shaka2005-12-05

どーも『ビジョメガネ』が気になって仕方がない今日この頃のshakaでございます。ラインナップに不満はあるものの、逆にメガネパワーで好感度がアップするのか。試してみたい。
土曜日はまたもダラダラ寝て、起きてから長らく積みDVD化していたヨーロッパ企画の『ロード・ランナーズ・ハイ』を見ました。これはホント劇場で見たかったなあ。正直、面白さという点では、劇場での臨場感ありきの作品である。芝居としてそれは正しいのだが、やはりDVDだと半減。まあ、面白かったんだけどね。やはりヨーロッパ企画は劇場で味わいたいね。
昨日はこの季節恒例の某打ち合わせ。今年は思わぬ出来事もあって色々と考えることもあるのだが、やはりこのメンバーでワイワイと話すのは楽しいし刺激的。来年に向けて頑張ろうという気になる。毎年のことながら、年末から本番までの三ヶ月くらいは忙しくなるけど楽しみつつ頑張ろう。

『ツール・ド・フランス 1985~1991 7YEARS BOX』(ASIN:B0009RB77Y)

ぐわわあああ、ほ、欲すぃ。悪名高きフジテレビに放映権が移る前のNHKが放映を担当した7年分のツールが今ここに!。私はBSで見てたんですが、1985年の放送を見て、イノーのファンになり、レモンの奮闘、そしてアームストロングが登場するまでは伝説の5連覇を果たしたインデュラインの登場と、この時期のツールは面白かった。まだドーピング問題に犯される前だしね。こういうのはホント、NHKアーカイブという形で放映して欲しいと思いますよ。

『あの日、少女たちは赤ん坊を殺した』ローラ・リップマン(ISBN:4151716580)

ミステリのジャンル、というか属性のひとつに「4F小説」と呼ばれるものがある。FとはFemale、つまり「女性」。探偵(捜査官)、作者、翻訳者、そして主な読者、その4つが全て女性である作品を「4F小説」と呼ぶ。私がこの言葉を知ったのは、多分サラ・パレツキーの作品の解説だったと思う。そして、その後スー・グラフトンパトリシア・コーンウェルの作品の流れの中で一時期隆盛した。中には犯人や被害者が女性、という場合に「5F」「6F 」という表現を使う場合もあった。これは当時のアメリカ(文学)でフェミニズムが高まったこと、そして現実の事件において犯人、被害者が友に女性、という事件が増えたこと、『羊たちの沈黙』を例に挙げるまでもなく女性捜査官が一般的になったこと、などが大きな原因だと思われる。しかし現在ではわざわざ「4F」という表現を使うことも少なくなった。それは、上記のような現状が当たり前になったからとも取れるし、「フェミニズム」という言葉を出して、その種の作品を評価することが逆にタブー化されてきたからではないかと勝手に推測する。
しかし、本作を読むと「4F小説」もここまで来たか、と思わずにいられない。本作では、二つの事件が描かれる。ひとつは7年前に起こった幼女の誘拐殺人。被害者が3歳の女児、そしてそれを誘拐し殺害したとされるのは11歳の二人の少女。
もうひとつの事件は7年の月日が経って刑務所から二人の少女が出所し、再び幼女誘拐の事件が起こる。しかし、事件とは別にクローズアップされるのは7年前の事件であり、その被害者の母親、二人の少女、少女の母親、その弁護士の女性、7年前に幼女の遺体を発見し、今再び幼女誘拐事件を担当することになった女性捜査官。事件記者。この作品で描かれる人間像のほぼ全てが女性なのである。いわば「9F、10F小説」とも言うべき展開となっている。
物語はひとりひとりの女性の多視点で語られ、7年前の事件を引きずったそれぞれの女性たちが、再び起こった事件を核にそれぞれの「病んだ精神」を語っていく。これがとにかく重くて気分が悪い。エゴ、虚栄心、プライド、そして異常性。そういったものばかりがどす黒く蠢いていて、読み進めるのがとにかく辛い。また、ぼやかされたままの7年前の真相が、現在の事件とどう関わってくるのかがあまりにも見えづらく、二つの事件の真相に辿り着いた時は正直に言って「隠しすぎ」という思いが強く、衝撃というよりも違和感が先に立ってしまった。二人の少女それぞれが行きつく先も含めて、視点をこれほどまでに変化させ、しかも少女たち自身の独白まで多用していながらこの結末、というのはなんとも解せないものがある。
ただ、この作品の結末や多視点での構成などは、ある種のドキュメンタリー手法に近いものがあり、作者はあえてそういう形をとったと思われるのだが、それが結果としてミステリーというジャンルとは一線を画してしまったようにも感じられる。確かに事件は起こるし、謎も存在し、それが解き明かされる(という表現とは違う気もするが)。だが、ミステリーという言葉が内包するエンタテイメント性は、この作品には皆無である。かつてミステリ界において「人間が書けていない」という言葉が流行したが、それをさらに揶揄した言い方をすれば、この作品では「人間を書きすぎた結果、ミステリが書けていない」ということになるだろう。
重苦しい作品を書くミステリ作家は多くいる。だが、彼ら(彼女ら)の作品は、ミステリ、ひいては小説というジャンルにおける「エンタテイメント性」や「物語性」は失ってはいない。しかし、この作品においてはいわゆる「萌え」や「キャラクター性」とはかけ離れてはいるが、ひたすら「人間」だけが描かれたような感覚を持ってしまう。
そんなわけで読むのが非常に辛く、遅々として読み進まなかったわけだが、それでも挫折せずに最後まで読もう、むしろタイトルや解説からそれをある程度予想できたにもかかわらず本書を手に取ったのは、この作品がバリー賞とアンソニー賞のダブル受賞作品だったからである。作家や業界関係者だけでなく、読者からも選ばれた作品であるからには、それだけの面白さと価値があるに違いない。まあもうひとつの理由に、ローラ・リップマンは女探偵テス・モナハンのシリーズを書いており、こちらを未読の私としては、本書を読んでみてシリーズに手を出すかどうかの判断基準にしたかったというのもある。
たがしかし、こうして読み終わってみて思うことは、現代アメリカのミステリというジャンルが少なくとも私の好む方向からは激しくズレていっているということだ。今年文庫化された『サイレント・ジョー』は2002年のMWA受賞作であったが、こちらも背景や語り口は重く、「病んだアメリカ(もしくはアメリカの地方)」というものが描かれていた(でもこちらは面白かった)。昨年、エドガー賞候補に桐野夏生の『OUT』(これも好きな作品)が挙げられたが、現代のアメリカではミステリという分野においても「社会の病理」というものを描くのが受賞に値する作品の大前提になっているのかもしれない。
一方では講談社海外文庫に代表されるような、今でもサイコキラーやアクション性の高いストーリーを重視した、私が勝手に呼ぶところの「ハリウッド型ミステリ」が相変わらず多作されている印象である。私にとっての現代アメリカミステリは、大雑把にいってこの両極端に限られてきたという印象なんだよなあ。もちろん、実際にはそんなことはなく、様々な作品が書かれていることは理解していますが。表に出てくる、というか海外に詳しくない人間にとって手に取りやすい「××賞受賞」とか「全米でベストセラー」とかいう惹句におびき寄せられると、どっちかに行きつくような気がする。これはまあ識者の方から見たら鼻で笑ってしまうような意見なんでしょうが。個人的にはいわゆる「ノワール」の影響を引き摺った結果なんじゃないかと勝手に思ってみたりもする。
だいぶ作品からは外れた話になってしまいましたが、そんなわけでこの作品からは「面白い」という感想を引き出すことはできそうにない。そこにあるのはただただ「現代の病んだ描写」。そういうのが好きな方は是非。個人的には「××賞受賞作」にはしばらく注意しつつ手に取ろうと思った次第。今はイギリスの方が面白いかもね。