東北/岩手・大船渡市 釜石市へ

2014年5月4日/5日/6日/7日の4日間、岩手県の大船渡市と釜石市を訪問してきました。

東日本大震災で被害を受けられた場所へ沖縄民謡やポップスを聞いてもらいに行きました。
最近の記事については、facebookで書く事にとどめていましたが、
改めて、ブログで書いてみる事にしました。
昨年7月以来、10ヶ月ぶりの東北となります。

2014年5月4日 大船渡市

昼過ぎに花巻空港へ到着後、花巻空港からレンタカーを借りて、大船渡へ!。
釜石道を経由し、二時間ほどで大船渡に到着しました。
その後、大船渡屋台村で知り合った、平山さんと1年程以来の再会。
この日は平山さんファミリーに同行させてもらい、平山さんのおばあちゃん(ばっちゃん)宅に泊めていただく事に。今日は特に演奏の予定もなく、平山さんに「どこか案内してあげるよ」という、ありがたい言葉をいただき、碁石海岸に行きました。
この日碁石海岸では「観光まつり」が開催されていたものの、碁石公園に到着すると観光まつりは終わっていて、碁石海岸を散策する事にしました。
平山さんからは、大船渡に関する色々な事を聞きました。
気仙地方の地形や、雷岩(波打つ音が雷のような音がする)の音が震災後、良く響かない事や、そして防波堤の話。
今度こそ、津波を食い止めるように、精密計算をした大きな堤防を作っている話等を聞きました。堤防は今度こそ、役に立ってくれるのでしょうか。巨大防波堤、人の命を守るものですので、しっかりとしたものが出来ればと思います。巨額の予算を使い、今度もダメは絶対に許されません。少し懐疑的です。


その後、夜は気仙地区唯一の沖縄料理屋「ゆめんちゅ」へ。
「ゆめんちゅ」は、大船渡屋台村の中にあります。
大船渡の繁華街はすべて津波に流され、跡地を復興させる熱い心を持った方が作った仮設店舗で出来た屋台村です。はじめて大船渡を訪れた日にこの店を訪問し、Hさんご夫婦と出会いました。それ以来の付き合いです。
この日は屋台村のステージで演奏させてもらう事になりました。
折角の機会なので八重山民謡を沢山披露したかったのですが、受け入れてもらう自信がなく、仮設で演奏する沖縄ポップスを中心に演奏しました(実力不足!準備不足!)。
夜のステージでしたが、昼間は半袖で過ごせる暑さに比べ、夜は冷え込みが厳しく、平山さんファミリーも寒さに震えながら見てくれました。すいません。しかし、最後はカチャーシーで、被災地支援に来られている「今そこに落語と笑いを配達する演芸団」の方や地元の方とカチャーシーで楽しみました。感謝。
その後、交流をしたかったのではありますが、ゆめんちゅの圭二さんには、後日お店を訪問する事を伝えて、今日は平山さんのばっちゃん宅へ。平山さん一家に囲んでもらい、大船渡の伝統料理(締め煮や山菜)や海の幸をごちそうになり、あつかましすぎると思いつつも、甘える事に。本当に幸せです。ありがとうございます。
大阪にも来て欲しいです。

2014年5月5日 大船渡市


震災から三年がすぎましたが、復興住宅の建設も徐々には進んでいるようです。
朝起きて、平山さんのばっちゃん宅近所に出来たという、「復興住宅」を見せてもらいました。
立派な住宅ですが、抽選順だそうです。
やむなしとはいえ、抽選順は難しいですね。
震災から3年間、仮設住宅で築き上げた人間関係も、復興住宅に移った時はもう一度やり直しだそうです。若い人はそれで問題ないのでしょうが、年配の方にはこの方法が本当に良いのかと思いました。

5/5は一カ所の仮設住宅を訪問。
ゴールデンウィークの祝日という事で受け入れてもらえる仮設住宅がほとんどありませんでしたが、
以前訪問した「長洞仮設」で受け入れてもらいました。




前回は集会場での演奏でしたが、今回は集会所近くのサポートセンターにて演奏しました。
長洞仮設は大船渡で最大規模の仮設で、集会場の他に、公民館やサポートセンターなど様々な施設があります。
沖縄を感じるようなポスターを張っていただき、職員の方には感謝です。


演奏はいつもと変わりませんが、何とか無事に終えました。
チラシもいつもと変わりません。出来るだけの事を精一杯やろうといつも思います。
演奏後に、長洞仮設の自治会長さんがおっしゃりました。
『山蔵さんは一年後、またここに来てくれるかも知れないけど、おそらく半数の人がここを出ていなくなっているだろう。そして他の仮設住宅から、新たな入居者がやって来るだろう。』とおっしゃってました。
先述の復興住宅や集団移転などで、仮設を退去する住民の方が今年から増えてゆくという話です。
大船渡市では、学校等、敷地を借りている仮設住宅が優先的に閉鎖となり、最終的に長洞仮設のような大規模な仮設が残るそうです。来年、大船渡を訪問した時には、どうなっているんだろうかと思いました。

そして、夜は「ゆめんちゅ」へ。
「ゆめんちゅ」はいつもお客さんで一杯です。
「儲かってるでしょ」というも「大変ですよ。」とおっしゃってました。
店内で、近藤さんというバイカーと出会いました。
近藤さんはバイクで日本中を旅されているとの事ですが、最近はもっぱら東北に来ているとの事、数ヶ月おきに、石巻のお気に入りの店(失念!)で「ささかま」を買い、そして大船渡で「ゆめんちゅ」に来て、しこたま呑む事だそうです。他にも近藤さんの楽しみが色々ありそうですが、聞きそびれました。

店内で話をしました。主に旅の話をしました。
旅の手段は色々あれど、旅の楽しみは「人との出会いだな!」という結論になりました。
僕もそうだなと思います。色々な方々との出会いがあったから、この東北も沖縄も好きになったと感じています。ボランティアではなく、「旅」に来ているんだ!と感じると妙にスッキリしました。人との出会いを大事に時々、この旅を続けてゆきたいです。

ゆめんちゅの圭二さんが言っていた「震災前よりも良い町にしたい」という言葉が心に残りました。
これから夏に掛けて、屋台村のステージでライブを連日されるとの事です。
屋台村の周辺が電灯が少ないからか、暗いのが気になっていました。
もっともっと屋台村を中心に町が盛り上がってゆけばと思います。

2014年5月6日 釜石市

今日は釜石市に向かいます。


早朝に出発して時間があったので、釜石に向かう前に、陸前高田に向かいました。
2011年の5月に「まごころねっと」を利用して陸前高田でのボランティア活動に参加し、
その時に「奇跡の一本松」は遠くからみた事がありましたが、「奇跡の一本松」を近くでしっかりみた事はありませんでした。それで一度見に行く事に。
「奇跡の一本松」については、あまり感動はありませんでした。
個人的には、億単位の補修金額をかけるよりかは、高田松原を復興させるための植林費用に、もしくは住民の為に使って欲しかったですが、でも地元が選択した事なので、観光資源として、うまく行けばいいと思います。
駐車場でお守りを販売していましたので、一つ購入しました。
岩手県津波の地域については一律の方針があるそうで、「8mかさ上げ工事を行う。」そうです。その為か、山からベルトコンベアでかさ上げの為の石が運ばれていました。
まだ陸前高田も当たりは一面更地ですが、来年来た時は少し変わっているかもしれません。

この日は以前訪問した仮設を中心に三カ所回りました。
甲子第6仮設 10:00〜11:00
天神仮設   13:00〜14:00
小白浜仮設  15:00〜16:00




小白浜仮設では一つ、失敗をしてしまいました。
車のライトを付けっぱなしで演奏してしまったのです。演奏が終わり、その後のラジオ体操にも混ぜてもらい、帰ろうと思ったら、バッテリーが上がっていました。結局、仮設の方に助けてもらい、またエンジンをかける事はできました。
ご迷惑を掛けてしまったのですが、その後、談話室での演奏に来られていない方とも交流できました。お礼を何かしないとと思いますが、また交流できれば嬉しく思います。

一日、仮設を三カ所回るのは久しぶりで疲れましたが、その後は花巻温泉でのんびりしました。鉛温泉の藤二旅館でした。最高でした。もう一日、東北に居させてもらう事にしました。


2014年5月7日 釜石市






花巻温泉でテレビを見ていると、三陸鉄道の特集が放映されていました。
まだ三陸鉄道には乗った事がありませんが、乗ってみたくなりました。
釜石⇔盛間を運行する南リアス線に乗るため、8時半過ぎに花巻温泉を出発し、
釜石駅には11時に到着。時刻表を見ると予想以上の運行する本数が少なく、今回は乗車する事を見合わせる事にしました。
変わりに空いた時間で、久しぶりに大槌町を訪問してみる事にしました。
釜石から大槌町までは20分程度あれば行く事ができます。
大槌町には何度か訪れた事がありましたが、今までは仮設住宅のある「小槌」地域しか行った事がなかった為、
他の地域も訪ねてみました。大槌町役場の辺りは被害が大きかったようで、一面更地でした。
しかし、更地ながら、更地の8mかさ上げ計画は進んでいるようでした。
一年後には一定の成果があるかもしれませんが、すべての仮設が無くなるにはまだまだ時間がかかりそうです。

この日は一件だけ、演奏予定がありました。
14:00 特別養護老人ホーム「アミーガはまゆり」


以前、仮設で知り合ったSさんに紹介してもらった場所です。
震災直後は、避難所になっていたそうです。
施設がとても豪華で立派なステージでビックリでした。
過去に新日鉄釜石時代に、釜石の町を築き上げてきた方が入居されています。
ここでも特にこれまでと変わらずに演奏しました。
スタッフの方に盛り上げていただき、感謝でした。

Sさんとは時々、釜石の事を伺う機会がありましたが、あまり時間がなくお伺いできませんでした。残念ですが、また釜石にもいつか来たいと思います。
「鉄の街」釜石も、新日鉄住金釜石となり、より町が栄えてゆくことを希望します。
震災の傷跡はまだまだ癒される事はありませんが、それでも少しずつ、復興に向かい始めていると思い、釜石の町を後にしました。