― 本部幹部会 ―

昭和54年4月25日 広宣会館で、本部幹部会が行われましたが、先生用の椅子が並べられていませんでした。

H川副会長(当時墨田区長)が指摘すると、担当役員が
「先生がいらないと言われたので」と
「そんなことはおかしいじゃないか、用意してください」
「いらないと言われています」
と押し問答になり。
「師匠がいらないと言われても、用意するのが弟子じゃないのか」と。
先生は「私はこれでいいから」とパイプ椅子に座られ、指導らしい指導も無かったそうです。


― 第四十回本部総会 ―


↑ SGIグラフ 2003年5月号 ↑


本来であれば栄光の日である5月3日。
早朝に先生は、牧口竹林でこう記されました。
『内外の策動により 我 清水の心にて 勇退に臨む  大作』と‥‥。

その日、pm2:00創価大学中央体育館において“七つの鐘”の総仕上げを記念する、第40回の本部総会が行われました。
壇上右手の席は、僧侶で一杯。左手に学会幹部。先生は、途中からそっと入場されました。

会合前、司会の方から「今日は、先生は途中で退席されます。その時に立ち上がって、『ワーッ!』とか『先生!』とか『拍手』など、一切しないように。先生は静かに出ていかれますので」との説明がありました。
そのため紹介の言葉も無く、拍手も遠慮がち、「先生」と言えないなんとも押し殺した雰囲気の場内。

挨拶に立たれた先生は「戸田先生逝いて二十一年。ここに創価学会創立四十九年。学会第一期の目標である『七つの鐘』を打ち鳴らしたことによって、ひとまず私は、牧口常三郎先生、戸田城聖先生の遺言は、皆様方の絶大なるお力を得て、私の代としては、ことごとく遂行したことを確信いたします」と述べられた後に、会合の途中で席を立たれ、そっとお辞儀をされて退場されたのです。

先生が退場される際も「先生!」と呼びかける声も、拍手もないのです。
まるで、お葬式のようでした。先生のその振る舞いに、涙を浮かべていた婦人部もいました。

その上、いつも先生が使われるお部屋は、日Tの控え室になっており、学会本部にも先生のお部屋は無かったのです。

このときの日Tの挨拶原稿は、すべてY崎が書いたものでした。


昭和54年(1979年)の5月3日、私は、ただ一文字、「誓」としたためた。それは、私が第3代会長を辞任した直後の本部総会の日であった。
師弟の「誓」に生き抜く限り、恐れるものなど何もない。

【5.3記念代表者会議 2006.4.28付 聖教新聞


― 随筆『新・人間革命』 ―

一九七九年、すなわち昭和五十四年の五月三日―。
間もなく、創価大学の体育館で、“七つの鐘”の総仕上げを記念する、第四十回の本部総会が行われることになっていた。
本来ならば、その日は、私にとって、偉大なる広宣流布のメッセージを携えて、創価の栄光を祝賀する日であった。
すべての同志が熱意に燃えて、楽しき次の目標を持ち、至高の光を胸に抱きながら迎えゆく、歓喜の日であった。
尊い広布の英雄たちが微笑をたたえ、共々に、珠玉の杯を交わしながら祝うべき日であり、大勝利の鐘を自由に打ち鳴らす日であった。
しかし、嫉妬に狂った宗門をはじめ、邪悪な退転者らの闇の阿修羅が、この祝賀の集いを奪い去っていったのである。

午後二時から始まる総会の開会前であった。
妬みと滅びゆく瞋恚の魂をもった坊主を乗せたバスが、大学に到着すると、私は、ドアの前に立ち、礼儀を尽くして、彼らに挨拶した。
ところが、坊主たちは、挨拶一つ、会釈一つ返すわけでもなく、冷酷な無表情で、傲然と通り過ぎていった。
学会伝統の総会は、いつもの学会らしい弾けるような喜びも、勢いもなく、宗門の“衣の権威”の監視下、管理下に置かれたような、異様な雰囲気であった。
墓石の上に座らされたような会合であった」と、ある幹部が後で言っていた。激怒した声が多々あった。

会場からの私への拍手も、どこか遠慮がちであった。
また、登壇した最高幹部は、ほんの数日前の会合まで、私を普通に「池田先生」と言っていたのが、宗門を恐れてか、ただの一言も口にできない。
私をどうこうではない。それは、強き三世の絆で結ばれた、会員同志の心への裏切りであった。
婦人部の方が怒っていた。
「どうして、堂々と、「今日の広宣流布の大発展は、池田先生のおかげです」と言えないのでしょうか」と。
私が退場する時も、戸惑いがちの拍手。
「宗門がうるさいから、今日は、あまり拍手をするな。特に、先生のときは、拍手は絶対にするな」と、ある青年部の幹部が言っていたと、私は耳にした。
恐ろしき宗門の魔性に毒されてしまったのである。言うなれば、修羅に怯えた臆病者になってしまったのである。
しかし、私を見つめる同志の目は真剣であった。声に出して叫びたい思いさえ、抑えに抑えた心が、痛ましいほど感じられた。
体育館を出た直後、渡り廊下を歩いている私のもとに駆け寄って来られた、健気な婦人部の皆様との出会いは、今も、私の胸に深く、くい込んで離れない。


会合が終わり、特別の控え室にいた高僧や坊主どもに、丁重に挨拶をしたが、フンとした態度であった。これが人間かという、そのぶざまな姿は、一生、自分自身の生命に厳存する閻魔法王に、断罪されることは、絶対に間違いないだろう。
仏法は、厳しき「因果の理法」であるからだ。
私は思った。
――宗門と結託した、学会攪乱の悪辣なペテン師たちは、これで大成功したと思い上がったにちがいない。彼らは、「これで、計画は着々と準備通りに進んでいる。これでよし!これで完全勝利だ」と計算し、胸を張っているだろう。
その陰湿さと傲慢さが、私には、よく見えていた。私はずる賢き仮装の連中の実像を、その行動から見破ることができた。


この陰険極まる、狡猾な連中には、断固として、従ってはならない。いかなる弾圧を受けようが、「忍耐即信心」である。
学会は、蓮祖の仰せ通りの信仰をしている。死身弘法の実践である。柔和な忍辱の衣を着るべきである。

師子となりて 我は一人往く 1999.5.1 桜の城62P】


狂気そのものの中傷の集中砲火のさなかにあった七九年五月三日、本部総会が創価大学の体育館で行われた。
首脳幹部も、不安と戸惑いを隠せなっかった。私への拍手も遠慮がちな姿が痛々しかった。いな、浅ましかった。
総会が終了し、渡り廊下を歩いていると、数人の婦人たちが、「先生!」と叫んで、駆け寄ってきた。お子さん連れの方もいた。一目、私に合おうと、ずっと待っていてくださったのであろう。目には涙が光っていた。
「ありがとう!お元気で!」
私は、大きく手を振り、声をかけ、全力で励ましを送った。そして、思った。
“これからこういう人たちを、本当の善良の市民を、誰が守っていくのか!冷酷非道な法師の皮を来た畜生たちが、民衆の上に君臨すれば、どうなってしまうのか!”

【「5・3」と創価の精神 「広布誓願」の師子よ 一人立て 1998.4.29】


別の資料にもこのときの模様があります。

会場を出られた先生が、渡り廊下を歩いていると、会場に入れなかった数人の婦人部のメンバーが先生を見つけ、静止しようとする役員の制止をふりきって「先生」と叫んで駆け寄った。
先生は、「おいで、おいで」と呼ばれ、全力で激励されました。

その後「誰があの人を守るのか、誰があの人を幸せにするのか。誰がこの人に「先生」と呼ばせてはいけないんだ。「先生」と呼ぶのは自然だろう。」「この人たちを、私は一生守っていく。君たちは、好きにしなさい」と言われました。

先生は、この日のご心境を、お歌に託されました。

『嵐吹く 難を乗り越え 堂々と 七つの鐘打つ 今日のうれしさ

昭和54年5月3日 創価大学にて』

『法難に 遂に鳴らせり 鐘七つ 広布の城を 厳と築きぬ

昭和54年5月3日 嵐の中で 大作』


― 断簡十七 錫杖の音 ―

五月三日、創価学会第四十回本部総会がおこなわれた。これにはH管長が出席した。H管長は出たくないと言っていたが、D寺住職のSが説得したものだ。H管長はSに、
「総会で、どうしゃべったらいいかわからないから、Y崎さんに聞いてくれ」
と述べたという。事後Y崎は、
「僕の書いた原稿を猊下はそのまま読んだ」
と、Hに話したという。Y崎は五月四日付で日蓮正宗法華講大講頭になった。大講頭になったY崎は、
「天下の創価学会会長と僕は同格だよ。池田さんの上だよ。戸田会長と並んだよ」
と語った。

Y崎は、師である池田会長がじゃまになり、宗門をつかって勇退に追い込んだのです。


「紅の歌」 3  一人立つ