遠藤浩輝「EDEN」が面白かった理由

それは原作つきじゃなかったから。

のっけからでアレなんですが、一週間ぐらい前、何かの拍子にこの着想がピキっと降ってきて、ちょっと考えてみると一応全部がつながったような気がしたんで(あくまで気ですよ?)、何とか文章化してみます。


EDEN(1) (アフタヌーンKC)

EDEN(1) (アフタヌーンKC)


原作つきじゃない。つまりは基本的に遠藤浩輝一人で作り上げたのが「EDEN」の世界だということ。編集者やアシスタントの協力はあったにせよ、クレジットのつく原作者はいないということが重要。

ウィルスとかサイボーグとかコンピューターとかの近未来SFをベースした「EDEN」には、ミリタリー趣味的な銃器・武器戦闘・格闘技といったマニアックな設定あり、マフィア・ドラッグ・売春なんかの裏社会モノあり、軍事・経済・民族問題みたいなマクロ的なネタまでカバーと、実に広範な要素から成り立っている。んで、これらがひとつの世界としてまとまっているのは、ひとえに全てが遠藤浩輝というフィルターを通して構築されているからじゃないか、と。そう思う訳です。遠藤ワールドとでもいうべきそれは、ぱっと見いろんなネタを詰め込んだ集合体のように感じるけれど、すべてがある一定のコード(センスと言い換えることもできる)によって選られている。余談ですが、富樫義博の「レベルE」や「HUNTER×HUNTER」にも、これと同種の物語世界の構築観があるように思えてなりません。

一方で描かれるのは、あまりにもリアルでちっぽけで、等身大な人間ドラマだったりします。同氏の現代モノの短編集などでも描かれる、感傷的とも言えるあのテンションは、「EDEN」でも同じく底流としてあると思う。残酷な現実にさらされたときの、人の脆さ、あるいは強さを描かせたら、この作家は超一流なんじゃないかな、とさえ思いますね。序盤の山場であるワイクリフの散り様や、“EDEN流”人類補完計画とでもいうべきラストでエンノイアの吐いた「くそったれ」など、もうホント心にしみます。もちろん先に述べたハードな物語設定と、心情たっぷりのドラマがうまく融合するのも、やはり遠藤浩輝という一人の優れた趣味人による統治が、作品全体を貫いているからに他ならなく−

〈エンタメ〉と〈純文〉

・・と、ここまで思考がまとまってくると、やはりというか何というか、「あの理論」のことに触れざるをえません。ちょっと「EDEN」を離れますがご容赦を。僕がおそらくは大学生の頃から何度も何度も頭に思い描いてきた、〈エンタメ〉と〈純文〉論です。


〈エンタメ〉=特殊な環境で普遍的な感動を描く

〈純文〉=普遍的な環境で特殊な感動を描く


言い方はいくらでもあるんですが、まぁ例えばこんな言い方で表わすとしてみます。

「エンタメ」というと、学園モノだったり、SFだったり、時代モノだったり、サスペンスだったりと、実に様々なジャンルと設定がある。そこの面白さがエンタメの命だと思うんですが、一方でキャラの心情なりストーリーの要素なりの物語内容は、設定という殻をむいでいくと、案外分りやすいものだったりします。主人公の成長だったりとか、恋愛だったりとか友情だったりとか。

「純文」はその逆。物語の内側に重きを置くとでもいうか。ありきたりのカタルシスは避けられ、その特殊性・一回性が問題になってくる。別に学園モノの「純文」がない訳でもないけれど、別にその設定自体を読みどころにしてる訳じゃない(つーかそれは「学園モノ」とは言わんか)。

で、さらに話がややこしくなりますが、ここで〈エンタメ〉〈純文〉とカギカッコに入れてるのは、アニメイラストが描かれた文庫本のことや、函入りの全集のことを言ってる訳じゃないからなんですね。「エンタメ的」とか「純文的」とかのように、「〜的」という意味で語られなければならない。あくまで物語の性質・性格を論ずる際の指標として使っています。

で、もう一段階、論の抽象性をアップさせることになりますが、この認識、記号論を源流としたいわゆる「テクスト論」がベースになってたりします。シニフィアンシニフィエ、〈物語言説〉と〈物語内容〉、このあたりのタームにピンと来る方なら話は早いのですが・・。現役を引退してから長いので、残念ながら上手く言語化できそうにありません。下手に書こうとすると、ドツボにはまるので・・。スミマセンがwiki読んでみてください。

シニフィアンシニフィエ」:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%8B%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%B3
物語論」:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A9%E8%AA%9E%E8%AB%96

ただひとつ言えるのは、こうした理論って考え方の純粋な経典であって、無理やり現象レベルに落とそうとすると、まずは失敗してしまう、ということです。あくまで思考のフレームとして持っておくべきツールかと思います。


読むための理論―文学・思想・批評

読むための理論―文学・思想・批評

↑学生時代からのバイブルです。


えー、言いたいことの半分も書けていませんが、この手の「『何を』『どう』描くか」といった、形式−内容とでもいうか、全ての物語に内在するその二面性を、僕は常に意識してきましたよ、ということです。〈エンタメ〉〈純文〉論も一緒で、どういった話の内容ならエンタメ、あるいは純文とかじゃ全然なくて、物語の見せ方や、物語に対するアプローチやスタンスみたいなものが二つを分かつのではないかと、ずっと思っています。その意味においての、先の定義な訳です。ちなみに、この視座に立てるようになると、いかに物語にとって表現方法が重要なのかを、ひしひしと感じることができます。「神は細部に宿る」と言いますけど、優れた〈物語言説〉には、それなりの〈物語内容〉(=神)も宿ってくれるんじゃないかと。全然意味違うかもしれませんがw

再び「EDEN」

で、やっとこさ「EDEN」に戻ります。

原作つきにしない、遠藤一人で描いたからこそ「EDEN」はオモロかった。遠藤視点でチョイスされたマニアックな世界観とディティール、一方でのベタな中二展開。相反するようなそれらの要素が、不思議と融合する所に、何ともいえない気持ちよさがある。どっちが欠けても駄作になると思います。奇跡的ともいえるバランスを保ってるからこそ、「EDEN」は最高に面白いのではないでしょうか。といった所でまとめにしておきます。


EDEN(18) <完> (アフタヌーンKC)

EDEN(18) <完> (アフタヌーンKC)


しっかし何で「EDEN」、映画化されんかな。マジで不思議でならん・・。