわけで今現在オレが感じている罪悪感はかつてほど大きくはないしかといって無くなったわけでなく、ある程度適正な値になっていると勝手に思っている。この「適正な値」というのが重要。
なぜならこの罪悪感というものが過度にあったりあるいは逆に極端に無かったりすることが色々な問題を起こすと考えているからだ。場合によっては人を狂わすことになると。
ホワイトバンドに限らずこういった慈善事業などのある種の運動は殆どの場合人の罪悪感を刺激することによって成り立っていることが多い。あるいはそういう方法論によって力を得ている。そこでオレがもっとも興味を惹かれるのはその罪悪感が適正な値であるかどうか、というところにあったりする。
オレが孝好さんの記事にコメントしたりこうして記事を書いている動機は多分そこ。すでにして孝好さんの文章に過度の罪悪感のようなものを感じているから。
オレはコメントでも書いたがはっきり言ってアフリカの貧困問題などあまりに遠い話であり、興味のレベルはとてつもなく低い。だからオレの問題意識はそこにはなくて

  • 極端な貧困にあえぐ社会(地獄)とひきこもりのような何にもしなくても生きている人間のいる社会(天国)が同時に存在する(そしてそれが認識可能な)世界において、天国に住む人が感じざるを得ない罪悪感の適正な値

というところになるのだと思う。これがオレの興味の中心。
ここで注意して欲しいのは適正な値といっている以上これはあくまで一般論として、ということ。もし個人としてそれが非常に重要な問題で人生を賭けて行うというなら話は別。けど今問題となっているのはネットで普通の人が行えるレベルの話、アイディアだと思うので普通の人がどの程度それを感じて行動できるか、という事でその前提の部分の話になるかと思います。
もっとも適正な値などあるのかは謎ではあるんですけど、どう認識するかには結構大きな問題がいくつかあるように感じているので。




という事でこの話は続く・・・