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2009-02-21

エリザベス・クレア・プロフェット


 1冊読了。


 27冊目『イエスの失われた十七年』エリザベス・クレア・プロフェット/下野博訳(立風書房、1998年)/資料的な要素が強く、読み物としてはさほど面白くない。だが、桁外れのインパクトがある。イエスの人生は13歳から30歳にわたる期間の記録がない。キリスト教ではこの間エジプトに行っていたことになっているそうだ。本書ではイラン(ペルシャ)からアフガニスタンを経由してインドへ行ったことを検証している。つまりイエスは、17年間仏教を学んでいたって話。凄いのは証拠があるところ。チベットのあちこちで伝説が語り継がれ、僧院にはパーリ語で記された『聖イッサ伝』(※イッサ=イエス)という羊皮紙状の仏教経典が多数現存しているそうだ。で、この文書を直接目撃した3人のテキストの一部を各章で紹介している。巻末の原注、および訳者あとがきも興味深い内容だ。堀堅士著『仏教とキリスト教 イエスは釈迦である』(第三文明レグルス文庫、1973年)と併せ読めば完璧。

『生命の尊厳/人間の世紀 第1巻』時実利彦編集(潮出版社、1973年)


生命の尊厳/人間の世紀 第1巻


 このような構想にたてば、この問題の論議は当然、自然科学だけでなく、いろいろな人文科学や宗教の分野の方のご参加によってなされねばならないはずであるが、執筆者の数が制限されているので、心ならずも、私を含めて10名に絞らせていただいた。そして、ご執筆いただく内容は、1の田中美知太郎氏と2の澤瀉久敬氏とには哲学的立場からの生命の問題を、3の神谷美恵子氏と4の梅原猛氏とにはそれぞれ西洋と東洋の生命観を、5の渡辺格氏と6の高橋秀俊氏とには最近の進歩した自然科学の観点からの生命観を、7の遠藤周作氏と8の池田大作氏とには文学・宗教者としての生命の見方を、9の榊原仟氏には医学に立脚した生命への対処の仕方をお願いし、10の私は人間学的生命観を述べさせていただいたような次第である。幸いにも、ご依頼した方々は執筆をご快諾され、このような立派な論文を寄せていただいたことは、編集者として身に余る光栄であり、読者の方々にも、さぞ喜んでこの本を手にしていただけるものと信じている。


【「まえがき」時実利彦(ときざね・としひこ)】

右翼思想からみた、自己責任バッシングの国辱ぶり


 国民は憲法的命令で国家を操縦する。これが常識。政府の言うことを聞かない国民は反日分子とほざく議員がいた。法的命令がない限り政府の言うこと聞かないのが国民だろうが。憲法に国民の義務を書けとほざく輩が議員を名乗る国ならでは。


宮台真司 2004-05-30

片麻痺〜利き手でない手で文字を書く/『リハビリテーション 新しい生き方を創る医学』上田敏


 脳梗塞など脳血管障害によって片麻痺になる人は多い。以下は、利き腕の側が麻痺になった場合、どのように反対の手で文字を書くかという具体的な手法。これは覚えておいて損はない――


 ただ、利き手でない手で字を書くには訓練の順序がある。字を書くときは筆圧が必要で、ボールペンにしろ鉛筆にしろ、手に力を入れて書かなくてはならない。ところが右利きの人は左手で字を書いた経験がないので、書いても初めは力が入らず、うすい弱々しい線しか引くことができない。強く書こうとすると、今度は力が入りすぎて真っすぐな線にならないし、必要以上に線が伸びてしまったりする。

 そこで筆圧を強めるために、まず「塗りつぶし訓練」をする。これは塗り絵のようなもので、たとえば四角や三角、丸、あるいは大きな白抜きの文字の中をきれいに塗りつぶす訓練である。この訓練をすると一定の長さの直線を、一定の強さで引けるようになる。この訓練は次の段階に入ってからも続けていく必要がある。

 次に、子どもが字を習い始めるときと同じように、丸やバツ、三角、四角のような簡単な形を、初めは大きな枠の中に書く訓練をする。その枠をだんだん小さくしていって、最後は普通の原稿用紙の枠内に形がうまくおさまり、きれいに書けるようにもっていく。これも大切な基礎訓練の一つである。

 この二つの基礎訓練をしばらく行ってから、字を書く練習を始める。


【『リハビリテーション 新しい生き方を創る医学』上田敏(講談社ブルーバックス、1996年)】


 言語野がダメージを受けると失語症という高次脳機能障害となる。様々な症状があるのだが、話せなくなるケースも多い。こうなった場合、文字を書けるか否かが非常に重要となる。


 五十音を表記した文字盤を指で差したり、質問を繰り返して相手に挙手してもらう方法もあるが、障害を負った方が生き生きと人生を送るためには、より積極的なコミュニケーションをとる方法を確保しておくことが望ましい。


 私は50代になったら、片麻痺に備えて左手で箸を持ち、文字を書く練習をするつもりだ。備えあれば憂(うれ)いなし。

リハビリテーション―新しい生き方を創る医学 (ブルーバックス)

砂漠の民 ユダヤ人/『離散するユダヤ人 イスラエルへの旅から』小岸昭


 流浪の民ユダヤ人は、砂漠に追放された民でもあった――


「私にとって、砂漠の経験はまことに大きなものでした。空と砂の間、全と無の間で、問いは火を噴いています。それは燃えていますが、しかし燃え尽きはしません。虚無の中で、おのずから燃え立っております。」(「ノマド的エクリチュール」)

「おまえはユダヤ人か」という火を噴くような問いを、このように「砂漠」を憶(おも)いつづける自分自身につきつけて思考するのは、エドモン・ジャベス(1912-91)である。エジプトからヨーロッパの大都市パリへ移住してきたこの詩人は、さらにこれにつづけて、「他方で、砂漠の経験は研ぎすまされた聴覚とも関係があります。全身を耳にする経験と言っても差しつかえありません」と言う。ジャベスのこのような「砂漠の経験」の根底には、当然のことながら、追放という濃密なユダヤ性が鳴りひびいている。

 エードゥアルト・フックスによれば、少なくとも1000年間は砂漠の中に暮らしていたというユダヤ人は、その「研ぎすまされた聴覚」によって、迫り来る危険をいち早く察知する能力を身につけていた。砂漠の遊牧民だったユダヤ人は、地平線から近づいてくる「生きもの」が獣であるか人間であるかを、そのかすかな音を耳にした途端すでに聞き分け、刻々と変化する危険な事態を乗り切るため、つぎの行動に素早く移行しなくてはならない。こうして砂漠の経験は、忍び寄る危険の察知能力ばかりでなく、あらゆる状況の変化への同化能力を彼らの中に発達させた。


【『離散するユダヤ人 イスラエルへの旅から』小岸昭〈こぎし・あきら〉(岩波新書、1997年)】


 実に味わい深いテキスト。砂漠という空間と、ユダヤ民族という時間が織り成す歴史。


 養老孟司が『「わかる」ことは「かわる」こと』(佐治晴夫共著、河出書房新社)の中で興味深いことを語っている。耳から入る情報は時間的に配列される。つまり、因果関係という物語は耳によって理解される。一方、眼は空間を同時並列で認識する。


 つまり、だ。迫害され続けてきたユダヤ人は、歴史の過程で「強靭な因果」思想を構築したことが考えられる。彼等が生き延びるためにつくった物語はどのようなものだったのだろうか。そこにはきっと、智慧と憎悪がたぎっていることだろう。


 民族が成立するのは、「民族の物語」があるからだ。そして民族は、過去の復讐と未来の栄光を目指して時が熟すのを待つようになる。

離散するユダヤ人―イスラエルへの旅から (岩波新書)